ため息

別にたとえ話でもなんでもないのだが、自分が何かした時に、した分だけ誰かを傷つけてしまうという場合、普通の人はどう考えるだろうか。
私の中の常識では、とりあえず行動を止める。止めて、考えた上で、何をしても傷つけるだけだという結論しか出てこないようなら、その行動自体を捨てるなり考え直すなりするだろう。



厄介なのは、その何かというのが、付き合って行くことそのものだった場合だ。
ただ付き合って行くだけで相手を傷つけてしまう、あるいは、自分ではよほど気をつけて付き合っているつもりでも、不意に相手の心に突き刺さるような言動をしてしまったり、相手に心理的なダメージを負わせてしまう行為を無意識に行ってしまったりする場合。
この場合、その付き合いを捨て去ってしまえば相手を苦しませる事はなくなるのだが、捨て去ること自体で相手に回復不可能なダメージを負わせることだってあり得る。
そうなると、自己撞着に陥り、だらだらと相手と自分を傷つけながら付き合いを続けていかざるを得なくなってしまう。最も不幸な人間関係だろう。



では、そうなってしまったら、人間関係はどうにもならないのかといえば、人間はそこまで不自由な存在ではない。というより、人間はもっとアバウトでいい加減にできている。
成長だろうが退歩だろうが、人間は常に変化しているし、それは生物の定義を思い出すまでも無く、変化することと生きることとは同義なのだから、疑うべくもない。
相手との付き合いの中で、それまではどうしても相手を傷つけずには生きていけなかったものが、お互いの変化によって傷つけ合うことのない関係に進んで行くこともあるし、どちらかが傷つけずに生きて行く術を見つけて行くことだってあり得るだろう。



私は臆病かつ面倒くさがりで、相手が断ち切ってきた関係を自分から再構築しようとは考えない。以前からそうだったし、つい最近もそうした。
だが、相手が断ち切ろうとしない限り、自分が少しでも大切だと思っていれば、関係性をわざわざ自分から断ち切ろうとするほどには愚かでもないつもりでいる。それが苦労が絶えず、かつ傷つけあう日々の積み重ねが待っているとわかりきっていても、だ。
たとえ傷つけあう関係だとしても、お互いが向き合っている時間の全てがそうだというわけではないだろうし、傷つけ合うこと自体がお互いの人間性を高めていくこともあるだろう。
傷つけあう関係は、どう考えたっていいものではない。それだけなら、ということ。
それだけではない、と自分が思っていて、なおその相手との関係性を深めていきたいと確信を持てるというのならば、続けていけばいい。


諦める、というのは、一時的な感情の問題として片付けられる範囲のものであったとしても問題がある。
人間関係で「諦める」という言葉は、ほとんど禁句に近い言葉であるはずだ。
望んでも叶わないと悟り、あるいは計算し、望むことそのものを辞めてしまうことを諦めると表現するが、少なくとも人間関係において望みを捨ててしまう事は関係性の断絶と同義語だろう。
だから、私は、少なくとも自分が関わっていたいと願う相手に、諦めの感情は持ちたくない。
仮に一時的に感情が混乱し、ため息をつくようなことがあっても、それはあきらめの感情から出たものではない。自分の中の混乱を少しでも軽減するための、いわば気分の切り替えに必要な儀式、というような行為だ。
だいたい、自分が人様相手にため息をついて肩をすくめていられるほど立派な人物であるなどという傲慢さは、さすがに持っていない。
ため息をつくという行為がどれほど人を傷つけるか、私にだって経験が無いわけではないから、理解は出来る。だが、私がため息をついたことで、相手が私との関係性を諦めてしまう、と言い出されれば、ちょっと待てといいたくもなる。
相手が私に対して臆病になり、その臆病さから諦めの感情を持つようになったのだとすれば、わたしは百万言を擁してでもその臆病さを取り除くための努力をする。それだけの価値があると思える相手であれば、だ。
その相手が、少なくとも私には今、ひとり存在している。