改憲論

ちょっと身の回りで話題になったので一言。
改憲問題については、私は紛う事無き改憲論者なのだが、それは不戦の誓いを修正すべきという意味ではない。
私自身は、日本が不戦を誓ったことを誇りに思っている。ただ、自衛のための兵力を持たないという考え方には現実味が無いと思うし、今の条文がやや曖昧だというなら、曖昧さを排した条文に修正するのも当然と思っているに過ぎない。
日本人は、とにかく臭いものに蓋をしすぎる。
有事関連法案が話題になっていた当時に思ったのだが、「有事という事態に国を落とし込まないのが政府の役割であり、有事に対する法を作成するのは軍事国家化への第一歩である」とする論調は、あれはなんだったのだろう。
どういう論理体系が論者の中に成立していたのか知らないが、馬鹿にする気にもならなかった。
国家、あるいは政府の役割とは、結局「国民の福祉」。国民の財産や生命の保護だろう。
有事とは、起こす起こさないの問題では無く、「起こりうる」事態のことを差す。能動的とか受動的とかいう問題ではない。可能性の問題。
起こりうる事態に対し、政府その他の行政組織などがどのように動けば、国民の福祉に最大の力を発揮するか。それを考えずに暮らして行けると本気で考えられる程に能天気な人々がいる、ということ自体が、私には衝撃的な発見だった。
有事という事態に陥らないようにする。そんなこと、当たり前。
そのために高い税金を払っている。
そんな事は大前提であり、わざわざいうほどのことでもない。そのための外交であり、政府である。
起きてしまった有事に際し、どのように行動すべきか。そのマニュアルの骨格だけでも作ろうというのが有事法案のはずなのだが、どんな法案であろうとも、憲法の範囲内を越える事はできないのが近代法
ならば、不戦の誓いを明記し、かつ国民の保護のためにはどこまでの自衛権を設定すべきかをも明記した憲法を持つことで、有事法案にしっかりとした枠をはめることができる。
私は、仮に日本が他国の攻撃を受けたとき、現状でこの国がそれに対抗できるとはまったく考えていない。制度が整っていないのに、ただでさえ混乱すること間違いない有事の際に、何ができるというのか。
戦争放棄の思想は私も素晴らしいものだと思うが、それと「戦争状態を直視しない」ということとでは、次元が全く違う。
私は、誰かに支配されることを拒みはしない。権力が無い世の中などというものを実現した国家は、歴史上存在しないのだから。
だが、有事というものに対して、意味も無いアレルギー症状を起こすあまりに、根本的な論理を踏み違えている人間たちに支配されるのは願い下げだ。
もっと簡潔にいう。
馬鹿に支配されるなど、虫唾が走る。