不調

kotosys2005-02-24




 一昨日くらいから、どうも体調とともに心理面的にも不調に陥っているようで、昨日の文章を見ていると、意味も無く毒を吐いている。
 あまり良くないことだとは思うが、公共性皆無の自爆系ブログだから、それも良いかと納得してみたりする。



 仕事の方はなぜか調子がいい。年度末に駆け込みでの発注があり、それほど利のいい仕事ではないものの、1本が受注済みで、もう1本が受注見込み。別件の会議で、今までにないほど言いたいことを言って主張をできたということもあった。
 仕事がうまくいっているのだから、気分は良くなりそうなものだが、仕事と私生活の感情はあまり連続していないようで、どうもあまり調子が良くない。
 体調が良くないのはいつものことといってしまえばそれまでで、体の調子が絶好調などと感じるのは年に数度のことだから、さして気にもならない。はっきりと病気にかかっているわけでも、耐え難いほどの愁訴を抱えているわけでもない。
 原因ははっきりしていて、寝不足。
 一昨日、つまり22日に、某サイトの掲示板に長文を寄稿していたときに、筆が進みまくったものだから途中で切り上げるわけにも行かず、夜中の3時までかかって書き上げてしまった事が、体調を崩させた。
 書きながら、その時点であまり体調は良くなかった。会議の資料やら、受注目前の物件の事前調査やらでストレスがかかっていて、胃の調子も腸の調子もよろしくなかった。そこにきて、机に張り付いての長い文章書きだから、体が悲鳴を上げるのも当然だった。
 昨日は会議があり、会議自体は私にとってまずまずのものだったが、大量のコーヒーとタバコのおかげで、ただでさえ寝不足の体に無理をさせてしまった。
 体調が悪化すると心もそれにひっぱられて調子を落とす。今がまさにそれ。
 昨日の毒舌は、回らない頭でマキアヴェッリなど読んでしまったものだから、年明けからろくなことがなかったという思いが沈殿していたせいもあってか、話題に集中することもできずにただ攻撃的になってしまった結果だ。




 仕事で文章を書く機会などまずない。
 文章を書くこと、それ自体が結構好きだから、仕事で書けないのならと私生活で書いているのだが、仕事と私生活を切り離す上でこれが結構役に立っている。つまり、文章を書くという行為は仕事とは無縁で、書き始めるだけで仕事のストレスから自分を切り離すことが出来る。
 家族や恋人がいれば、そちらの関係性の中に仕事と私生活の境界線を見出すこともできるのだろうが、そういう贅沢が出来る環境下にいないから、趣味の分野でそれをするしかない。もっとも、その関係性がストレスの原因にもなりうるわけで、それが無いのは独身の気楽さであり長所であるともいえなくはない。
 だいたい、家族や恋人がいて、緊密な関係性を保とうと思ったら、まず毎日のように長文をものする作業などという行為に没頭できるはずがない。それこそ贅沢というものだろう。緊密な関係性とは、ある意味時間の共有と同義。文章を書くのは自分の時間の占有であり、他者との係わり合いがそこに入り込む余地はない。おしゃべりしながら文章を書けるという人もいるが、そんな器用な能力は私には無い。
 その意味においては、私は幸せな状態にいるということもできるが、信頼できる人間がまったくそばにいないという状況が幸せといえるのかどうかはまた別の問題ではある。
 もっとも、私の場合、信頼できる人間が長い間そばにいてくれたという経験があるわけでもないから、いない状況が不幸だと断言できるほど、巷間で言われる「誰かがそばにいてくれる幸せ」というものを知っているとは言いがたく、当然、比較対照しての自らの幸不幸の判断ができる状態にはない。あるいは、そのことこそが不幸なのだろうか、とも思ったりする。
 一応、自分としてはその判断基準を与えてくれる候補を見つけ出したはずだったのだが、相手にとって私はそういう人間ではなかったようで、いともあっさりと関係性が破綻してしまったため、当面私がその判断基準を手に入れる事はなさそうだ。
 どうせなら一生手に入れない方が、「考えない豚」として生きていける分、幸せなのかもしれない。苦悩する人間でいたい、とソクラテスばりにいえるほど、私は思慮深くも誇り高くも生まれてはいないので。知ってしまったら、それを失った時の不幸がより深くなる気がする。




 12日の項で、書く意欲が薄れてきている、などと書いたが、書く意欲が薄れてきていたのではなく、物事に対しやる気が失われていた、というのが正確なところらしい。自信喪失がその最大原因だという部分はまったく訂正する必要はないが、書く意欲だけが薄れているというわけではなかった。
 今は、あの時点よりは持ち直している。
 ただし体調はあのときより悪い。
 自信喪失の原因となったことについては、一切解決不能の問題だから、時間が経過して記憶が風化していくのを待つくらいしか対策は無いのだが、それは当分先のことになりそうだ。
 ということは、原因が取り除けないのだから、しばらくは対症療法でやりくりしていくしかない。
 対症療法として、今の時点でもっとも有効に働きそうなのは、小説。
 なにしろ現実と向き合う必要がないので、逃避先としては理想的。
 問題は、このブログのような垂れ流し系の文章を書く場合に比べ、小説を書くのには精神的にも肉体的にも体力がそれなりに必要である点。
 体調が多少なりともましになってくれないと、ちょっと先を書けそうにもない。頭が回っていない状態で書いても、翌日になって読み返すと気に入らない点ばかりが出てきて、結局全消去して書き直す羽目になる。
 昨日の文章を見てもそう。
 あれなどは垂れ流し系だから放置しておけばいいのだが、それにしても、文章の構成は乱れ、唐突に固有名詞を出しすぎていて、読んでいて「何かあったのかな、こいつ」と我ながら首を傾げたくなるような代物だ。あれを小説でやったら、間違いなく全直し。
 不調というものは、こうも素直に文章に出る。
 文章というものが、それがアウトプットであるが故に自分を否応も無く映し出してしまうということが、これでわかる。




 まあ、今はあまり考えることをせず、だらだら暮らしていた方がいい時期なのかもしれない。
 一度自分を追い込むような方向に思考を持っていくと、どつぼにはまることがある。別にはまったって他人に迷惑をかけるわけでもないのだが、つられて体調がこれ以上悪くなると、肉体的なストレスにはいたって弱い私には耐えがたい状況に陥る。
 インフルエンザは未だに猛威をふるっていることだし、うかつに発症などしようものなら、気管支喘息の既往を持っているから、看護してくれる存在がいない今……いや、一人暮らしを始めて以来いたためしがないわけだが……冗談抜きで入院騒ぎにもなりかねない。
 しばらくは、あまり自分のことや周囲のことを考えず、のんきに寝転がってマンガでも読んで過ごすことにしようかな。野菜ジュースとうがい手洗いを欠かさずに。