桜からなぜか悪代官

まだちょっと早すぎるけど。



 桜という木はどうしてこうも人気があるのだろうか。



 桜という植物についての解説は、検索すればいくらでも引っかかるから、ここではしない。
 桜について、個人的に考えていることを何となくまとめつつ書く。
 まず、桜は単純に美しい。
 植樹される多くの桜は、ご存知ソメイヨシノ。枝振りが華やかで、木の生長が早く、また花が咲くときに葉が出ないということで、一気に普及した。なにより、咲く時に一気に咲いて散る時に一気に散るという特徴が愛される要因だろう。ただ、この木は寿命が短い。ソメイヨシノが多く植えられている公園などでは、戦後から高度成長期に植えられた木が次々に寿命を迎え始め、問題になっている。
 木の枝という枝に花がつき、咲き誇るその姿は、確かに美しい。若い木は濃く、老いた木は白っぽい花をつけ、風に乗せて散る花びらと幹の肌の色合いとのコントラストがえもいわれぬ美しさをかもし出す。
「花は桜木(さくらぎ)、人は武士」などともいい、日本人の精神的な美意識を代表する存在でもある。武士が現在の日本人の精神性を代表する存在か、といわれると疑問が大きいが、少なくとも昔は武士こそが日本人のあるべき姿とされた。




 例によって話はそれる。
 武士道というものが確立されたのは江戸中期ごろだが、戦国時代以前から日本人の中には潔さを至上の価値とする精神性があった。ただ、潔さだけを旨としていては、乱世で子孫を残して行くことができないから、武士道も後の日本人が考えるような形にはなっていなかった。まず現実の戦いの中で生き抜くこと、死を賭す価値があるのは自らの武名を高め子孫にとって価値のある功勲を残すときのみ、だった。
 それが、主君に対し、あるいは藩や幕府という「公」に衷心を以って尽くし、清廉かつ気高く生きるべし、と変わったのは、時代が平和になり、死を賭して戦うという場面が皆無になってからの話だ。戦いの場を失くした戦士が、自らの生きるべき道を模索したあげくに出てきた、という考え方もできるが、官僚組織の一員として生きて行く上での倫理観が形成されたと考えた方が実情に則している気もする。



 よく時代劇で悪代官やら腐敗した家老などが出てくるが、ああいった上級武士はそれほど多かったわけではないようだ。
 たいていの場合、その手の悪役は藩の重職にあることを利用して金を集め、私腹を肥やしている。実際のところ、それができる人間というのがどれほどいたか。
 まず、江戸時代の幕藩体制では、米が基本的な財源となっていた。米本位制といわれる経済体制だ。もちろん、税収の中に金が無いわけではないが、大部分は年貢による米。米以外の年貢が認められるのは、米がとても作れないほどの山の中、あるいは土壌的に米が作れない土地に住む者たち。
 商人は、当時そう多くない。商人が栄えた土地というのは限られていて、藩にとって財政の要に商人からの税収があるという所はそう多くなかった。米本位制が原則の幕藩体制において、商業がどれほど過熱しようと、体制そのものが米を軸にして動いているから、幕府に追随することを念頭に置かなければ目をつけられるという恐怖心もあり、多くの藩はとにかく米を作ること、あるいは米を作る農民を平らかにしておくことに腐心していた。
 例外は当然ある。その代表格が長州藩薩摩藩であり、商品作物の積極的な栽培や流通経路の開拓、あるいは密貿易などで生んだ利潤を溜め込み、その資金でのちに倒幕を果たしたといわれる。



 それはともかく、各藩では、米そのものを税収としていたわけではない。年貢として上がってきた米を、市場に出して金に換え、それを元にして藩の経営を行った。米の相場は幕府によって大阪に置かれ、それが大阪の発展を支えたのだが*1、各藩ではその上がりを収入として経営資源としていた。
 米という一次産業品を、それも全国どこでも半ばむきになって作っているものを主な収入源としているのだから、大きな利潤を生むというのはむずかしい。経済の初歩の初歩を考えてみれば誰にでもわかることだが、他には無い、しかもとても重要なものを売って初めて巨大な利益が上がる。どこにでもあるものを売って大きく利潤を得ようとすれば、量でカバーするしかない。
 だが、量といっても、生産量には限界というものがある。それに米に限らず農業生産物には、天候などの外的要因によって壊滅的打撃を受けてしまうという大きなリスクが存在する。年貢すべてを売り払ってしまったら、翌年に飢饉でも起きれば藩は壊滅してしまう。当然、備蓄というものも考える必要があるし、それにも限界があるから、他の余裕がある地域から米を買い付ける努力も必要になる。
 多くの藩は、江戸時代を通じて経済規模がどんどん拡大して行く中で、米という食料を軸にした経済体制を取っているがために、ジリ貧に陥っていた。米の取れ高は確かに上がっていたが、商人の世界で加熱していく経済規模の拡大がそれを上回り、マネーフローに対しての米の流通量が縮小していった結果、幕藩体制の経済を支える米の価値というものが経済全体の中で縮小し、同時に藩の経済規模も相対的に縮小していたのだ。



 経済規模が縮小している中で、一部の高官が賂を通じて私腹を肥やすという構図は、無かったわけではないにしろ、かなり少なかっただろう。なにしろ、目立つ。目立つものを叩いてぶち壊す才能にかけては、日本人は世界のトップクラスである。特に、経済的な部分で、同階級にいる者が目立ち始めると、凄まじい叩き方をする。
 まして幕藩体制の武士の世界など、狭い。藩と藩との交流がほぼ禁じられているような状態だったから、ちょっとでも目立つことをすればすぐ噂が広がる。
越後屋、そなたも悪よのう」
 などとやっているうちはまだいいが、錦の服など着始めたらその時点で藩の中の鼻つまみ者になるだろう。まして、「出会え出会え」といってばらばらと手下が集まってくるような組織を作ったら、「謀反の計略もありや」などといらない疑いをかけられ、悪くするとすぐに切腹を押し付けられる。時代劇の悪役になる家老のような者が実際にいたら、お家騒動として処断されお家の崩壊にも繋がりかねないから、それこそよってたかって叩き潰し、事件をもみ消すのにやっきになっていたはずだ。
 もっとも、例外はある。藩経済の立て直しを迫られて、経済に通じたものが重役に取り立てられた場合だ。すべてがそうだというわけではないが、そういう立場に立ったとき、経営再建を任せる条件として、その利潤の一部を歩合制にして個人の収入に充てることが多かった。成功報酬、というわけだ。
 そういった立場にある場合、収入は当然米ではなく金。金に執着するのは浅ましいとされた時代、成功報酬を得て働く者が、そうではない石高制の収入を与えられている者に嫉妬心を抱かれるのは必然だった。藩の経営建て直しに必死になっていても、それが自分の懐を豊かにするために働いているのだと曲解される事は多かっただろう。逆もまた考えられる。つまり、自分の生活を豊かにするために必死になって働くことが、ひいては藩のためになる、と考えて働いていると、結果としてどうなろうが自分の利益のために働くのはけしからん、と周囲に思われる場合だ。
 そういった一部の経済官僚たちに対する感情が、その当時の常識であった米本位制経済とそれに付随する倫理観とに反するという思いともつながり、経済官僚イコール悪という観念を日本人に植え付けた。
 経済官僚の中には私腹を肥やしたものもいる。いるが、経済を扱う高官すべてが汚染されていたはずもないし、幕府ならばともかく、地方の小藩にまでそんな連中がうようよしていたはずがない。水戸黄門がばっさばっさと切り倒せるほどの悪がいたら、それはかえって、その藩が経済体制の転換に成功しつつある証拠とすらいえるのだ。



 話のそれ方にもほどがある。
 桜の話だった。
 桜が人気になったのは、美しさもあるが、咲く時期にもよるだろう。
 たとえば梅が咲く時期というのは、まだ外に出てそれを見て楽しむには、少し厚着の必要がある。
 ところが桜の花が咲く時期になると、それほど厚着をしなくても、そよ風に吹かれながらのんびり眺めていて寒いという事はない。といって、桜が散って葉が一杯に広がるような時期になると、今度は長時間陽光に照らされていると辛い時期になってしまう。
 花見という行事が定着したのには、そういう気候の問題もあったに違いない。冬が開け、本格的な春が来て、外で飲んで歌っての大騒ぎをしても風邪を引かずにすむ、そんな時期に盛大に花をつけるから、非常に都合がいいというわけだ。



 それだけなら、こうも日本人が執着する花ではなかった可能性もある。
 その可能性を叩き潰したのは、「年度」というものの存在だろう。
 つまり、桜が咲く時期に、うまい具合に年度の変わり目が来るようになったのだ。
 どうして日本で年度というものが4月から3月となったのかは知らないが、この時期に学校の卒業と入学の時期が重なったのは、桜という植物にとって非常に重要な事件だったに違いない。
 すべての土地でそうだというわけではなく、たとえば私の出身地である東北では、花見といえばゴールデンウィーク前後の行事になってしまうのだが、日本の多くの土地で、卒業の時期から入学の時期にかけて桜の開花時期が重なることになった。
 特に東京という土地でそれが見事に重なっているのが重要。
 情報の集積地であり発信地である東京で、人生の重大な節目である卒業と進学、あるいは就職などの時期に桜の開花が重なったことで、人生の節目の景色と桜とが重なり、桜という植物にさらに特別な意味が加わることになった。
 日本がもう少し北にずれていたら、あるいは桜の開花時期があと2週間ばかり早かったり遅かったりしたら、これほど日本人の中に「人生の節目にある花」というイメージが刷り込まれる事はなかったに違いない。
 桜を歌う歌の多くが、卒業や新たな人生を同時に歌いこんでいる。その事実からして、桜という花が日本人にとってどのような受け止められ方をしている花なのかがわかるというもの。桜の花は、美しさ以上に、人生の節目、旅立ち、別れ、出会い、不安と期待、そういったもののメタファーとして用いられることによって、日本人の心の中に食い込んでいる。

*1:大阪人は家康や幕府を嫌うが、実は大阪の繁栄は家康によって保証されていた。彼は瀬戸内や淀川を利用した水運に発展の基礎を求めた大阪に米の集積地を求め、そのことで1世紀前には海だった大阪の地が一大商業センターとなった。幕藩体制が崩壊した時、経済体制の激変により米を中心とした相場が壊滅し、大阪は致命的なダメージをこうむった。その後の復興は多くの人々の努力の賜物だが、商都大阪の原型を作ったのは、秀吉ではなく家康。