恋愛、おもいつくままに。

 人を好きになるという事は、何度くり返していても難しい。


 世の中に恋愛小説や恋愛マンガ、恋愛論、さらに愛を語る歌が氾濫しているのは、恋愛に関しては真理や正解などというものがなく、場当たり的に自力でどうにかして行くしかないという事実を、存在で証明しているように思える。


 29年間だらだらと生きてきて、何度か恋愛をしてきた。その度に、うんざりするほど自分の情け無さを実感させられ、未熟さを突きつけられ、自分も相手も傷つけて、自覚無しに成長してきた。
 恋愛は人を成長させる。それを肌で理解したのは、実はそう遠い過去のことではない。
 恋愛をしていると、相手のことばかり考えているようでいて、否応無しに自分と向き合わされる。自分のどこを相手は気に入ってくれたのだろう、自分のどこが相手を傷つけるのだろう、相手を尊重すればするほど自分を見つめる必要が出てくる。
 好きな人のことを尊重する恋愛ができてきたのはつい最近のことだろう。それまでは、相手のことを考えて行動しているようでいて、実のところ自分の主張を通すための布石を打っていた気がする。
 利害抜きで、相手のことを尊重し、自分を捧げようとする恋愛が出来るのは、ある程度経験を積んでからでなければ難しいのかもしれない。
 今それが出来ているかどうかは、きっと自分ではわからない。いずれ、自分の過去を客観視できるほどに時間が経ってからわかることなのだろう。とりあえず、ある程度は出来始めているのではないか、と自惚れているのだが。


 文章にまとまりがない。今日は、このまま、思いつくままに書き連ねていくことにする。


 相手が想っていてくれること、それが信じられるかどうかは、相手の問題ではない。自分が相手をどう想っているかにかかっている。相手に想われる資格が自分にあるかどうか、それが信じられないでいる限り、相手の気持ちを信じることなどできるはずもない。
 自惚れて過信するのはまた別問題。だが、それでも幸せでいられればいいという考え方もある。それをどう考えるかは個人の勝手。


 友人と話していて、笑い話ではあるが意見が一致したのは、「男は、まずめんくいから始まり、おっぱい星人になり、最後に性格を見るようになる」というもの。例外は多少あるにしても、たいていはこうらしい。性格で女を選べるようになったら、人間性が成長した証なのだそうだ。そう言い切った友人の奥さんは、かなりの美人である。ちなみに、ぱっと見、あまり胸は大きくない。


 プレゼントは、それを選んでいる時間が相手にとっては貴重なのだと思う。その時間、少なくとも自分のことだけを考えていてくれたはずなのだから。


 何気なく渡されたもの、たとえばちょっとしたプレゼントの包み紙などが、捨てられなかったりするのはなぜだろう。そんなところにまで気を配ってくれた、という思いが、捨てる行為を邪魔するのだろうか。


 相手に関わることで自分を変えて行くことが正しいのかどうか、判断が付かない。恋人という存在に自己を同調させ、自己を変容させていこうとする心性そのものが、容認に値するものなのかどうか。
 自己というものは常に揺動しているもので、変化は必然的なものである。それは当然のことで、しょせん人間の心理などというものは、外界からの入力によって形作られているものだからだ。入力が無く変化も無い心、あるいは自己というのは、硬直しきり、熱力学でいう熱的死にも似た冷たい平衡状態にあるわけで、それを生きている人間の心理と呼ぶには、少なくとも私には抵抗がある。
 もっとも自己に肉薄する他者、それは間違いなく、子供にとっての親。ある時期の子供にとって、親は世界のすべてである。それに次ぐのが、恋人という存在ではないだろうか。人によっては、自己と恋人とを容易に同一化させ、自己同一性を恋人の見かけの自己、つまり本人が認識する恋人の自己に依存させてしまう。そこまでは行かなくとも、恋人に強い依存を見せる人は多い。
 自らを恋人の自己、あるいは自我によって形作ろうとするのは、あるいは怠惰なのかもしれないし、そういう自己の確立のしかたもあるのかもしれない。尊敬できる相手を見つけ、ある程度自己と同一化させることで成長を期する、というのは、昔からむしろ称揚されてきたやり方でもある。
 自己の確立は、どのみち自分ひとりでやれるものではない。問題は、自ら依存を図ることでそれをしようとするのが正しいやり方なのかどうか、というところ。私はこの疑問を少し持て余している。


 とはいえ、自分が、恋人との関わりで変わっていくことを自覚するのは、甘美なことでもある。