私は雪国の出身だから、「明日、関東は平野部も積雪があるかもしれません」などとアナウンサーに告げられたところで、大した感慨も無い。
 正月、実家に帰省したのだが、見事にこの冬最初の豪雪にぶち当たってしまった。間が悪いにもほどがあるが、降っているものは仕方が無い。自然にはどうやっても抗う術はない。
 私の実家がある地域は、別に「日本の豪雪地帯」などと大げさに表現できるほど積雪の多い地域ではないが、それでも、一晩降れば駐車場の車の車種が判別しかねるくらいには積もる。
 家の前の道を除雪車が通れば、駐車場と車道との間にその雪がどけられていくから、それをどうにかしないと車が出せない。車が使えなければ、一番近いスーパーまでは夏場でも歩いて30分かかる私の実家では、生存すら危ぶまれる。
 というわけで、今年の正月はひたすら雪かきをして過ごす羽目になった。日ごろの運動不足がたたり、筋肉痛になったのはいうまでも無い。
 まあ、いつかの年のように雪かき作業中に勢い良くダイブし、左肩の靭帯を痛めてゴールデンウィーク過ぎまで腕が上がらなかった、などという間抜けなエピソードを残さなかっただけ、ましだったというべきか。
 そんな田舎から戻ってきて、まだその雪の感覚が残っている人間が、降ったところでせいぜい10cmも積もるかどうかという南関東の雪に、それほどの想い入れも抱けないのは当然といえる。
 仕事上は、困る。私は営業職だから、交通機関が麻痺すると、何もすることがなくなってしまう。かといって会社を休むわけにもいかず、顔を見るのも嫌な専務のつまらないにもほどがある品の無い冗談口をBGMに、意味もなく机に座ってむだな書類仕事に精を出すことになる。
 休みの日なら、あまり問題は無い。もともと出不精な上に、とにかく金がないから、外に出ようという気にならない。雪が降っているのをいいことに、家でのんびりとごろ寝でもしながら本を読み散らしていてもいいし、こうしてブログを書くのも一興だ。
 今週末は彼女とも会わない予定になっている。そのことと雪とは無関係だが、恋人との逢瀬という理由でもなければ、わざわざ雪の日に外に出て過ごそうという気にもならない。未読のまま積まれっぱなしの本が、私を呼んでいる。


 雪が降っている。その風景が、天から舞い落ちる雪がカーテンのようだ、とか、空を見ていると雪の中に吸い込まれてしまいそうになる、などと表現できているうちは、実は暖かかったりする。
 もちろんそれは比較論にすぎず、温度計が−5℃をさしているのを見れば、氷点下をほとんど体験せずに越冬できる関東の気候に慣れきった人間はすぐに凍死しかけるのだが、それでも、実際に外に出てみると、その数字ほどに寒さは感じない。
 ひとつには、湿気があるからだ。
 気温が下がると大気の湿度は下がるのだが、晴れた日の太平洋側平野部で感じる乾燥度と比べれば、遥かに湿り気を感じさせる。体感温度というものには湿度も関係しているようで、雪がもさもさと降っていると、案外厳しい寒さは感じられない。
 それより大きい理由は、風だ。
 雪が上から下に降っているうちは、ほとんど風が無いということである。風が無ければ、体感温度はそれほど低くならない。
 雪が横殴りに降るようになると、とたんに体感気温は下がる。風が体温を奪うためもあるが、肌や服の袖口、襟元に付いた雪が融け、肌を濡らしてしまうせいでもある。濡れたところに風が当たれば、冷たいに決まっている。
 それでも、雪が雪として見えているうちはまだまし。
 雪国の人間がもっとも恐れる天気とは、ただ降雪量が多い天気ではない。
 地吹雪だ。
 この場合、雪は降ってこない。いや、降ってはいるのだが、見えない。
 轟々と低音を響かせながら吹き荒れる地吹雪の中にいると、視界は限りなくゼロに近くなる。昼間なら、視界すべてが真っ白。ひどいと、伸ばした自分の手がかすむ。夜なら、前を走る車のテールランプが見えた時には接触寸前だったりする。
 雪の粒など、どうあがいたって見えはしない。白い帯状の雪の集団がすさまじい勢いで駆け抜け、何もかも飲み込むようにして地面から凹凸を消し去って行く。おかげで路肩などあっという間に見えなくなってしまい、車も人も容易に道を踏み外す。
 こうなると、外に出るのは愚か者。
 大きな道を走っている車は、そのまま進むのを断念して停車し、嵐がすぎるのをじっと待っていたりする。時々外に出て、排気口の周辺を除雪する。一酸化炭素中毒にならないためだ。また、こういう事態になることを想定し、燃料計を絶対に半分以下にはしない、という人も多い。エンジンが止まれば冗談抜きで生死に関わる。
 山沿いに住んでいる場合は雪の重みで家がきしむほどの雪が一晩で降ったりするが、地吹雪は少ない場合が多い。逆に盆地の底などはそれほどの積雪は無いが、風が強くて難儀する。
 どちらがいいかといえば、やはり積雪量が少ないに越したことはないのだろうが、毎晩のようにサッシ窓を割れんばかりに強打する風雪の音を聞きながら眠るのも、なかなかうんざりさせられるものだ。


 やや遅きに失した話題を出せば、ホワイトクリスマス、というものは、たいてい東京のTV局がイメージをよく使いたがるシチュエーションだが、残念ながら東京でそれが実現したのは、観測史上数えるほどしかない。今シーズンも、降ったのは29日だった。はい残念。
 一方、雪国では、たいていの場合、とっくに根雪が積もっていて、クリスマスだろうがなんだろうが、雪が降ってくれば自動的に悪態が出るようになってしまっている。風情もへったくれもない。
 もちろん、ロマンチストというのはどこにでもいて、ありがたみを全く感じないほどありふれているはずの雪を見て感傷にひたってみたり、真っ白な雪の美しさに心をときめかせてみたりするわけだが、多少の山奥程度ならどこにでもコンビニがあるようなこの流通革命の時代、無粋なトラックがもうもうと排ガスを散らしながら走った、その排ガス中の粒子状物質を核として結晶化した雪に感動しているのだと思うと、なにやら哀れみを感じたりする。見方がひねくれているだけだ、といわれればそれまでだが。


 子供時代のことを思うと、何もかもが今より大きかったように思えてしまうものだが、積雪量が以前の方が多かった気がするのは、気のせいではないらしい。
 小学生の頃、かまくらを作るなどというのはそうむずかしいものではなかった。除雪車が駐車場の雪を払ったあと、片隅に残される巨大な雪の山を掘り進めばよかったからだ。もっとも、きちんと踏み固めながら作業しないと、車に固められた重い雪と氷のかたまりが、周囲の柔らかい雪では支えきれずに崩落し、生き埋めになる可能性が高かったから、たいてい掘っている最中に大人に止められたものだ。
 同じ場所を同じ時期に訪れると、今では当時のような巨大な雪山は存在しない。掘った雪を上に乗せ上に乗せして作っていかないと、子供すら腹ばいでないと入れないくらいのみじめなかまくらになってしまうだろう。
 私の実家から少し離れた所にある母方の実家は、山が近いせいか積雪量が倍近くになっている。それでも、私が腰まで埋まってしまうような積雪にはならない。
 母に聞くと、母の子供時代は電柱をまたいで学校に通っていたというから、やはり雪の量は往時に比べてかなり減っている。
 なんでもかんでも地球温暖化のせいにするのは私は嫌いなのだが、それでも、たかだか40年ほどでこうも積雪量が減っていることを聞かされると、やや考え込まざるを得なくなる。
 雪が少なくなればそれだけ様々な損失を減らせるのだが、変わりに失っているのは地球環境ではないかと考えると、日頃自分の手が届く程度の問題しか考えない無精者の私でも、多少悲観主義者になってしまいそうになる。