チューリングその3

エニグマ暗号機




1939年9月、それまでにオーストリアを吸収しチェコスロバキア保護領化していたナチス・ドイツは、ついにポーランド領内に侵攻を開始した。
ポーランド侵攻は、ポーランドと軍事同盟を結んでいるイギリスやフランスに対する宣戦布告と同じ意味。イギリス、フランスともに、ポーランドにドイツ軍が流れ込んだ翌々日に、ドイツに対し宣戦している。
第二次世界大戦の勃発は、チューリングの生活を一変させた。



大戦開始直前に、ポーランドから持ち出されたエニグマ暗号機のレプリカや解読用の装置の「ボンブ」は、海峡を渡ってイギリスに持ち込まれた。戦争開始の2週間前だという。
イギリス政府はただちに暗号解読の専門チームを結成することにした。
それまで、暗号解読といえば、言語学者や古典学者などの「言葉の専門家」の独壇場だった。暗号そのものの構造が、言葉遊びの延長線上にあると考えられていたためで、確かにエニグマ暗号機が登場する以前の暗号には、そういった側面も大きかった。
だが、エニグマという機械式暗号の登場で様相は変わり、特にポーランドでレイェフスキという統計学者がその解読に成功していたという事実から、数学や統計学、論理学、物理学などの科学者の存在がクローズアップされることになった。
ポーランドでのレイェフスキら暗号解読者たちの努力は、ドイツがエニグマ暗号機の改良を進める中で大きな壁にぶち当たることになったが、道筋は明らかにされた。それは巨大な功績だった。
イギリス政府はその功績を活かし、科学者たちを暗号解読に大量動員する。
そのメンバーの中に、ケンブリッジ大学のフェローとして数学研究を続ける若き天才、アラン・チューリングの名もあったのだ。



ブレッチレー近くの村に引っ越した彼は、毎日5kmの道のりを自転車に乗って通った。
物を考えながらの走行で、ときにチェーンが外れて派手にこけ、そのチェーンを直す手を止めて思索に入ってしまい、気がついたら大遅刻だった、ということもあったらしい。もっとも、その大遅刻を補って余りある成果をいつも出していたから、誰も文句が言えなかったともいう。
もともと変人ばかりが集められていたからさ、という意地悪な考え方もできるだろうか。
ブレッチレーに次々に集められてくる大英帝国自慢の頭脳たちは、まず、レイェフスキたちが開発したエニグマ暗号の解法と、エニグマ自体の構造についての研究に追われた。
つぎに、レイェフスキがぶち当たった暗号機改良の壁に挑む。
こちらはわりとスムーズに成功した。ポーランド政府と違い、イギリスの暗号解読当局には充分な資源があり、また人材も豊富だったから、対応できたのだ。



ドイツ軍は、暗号作成の鍵となるものを、一日ずつ変えていた。そのため、「日鍵」と呼ばれる。
この「日鍵」を解析できさえすれば、イギリス側はドイツの暗号通信をすべて解読できるようになっていた。
チューリングは、そういった日々の暗号解読とは別のテーマを持っていた。
将来的に、ドイツはもっとエニグマ暗号機を改造してくるだろう。それをあらかじめ予測し、対策を立てておけば、迅速に対応できる。数学者として様々なアドバイスを求められる中で、チューリングはドイツ側が改良してくるとしたら何を変えてくるか、それにどう対処したらいいかに頭をひねっていた。



ある日、チューリングは、解読されたドイツの暗号メッセージの中に、一定の法則性があることに気付く。調べれば簡単な話で、たとえば気象観測のような情報が中に混じっていたのだ。
気象観測についての報告などは、当然ながら一定の様式があるだろう。使う言葉も限られてくるし、その言葉の配置もある程度決まってくる。また、それが発信される時間や場所などもたいていは同じはずだ。
それだけ固定化されたデータがあれば、解析をより効率化させることができる、と素人なら思うところだが、問題はそう簡単ではない。その程度のデータでは、エニグマ暗号機が持つランダム性の罠をかいくぐることはできない。
現代のコンピュータがあれば、マシンパワーに物を言わせてしらみつぶしに数列を解読することで、容易に解読できる話だが、まだ当時はコンピュータが無い。
現在あるボンブでは、その解析には使えない。レイェフスキのアイディアは偉大だったが、それだけではいずれ対応しきれなくなることは明白だった。いつか暗号機の改良が行われ、ボンブをどれだけ増やそうが、要員をどれだけ増やそうが、歯が立たなくなる日が来る。



チューリングは、ブレッチレーに来てからひと月もすると、機械の設計にとりかかる。最初は概念を紙に書き散らすだけだっただろう。周囲の人間には、この精彩に欠けた30歳にも満たない青年が何をしているのか、わからなかった。わからなかったが、あまりに多種多様な人間が集められていたために、さほど目立ちもせず、チューリングは自分の仕事に没頭できた。
チューリングは、大学時代に彼自身が考えた、「チューリングマシン」の暗号解読版を作ろうとしていたのだった。
チューリングマシンと暗号解読機とでは、構造も役割も違うのだが、チューリングにとってはさほど問題では無かっただろう。要は、チューリングマシンという思考の産物があり、その枠組みにそって実用的な機械を考えるという素地がチューリングにはあったということだ。
通信文の中にある規則性に気付いてから、エニグマ暗号の組成研究、それに対応し暗号を解読して行くための劇的なまでの道筋の解明、その道筋をたどらせる機械の基礎設計にいたる作業を、チューリングはほとんど一人で行った。彼の論理的思考能力が、見事に発揮されていた。
翌1940年の初めには、製作する技術者も交えての設計作業は終了し、名前こそ一緒だったが革命的に新しい構造の「ボンブ」の製作が開始された。



ブレッチレーでの彼の評判は良かった。
快活とはいいがたいものの、人付き合いの感覚が壊れた天才などではなかった彼は、自分の研究成果やアイディアという物を独占したがる性向とも無縁だった。新たなボンブの開発にいたる数学的思考を、他の学者や技術者に説明するのを拒みもせず、他の部門で行き詰っていた課題に協力して新しいアイディアをひねり出すことも快く引き受けた。
数学者、あるいは論理学者として参加している彼だが、他の学術分野に対しても目を開いていて、専門ばかとは違う、視野の広さで知られるようにもなっていた。一例を挙げれば、自ら機械の設計に手をつけ、完成させてしまっていることから考えても、彼は電気についての知識を持ち、それを活かす術をも知っていたことがわかる。
もっとも、変人たる要素は充分持っていたようだ。
ひげをそったり、パリッとした服を着たり、という身だしなみの部分では、文句なしの落第。イギリス軍の伝統は、まず紳士たれ、というものだったから、管轄する軍の人間もあまりいい顔はしなかっただろう。もっとも、その部分に関しては軍部もさほど神経は尖らせていない。知的エリートである学者という連中は、往々にしてそうであるという諦めがあったのだろう。
ぼさぼさの髪で毎日ランニングを欠かさず、自転車を駆って通勤。ブレッチレーに着くと一人で部屋にこもりきりで図面を書き散らし、時に学者仲間と観劇に出たり、課題について熱くなるでもなく語り合う。
大戦中、連合国軍最大級のトップシークレットとして、その存在は決して表面化しなかったブレッチレー・パークの中で、チューリングはわりあい平和な日々を送っていた。



1940年3月に出来上がった試作第一号機は、残念ながら失敗だった。一日に一回暗号が切り替わるというのに、暗号解読に一週間もかけてしまったのだ。
だが、チューリングが果たしたエニグマ暗号の論理的解読の功績がそれでかすむものではなく、悪いのは機械だとばかりに改良が開始される。この改良は、チューリングも参加したが、むしろブレッチレーが持てる力を最大限動員したものといっていい。
なぜなら、この頃には、ブレッチレーの進むべき方向性を決める上級の暗号解読者たちが、チューリングの才能と彼の為したことの巨大さとを理解していたからだ。
論理的解読が成功したのであれば、その論理に沿って解読する機械を作ればいい話である。それは自明のことだ。試作一号機が失敗したのは効率が悪いからで、時間をかければ成功するというのであれば、その時間を圧縮するように機械を作り直せばいい。



1940年5月10日、ブレッチレーが最も恐れていた事態が起こる。
エニグマ暗号機の弱点に気付いたドイツ側が、暗号送信時の規約を改正したのだ。手順が変わったためにエニグマ暗号のそれまでの解読手法、つまりポーランド方式が通じなくなった。
解読される通信文の数は激減する。
時期は最悪。ドイツ軍が、いよいよ西部戦線への侵攻を開始し、ベルギーやフランス北部に雪崩れ込もうとしていた、まさにその日のことだったのだ。
5月26日までには、ドイツの電撃作戦の前になすすべもなく戦線を崩壊させて、連合国軍はイギリスへの撤退を余儀なくされていた。世にいう「ダンケルク包囲戦」と「ダイナモ作戦」である。6月初旬には、英仏海峡を越えてイギリスへと将兵が命からがら逃げ出している。
さらに戦況は悪化し、6月14日、ついにパリが陥落する。翌週の6月21日にフランスは降伏し、ナチスドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が誕生する。
7月には、後世のイギリス人の血を一気に沸騰させることでおなじみという、ダンケルク以後の「バトル・オブ・ブリテン」が開始される。要は、ドイツ空軍によるイギリスへの本土爆撃だ。



8月8日、ドイツ軍の情報が激減し、敵の手の内が見えなくなっていた連合国軍に、朗報がもたらされた。
ブレッチレーに、ついに新型のボンブが到着したのだ。
この試作機は成功だった。
ただちに暗号解読の作業が本格化し、またさらなる改良を加えつつボンブの量産が開始される。
バトル・オブ・ブリテンにおける対空戦略も、ブレッチレーからの解読暗号のおかげで好転の兆しを見せた。
世界初のレーダー網を備えて防備したイギリス軍も、初期にそのレーダー基地が破壊されてしまい役立たずになっていたのだが、攻撃目標の割り出しが暗号解読の線から可能になると、迎撃態勢も整うようになった。ドイツ空軍のミスも重なり、なによりドイツ空軍機の航続距離の問題が解決されないままに英本土空爆作戦は失敗へと傾いていった。
8月末のロンドン誤爆から始まる一連の相互の首都爆撃の中、地方にまで爆撃が及ばなくなったために、イギリス空軍は基地を再建することに成功、いよいよイギリス側の反抗が始まる。
息を吹き返したレーダー網とともにイギリス空軍の目となり耳となったのが、ブレッチレーの暗号解読班だった。



翌1941年、まだ続いているバトル・オブ・ブリテンはドイツの事実上の敗北に終わろうとしていた。また、真珠湾攻撃によるアメリカの参戦により、戦局は変わろうとしていた。
軍最上層と内閣のごく限られたメンバーだけがその存在を知るブレッチレーでは、新型ボンブを中心にした暗号解読が続けられていた。
家族にすら一切の情報漏洩が禁じられている中で、数千人のスタッフからなるブレッチレーの人々は、それぞれがそれぞれの役割を淡々と果たしている。そのメンバーはチューリングのような数学者や論理学者から言語学者、聖書学者、チェス名人、トランプの名手、町工場の技師まで多士済々で、士気高揚目的で9月に内密に訪れたチャーチル首相も驚いたという。
チャーチルはイギリス伝統の現実主義者であり、筋金入りの貴族主義的思考の持ち主でもあったが、諧謔精神と精神の余裕とを多量に持ち合わせた剛腹な人物でもあり、その様子を見て楽しくなったようだ。その面子が気に入った、とでもいうかのように、「金の卵を産む鳴かないガチョウたち」と彼らを表現した。存在自体がトップシークレットというサイレントな人々でありながら、生み出す情報はまさしく金の卵だった。
ただ、チューリングらにしてみれば、自分たちの仕事は決して順調ではなかった。
というのも、ボンブは決して万能の機械ではなく、また扱いも難しいものだった。現在の人員では運用に支障を来たしていたし、その性能を引き出すためにはさらなる資源の導入が必要だった。
その要請は上げていたものの、責任者であるトラヴィス中佐は、その要請をさらに上層部に上げることを拒否していた。軍官僚にはありがちなことだが、これ以上の予算措置をせずに、持てる力で最大限の効果を出すべしという考えだったのだろう。
だが現場はそう考えてはおらず、チューリングら上級暗号解読者たちは、連名で首相に手紙を出すことにした。
ラヴィス中佐を一応持ち上げておいてから、彼らはいう。
あなたに手紙を出すのは、通常のルートで何ヶ月も前から可能な限り努力をしてきたのに、首相の介入無しにはにっちもさっちも行かないところにまで来ているからだ。とにかくスタッフが足りない、と。
チャーチルは一読するやメモを書き、スタッフに渡す。「本日中に、彼らが求めるものすべてを最優先で与えよ」



その先、チューリングらがスタッフ不足や物資不足に悩まされることはなくなった。
いかに暗号解読班の力が高く評価され、期待されていたかの証だろう。
暗号の解読という課題は、現代の私たちが考えるよりもずっと巨大な影響力を持っていた。それこそ、戦争の帰趨を決するひとつの要素である、というほどに。
後代の私たちはつい兵器や戦略戦術に目が行ってしまいがちだが、情報戦の威力というものは、特に第二次大戦では凄まじいものだった。それはヨーロッパ戦線に限らない。



余談になってしまうが、太平洋戦争でも、暗号に関して最も有名なエピソードを上げれば、ミッドウェー海戦がある。
戦略でいえば、日本海軍のそれは優れた物だった。ただし、いささか性急で戦術の柔軟さを失っていた部分は認められる。それでも、勝ち目の無い戦いではまったくなかった。
それがアメリカ軍の大勝で終わったのは、なんといっても日本軍の作戦計画がアメリカ軍にダダ漏れであったからだ。アメリカ側の司令官ニミッツは、広大な太平洋のど真ん中の日本軍に対し、その位置情報を暗号解読によって得て、的確に配下の艦隊を襲撃させた。
本来ならばミッドウェー諸島を襲おうとした日本軍の意図はアメリカ軍には読めず、陽動作戦に引っかかった末にまんまとミッドウェーを日本軍に乗っ取られて終わっただろう戦いだったが、暗号が丸見えでは、アメリカに攻撃して下さいといっているようなものだった。
海軍は空母戦力をこの戦いで丸ごと失い、熟練搭乗員を多数失ったことで、戦力を大幅に減らすことになった。太平洋戦争の転換点となる戦いだった。