名前

 今日はちょっと気分がいいので、ブログを書いてみる。



 抽象的なテーマを選んでしまって、書く前から後悔している。
 テーマが先にあって書く場合と、書いているうちにテーマが定まってくる場合と、私の場合は半々なのだが、今回は完全にテーマが先。
 そして、テーマが先にあって書く場合、内容は確実にテーマからずれて行く。この前、桜を書いた時がそうだった。
 あれだって、別に外れたくて外れたわけではない。書いているうちにどんどん筆が滑り、気がついたらお代官様の悪行について熱心に……いやいや、江戸時代の経済システムについて長々と書いてしまっていた。話を戻してみても、今さら桜について熱弁をふるうのも馬鹿馬鹿しいな、と思ってしまい、最後の部分はさくさくっと書き上げて終わりにしてしまった。




 名前。
 これについて語った文学作品が、一体どれだけ世に氾濫しているかわからない。とにかく多い、としかいいようがない。
 名前とは、個体を識別するための記号でしかないわけだが、これを突き詰めて考えていくと記号論や言語論に当然行き当たる。名前に使われる文字列やその原義などについて調べれば、それだけで重厚長大な論文がすぐに出来上がる。
 名前、というテーマをつけてしまってはいるが、名前と聞いて思い浮かぶことを半分もブログに書こうとしたら、たぶん今まで書いてきた分量に匹敵するだけのものが書けそうな気がする。それほど、幅が広いテーマだ。
 なにしろ、名前という言葉を突き詰めていくと、先に上げた記号論や言語論ばかりでなく、人間性の問題にも容易にぶち当たってしまう。




 人間の言語能力というのは、基本的に記憶から成り立っている。
 というより、人間の脳が記憶から成り立っているといっていい。メモリベースアーキテクチャ、というのだそうだが、記憶と記憶が絡み合い、意味を成し、人間の脳はそれを自発的にくり返すことで思考を成立させる。
 言葉とは記号。
 その記号を使わなければ、人間はまともにものを考えることすらできない。言葉があって初めて、人間の思考には具体性が生じる。それを手に入れていない段階の人間ならともかく、考えることに言葉を用いることを覚えてしまったら最後、人間は決して言葉から離れることはできない。
 そして、記号である言葉は、当たり前だが論理ではない。記憶だ。言葉は記憶され、あるいは記録されて、初めて効力を発する。
 外国の言葉を覚えるとき、文法と単語の記憶のどちらを重視すべきか、という問題がある。これについて深く考える気はないが、勘違いしてはいけないのは、文法だって結局は記憶だ、ということ。文法の論理的な法則性を記憶し、それと単語とを組み合わせて初めて、文法に則った文章ができあがる。どちらも記憶なのだから、どちらも覚える以外にない。どちらかが欠けていては、言葉は機能しない。
 文法なんか習わなくたって日本語はしゃべれるじゃないか、だから文法なんかいらないんだ、という考え方もあるが、これは正しくない。
 日本人が日本語を自由にしゃべれるのは、文法を学んだからだ。
 習ってないよ、と考えるのは、それが自覚的に行われていないというだけのこと。
 言葉を覚える以前、赤ん坊の頃から、日本人はひたすら日本語の特訓を受けて育っている。親や兄姉たち、祖父母やご近所さんたちの言葉が、それこそ雨あられのように子供に降りかかり、子供の耳はやがてそれを意味のあるものとして認識するようになる。同時に発語が明確になり、きちんとした言葉として認識されるようなものになっていく。
 その段階で、日本人の脳は、言葉をリズムとして覚えていく。記憶にいくつものリズムパターンを焼き付け、そのパターンに単語を乗せていくようになる。この内容の話をするときにはこのリズムにこの言葉、という組み合わせだ。
 リズムという覚え方は、覚える本人に文法のような難しい論理を求めない。それだけに根強い。
 たとえば、本を読んだりマンガを読んだりしているとき、歌を聴いたりドラマを見たりしているとき、なにか不快感を感じさせるような表現というものに出会ったことはないだろうか。なんだか気持ち悪いぞこの文、という感覚。
 荒っぽい表現というのではなく、ほんのちょっとしたところに気持ち悪さを感じさせる文章というものが、確かにある。それを、文法に照らし合わせてもう一度見直して考えてみると、かなり高い確率で間違いが見つかる。そんなものを見つけようとしていたわけではないのに、人間の言語感覚は、上の空で通過していても引っ掛かりを感じたり不快感を抱いたりするものなのだ。
 ある人は倒置法や体言止めの使いすぎにカチンと来るかもしれないし、ある人はら抜き言葉にいらいらするかもしれない。そういう、身に染み付いた言葉のリズムをかき乱す不協和音のような言葉は、人の心を落ち着かなくさせる。
 そのいらだち、それ自体が、その人に文法というものが染み付いている証拠であるともいえる。国語学習的には文法が身についていなくても、だ。




 どうしても盛大に話をそらす癖があるようだが、戻す。
 名前というのはけっこう意味の広い言葉で、じくじくと考えると、どつぼにはまりそうになる。
 ちょっと告白すると、ここまで書くのに、すでに同じくらいの分量の文章を消去している。話があらぬ方に飛びそうになり、こりゃいかんと引き返す、それを3回ほどくり返してしまった。
 はまりそうになる、ではなく、すでにはまっていたという気もする。
 だから、限定する。
 今日は、人名。




 私の名前は親が付けた。実にありふれた名前で、姓がまた日本でも有数のありふれた代物だから、全国に一体何人の同姓同名さんがいるか、見当もつかない。妹や弟もいたって平凡な名前だから、下手をすると私たち3人兄弟とまったく同じ名前の3人兄弟がいないとも限らない。
 もっとも、こうまで没個性的な名前だと気楽ではある。名前を読み間違えられた経験など一度たりともなく、名前が原因で劣等感や疎外感を味わった経験もない。
 一方で、珍姓奇名の人も多い。
 読んでいるあなたにも心当たりは少なからずいるだろう。
 私が一瞬呆然とした奇姓は、「左衛門三郎」。いるのだ、こういう姓の人が。姓のインパクトが強すぎて、名前までは覚えていないほどだ。
 最近、詩的な姓で記憶に刻まれたのが、「北風」。
 だが、実は私は以前からこの姓を知っていた。司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」に出てくる、兵庫の名家「北風家」だ。江戸期に瀬戸内海の通商で名を上げた商人だが、小説の中では主人公高田屋嘉兵衛と深く関わる存在として出てくる。
 現代の北風さんは、神戸在住(西宮だったかな)の古書店主としてテレビに登場していた。場所や稀姓であることを考えると、歴史的な北風家の子孫では無いだろうか。歴史的な北風家の方は明治期に没落し消えているのだが、分家筋が生き残っていないとは限らない。そういえば、小説の中で現代の北風さんに触れた場面があったような気もしないではないが、残念ながら10年も前に読んだ小説のそんな細かい部分までは記憶していない。
 そのために読み返すのも疲れるし。




 ちなみに、私が現在使っているハンドルネーム、「kotosys」だが、これにももちろん意味はある。あるが、公開していない。
 読み方は自由なのだが、私自身は単純に「ことしす」と読んでいる。だが、実はもとの意味から考えると「こーとーしす」になる。「しす」というのは「システム System」の略。だから、「こーとーしすてむ」というのがさらに正しい読み方。
 ところがさらに続きがあって、システムとしたのは「〜式」という意味を英訳したもの。つまり、もっとも正解に近い読み方は「こーとーしき」ということになる。
 ややこしいので、「ことしす」でいいや、と自分では考えている。
 これは、私が以前書いていた小説の、基幹部分をなす設定から来ている。ハンドルネームを考えていたとき、めんどくさくて何でもいいやと思っていた私の目に、偶然飛び込んできたのが、冷蔵庫の扉に貼り付けていた正方形の付箋紙。その付箋紙には、小説の設定を思いついたときに忘れないようにと走り書きしたものがみみっちい字で残されていて、その中にこの言葉があった。
 はてなのアカウントは英小文字でしか登録できないから、この言葉を適当に訳してぶちこんだ。それがこの名前の由来。
 あっ。
 しまった。人名じゃない。




 外国人の名前は結構調べていると面白い。
 とくに、違う言語で同じ名前を呼ぶ時の変化についてなどは、言葉の勉強の取っ掛かりとしては最適なのじゃなかろうかと思うほど面白い。
 英国王家を例に取ると、つい最近再婚して物議をかもした皇太子の名がチャールズ*1
 これが、おとなりフランスにいくと「シャルル」になる。ドイツでは「カール」。イタリアでは「カルロ」。スペインなどでは「カルロス」。 もとはゲルマン語系の名前で、ゲルマン諸族の言語圏で多く使われる名前とされている。
 息子のウィリアム王子*2は、すごい。ドイツ語のヴィルヘルムはまだしも、フランス語ではギョーム。イタリア語ではグリエルモ。もはや日本人には原形をとどめているように思えない。
 ヘンリー王子の方はそこまでひねくれていない。それでも、フランス語ではアンリ。イタリア語ではエンリコ、ドイツ語だとハインリヒ。
 女王エリザベスはというと、こちらはそれほど変わらない。フランス語ではエリザベート。イタリア語ではエリザベッタ、あるいはイザベッラ。ドイツ語ではエリーザベテとかエリーザベトとか。




 もう一つくらい例を挙げてみる。
 私が時々取り上げる古代ローマの天才、カエサル
 これは、ラテン語。英語ではシーザーと読み、イタリア語だとチェーザレ。フランス語ならセザールで、ドイツ語ではカイザー。
 カエサル、という読み方は、じつはドイツ語系の読み方。現在のドイツでは、カエサルという名前が起源のこの名前を「kaizer」と記すのだが、ラテン語で正確に書くと実はスペルが違い、「Caesar」と書く。これをドイツ風に読むとカエサル、になる。なぜドイツ語風に読むかというと、日本のラテン語はドイツ起源だからだ。学会の多くで学術語としてのラテン語を読むとき、多くはドイツ語風の発音を使う。日本は明治期に西洋の学問を大いに取り入れたが、その窓口になったのは多くがドイツだった。軍事に限らず、医学や博物学、法学理論などもそう。
 その影響が未だに残っていて、カエサルのことも「カエサル」と読むようになっている。これが、ラテン語の面影をもっとも色濃く残しているとされるイタリア語に即して読めば、チェーザルになる。人名としては語尾が変わってチェーザレ、になる。
 サッカー好きにはおなじみの名前、イタリアサッカーの英雄チェーザレ・マルディーニは、カエサルの名前をもらっていたわけだ。
 ちょっと例を挙げただけで、それも浅学な私が記憶から引っ張り出しただけでこれほど楽しいのだから、言語による名前の違いというものを調べると、次から次に意外な発見ができて実に面白い。

*1:本名はチャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ・マウントバッテン=ウィンザー。嫌がらせでしょうか。ちなみにマウントバッテンというのが父親の姓。古くはドイツ貴族の血を引くのだそうな。

*2:本名はウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス。長いよあんたも。