チューリングその2

kotosys2005-10-25




1912年6月、アラン・チューリングはロンドンに生まれる。当時イギリスの植民地だったインドに役人として渡っていた父は、アランが生まれると任地に戻り、母もしばらくすると幼い彼をロンドンに残して父の元へ行く。幼いアランは、乳母や両親の友人、親戚などに預けられ、年齢に達すると全寮制のパブリックスクールに入学することになった。



14才になったチューリングは、パブリックスクールに入学するのだが、その初日にいきなり災難が降りかかる。ストライキと重なってしまい、交通機関が使えなくなったのだ。鉄道が使えない状態では、この時代、ほぼ移動の公共交通手段はない。
チューリングは、誰も想像しない手段でそれを乗り越えた。学校までの100kmを、自転車に乗って走破してしまったのだ。当時、地元の新聞まで取り上げたという快挙だが、本人に快挙を成し遂げたという気分があったかどうかはわからない。
彼のエピソードには、この手のものが結構ある。
科学者、特に数学者となると、青い顔をして体力のかけらもない、貧相な青年像を思い浮かべがちだが、チューリングは外見は貧相かも知れないが、体力が無いということはなかった。青年になるとオリンピックを真剣に考えた、という話が残っているほどのロードランナーで、2時間50分を切る記録を持っていたという。世界記録が2時間30分台の当時の市民ランナーとしては立派な記録である。
また、自転車好きの話も色々と残っている。あまり人と交わるのが得意ではないチューリングは、一人で自転車に乗ってあちこち走るのが好きだったらしい。



パブリックスクールでは、科学には興味があるものの、とりたてて優れた所があるようには思えないという評価がなされていた。
イギリスの、というよりイングランドパブリックスクール(名門私立学校くらいの意味)というのは一種独特で、ただ学業を修める場ではなく、精神まで鍛え上げるという目的があった。大英帝国の未来を背負って立つ人材の育成、というわけだ。ちなみにイングランド以外の地域、ウェールズスコットランドパブリックスクールといえば、単に公立の学校のことを指す。
パブリックスクールは大学教育への前段階という認識もあり、当然ながら教育は大学教育のための基礎学習が中心になる。今の日本のように、誰も彼も大学に通えるという条件ではなかった時代だから、高額の費用がかかるパブリックスクールの学生であるということは、将来のエリート層であるということでもあった。



そういった雰囲気に、チューリングはなじめなかった。
頭は良いかもしれないが、数学に限らず、自然科学の天才が少なくなくそうであるように、世間一般の学生たちとは少し興味の対象が違っていた。普通の授業になじめず、教師にもなじめず、学友にもなじめない彼は、周囲からも浮いた存在だっただろう。
今がどうかは知らないが、別にイングランドに限らず、西欧の名門校と呼ばれる学校で最も重要視されるのは、教養である。ギリシア哲学やラテン語の修辞学など、現代社会に何の利益があるかわからないような学問を学ばされるのが常だった。現代のヨーロッパでも、大学に入るまでの過程でラテン語を学び、試験を受けなければならなかったりする。
だから、昔の自然科学者には、人文の分野の教養が深い人物がたくさんいた。数学者が気分転換に哲学論文を書く、などということもごく普通だったりした。
科学の分野だけに秀でていても、それは人格形成上不十分であるとされる風潮があったのは確かで、教養という部分に興味が向かないチューリングは、ちょっと頭の回転はいいものの、人格形成に難ありと教師陣に思われていたかもしれない。



学校で、彼は一人の友人を作った。
その少年はチューリング同様科学好きで、同じ興味を持つ者同士、最新の科学について幼い議論を交わしたり、実験をしたりして時を過ごした。
少年はチューリングよりも成績上は優れていて、奨学金を得た上でケンブリッジ大学に進むことが決定していた。ところが、卒業を控えたある日、彼は永遠にその機会を失ってしまう。
結核に斃れたのだった。
チューリングにとって、それが初恋だったとされる。
亡くなった友人に、チューリングの思いが届いていたかどうかはわからないが、少なくとも同性愛の関係があったわけでは無いらしい。チューリングの片思いだったようだ。
チューリングの喪失感は大きかっただろう。友人の母親に彼の写真を贈ってくれるように頼み、届くと、その写真が自分を頑張れと励ましてくれていると感謝の手紙を書いている。
チューリングは亡き少年の遺志を継ぐようにしてケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに進学するが、このたった一人の親友への思いから始まった彼の同性愛志向が、彼を後に悲劇へと導くことになっていく。



1931年、チューリングは大学に入る。
この年は、前項でいえば、ドイツ軍内部からエニグマ暗号機の秘密がフランスに漏れ出した年に当たる。翌年にはポーランドでレイェフスキが暗号解読に成功している。
世の中の動きを見ると、1929年に起きた世界大恐慌の影響が深刻化し、世界は不景気の底であえいでいる。5月にはオーストリア中央銀行が破綻し、そこで起きた経済恐慌が瀕死のドイツ経済にまで波及していた。ナチスが労働者や失業者たちの絶大な支持を集め始めたのもこの時期からだった。
アジアに目を向けると、この年の9月に柳条湖事件が起き、満洲事変が始まっている。事実上の日中戦争の開始である。
世界は、再び起こる世界大戦への気配を、薄々感じ始めていたかもしれない。



数学者となるべく学び研究するチューリングは、おそらく様々な偉人と出会っていただろう。
哲学、論理学、数学という学問は、わりと親和性が高いようで、少なくとも1930年代くらいまでは、この分野をまたいで活躍する大学者がたくさんいた。
たとえば、哲学者として名高いウィトゲンシュタインはこの当時ケンブリッジにいたが、彼は航空工学を学んだ人間であり、また論理学でも功績を残している。
同じくケンブリッジにはバートランド・ラッセルもいた。彼は論理学者であり、数学者でもあった。論理学上の場で全数学を展開するという、素人には理解不能な事業を完成させ、数学の新たな大地を切り開いたとされる。哲学者としても一流であり、またのちにノーベル文学賞を受賞する文学者でもあった。科学者を集めての核兵器廃絶と科学技術の平和利用を訴えたパグウォッシュ会議開催に尽力したことで知られ、そのきっかけになったアインシュタインらとの宣言は、「ラッセル=アインシュタイン宣言」として名高い。



そんな偉人たちが、チューリングの学生時代にとりわけ話題としていたのが、ゲーデルという数学者が打ち出した一つの概念についての話だった。
クルト・ゲーデルという数学者が、20世紀の論理学史上最も重要とされる発見をしたのはまさにこの年、1931年。「不完全性定理」の登場である。
「数学は、自己の無矛盾性を証明することが不可能である」
という事を証明したのだ。
それまで、数学の問題は、理論上では必ず証明されるものと信じられていた。それが、ゲーデル不完全性定理によれば、決定不可能な問題は存在するという。
チューリングもこの問題に取り組んだ。決定不可能である、という問題を探し出そうとしたのだ。
この作業の中で、チューリングの天才が開花する。



1936年にアメリカに留学、プリンストン大学で研究活動をしていたチューリングは、あるいはそこでアインシュタインなどとも会っていたかもしれないが、それは彼の人生にとって大した出来事ではない。
大した出来事だったのは、この時期に彼が書き上げた論文だった。
1937年、彼は偉大な論文を提出する。「計算可能数についての決定問題への応用」というタイトルの論文には、のちに情報理論と呼ばれることになる学術分野を切り開く重大なアイディアが提示されていた。
チューリングマシン、と呼ばれることになる、仮想の機械だ。
この機械は、「無限に長いテープ」「そのテープを読み書きするヘッド」「機械の内部状態を記憶するメモリ」の三つの要素でできている。機械は非常に単純な理屈でできていながら、論理的に可能とされる問題になら、どんな問題にも解答できる性質を持っていた。
現代のコンピュータも、突き詰めていけば、この原理から一歩も外に出ない。
彼はコンピュータの基本概念を作り上げたのだ。
もともとは、ある問題が決定不可能かどうかという問題を回答する手段として考え出した仮想の機械だった。結局はゲーデル不完全性定理を別の表現で証明して見せる結果になったこの論文だが、その着想と結果は見事なものだった。
彼は、一流の数学者として学会から認められることになる。



このチューリングマシンは、この時点ではあくまで仮想の機械でしかなかった。テクノロジーがまだ追いついていなかった。無限のテープもなければメモリもなく、理論的には美しいものであっても、実現は不可能だった。もっとも、この時点ではそれで良かった。数学、あるいは論理学というものはそれで構わないのだから。
チューリングプリンストン大学で博士号をとり、当時プリンストンで教授を務めていた「原爆の父」「コンピュータの父」「ゲーム理論の父」ジョン・フォン・ノイマンに引き止められたり、それを断ったりしつつ、1938年にはケンブリッジに戻って穏やかな生活が続いた。
世間からある意味独立している大学の中では、彼の人生を大いに左右することになる同性愛の性向も、ある程度は受け入れられていた。
あまり身だしなみに気を使わず、決して清潔とはいえない姿で学内をうろついたり、一日15マイルのジョギングを欠かさず続けたり、自転車でカレッジの近辺を走りぬけたり、時には同性愛者の恋人と語らったりしながら、チューリングの頭脳は情報理論の先駆けを為して回り続けていた。



その生活が終わったのは、ヨーロッパの見せかけの平和が終わるのと同時だった。
1939年9月、イギリスはナチスドイツに宣戦布告する。
第二次世界大戦の勃発である。
同時に、チューリングは、ブレッチレーに設立されていた政府暗号解読班のメンバーとして招聘され、以後、ドイツの無敵の暗号「エニグマ」との戦いに身を投じることになった。