たまには政治など


衆院解散から選挙への流れが世情をにぎわす中、焦点は郵政民営化自民党内の争いがいかに顕在化するか、その形に絞られてきた観がある。
その中で、小泉首相の強引な手法に対する批判と賛意が入り乱れている。


民主主義は、その理想から考えれば、強力なリーダーというものを必要としない。必要としてはならない。強力なリーダーとは、強大な権限あってこそのものであり、強大な権限をリーダーのもとに集約することは、事実上の独裁制を形成することと同義だからだ。
非常事態においては話が全く違う。たとえば大規模災害が発生した場合、民主主義的な手段を採っていてはあまりにも手遅れになる事態が多く発生してしまうことが自明だけに、当局に強大な権限を与えて一元的な指揮系統を確立し、収拾に当たることが必要となる。ただ、これも民主的な手続きを踏んで作られた法令等により正当化されなければならない。その後ろ盾が無ければ、火事場泥棒的な、混乱に乗じた権力の濫用とそしられても文句は言えない。
平時においては、なおさらである。たとえ法令にひとつとして触れない手段を採ろうと、その手段を積み上げたときに事実上の独裁が確立されてしまうというのでは、民主主義を政治体制として選んだ市民社会としていかにも情けない話である。第一次大戦後のドイツが、ヴァイマル共和政の破綻を経て一党独裁政治を選択した時、ナチスヒトラーが引き起こす悲劇の曲が始まった。その発端がいかにも民主的なものであったことを忘れるようでは、情けないを通り越して戦慄すら覚える。


では、昨今問題となっている首相の強権政治というものが、民主主義を殺すものなのかどうか。
反小泉論者には申し訳ないが、私はそうは思わない。
彼は、要するに密室政治を拒否しているだけである。


たとえば、消費税が導入された時期のことを考えてみればいい。
あれは当時の大蔵省が進めていた計画をついに実現させたという面で、官僚の支持があった分、郵政民営化とはやや次元が違う話ではあるのだが、いずれにしろ国論を二分する大問題だった。
消費税法案を提出する際、自民党内でも当然のごとく反発する者はいた。選挙になったら勝てない、というような法案を提出されてはたまらない、という本音を口に出す者はさすがに少なかったが、もちろんそれが大きな理由であった事は間違いない。
仮に現在も消費税というものがなく、この時期にその導入の是非が争われていたとしたら、と考えると、触れるものが国有財産の郵政関連資産や公務員たちではなく、国民の財布そのものであるという部分がやはり大きな問題点となり、紛糾することだろう。
というより、通るはずがない。
ではなぜ当時、それが国会を通過し、施行されるに至ったのか。
自民党の党内派閥論理による密室政治が、まだその当時は力を持っていたからである。
小泉首相のような強引ではあるが直裁的な手法では、まず出来ないであろう寝技を、平気で使う政治家たちがまだうようよしていた時代だった。あらゆる手法を使って一人ひとりの政治家を説き伏せ、表面的には全議員の賛成を取り付けてから法案を提出する、という手法が、この当時はまだ主流だった。


小泉首相が強権的とされるのは、この密室政治を否定しているからだろう。情の部分で行う政治というものが、彼の前では通用しない。非情、と呼ばれる所以である。
その良い例が、解散前に行われたという森前首相との会談だ。
森前首相は、膝をつめて酒を酌み交わし、寿司でもつまみながら話せば彼もわかってくれると思っていたが、もうさじを投げた、と会談後に漏らしていた。
完全な情の政治という代物で、まともな感覚を持った市民なら「そんな理屈で国政を動かすなよ」と皮肉のひとつも言いたくなる体のものだが、これが自民党政治というものだった事は、少なくとも55年体制下の日本を知っている世代の人間にとっては当たり前の知識である。


非情、の代名詞のように取り上げられることの多い「田中真紀子更迭」において、彼の行為を批判する者がいる。
これは、私は支持している。
そもそも、田中真紀子という政治家に、外相が務まるとは私は思えない。彼女の発言を見て行くと、よくもまあこの人物を一国の顔として外国に送り出せたものだとすら思える。
首相もそうだが、外相に「失言」などというものは決して許されない。外交は、他国と仲良くするためにあるのではない。他国に対し、自国の利益を最大限引き出すべく行動するのが外交であり、最も高度な政治世界である。であればこそ、各国の外相には、その国を代表する政治家が就いている場合が多いし、外相と政府の間に少しでも意見の相違があれば、すぐさま国際的なニュースとなって世界を駆け巡る。
田中氏の失言ぶりは、森前首相と肩を並べるほどのもので、ともに恥さらしの名をほしいままにする勢いだった。
そもそも、実態がどうかはともかくとして、主婦感覚・庶民派の立場から政治を行います、などということを平気で口にする政治家を外相につけた時点で、大きな間違いであったろう。外交を買い物感覚で行われてはたまったものではない。
ひとつの過ちを次の過ちで補填しては、負債が倍増するばかりである。過ちは正しい手段で正されなければならない。その正しい手段というのが外相更迭であり、当時から多少なりとも目が見えているものにとっては、その手段が正しい事は自明の理だった。「遅いんだよ」というそしりは止めようも無かったにしても。


郵政民営化にこだわりすぎていて、それ以外のもっと大切な問題に目が向いていないではないか、という議論もある。
私はこの議論を、実は小馬鹿にしている。
小泉首相が総裁選に出馬するたびに何を言っていたか、考えてみればいい。彼は、一貫して郵政民営化を最大の公約として掲げていたではないか。
その彼を党の総裁として選んだ以上、党はその方針の下に結束すべきである。少なくとも、首相誕生当時の自民党はそのような空気に支配されていたはずだ。
それが今になって何を、などと私には思える。
首相が掲げた公約の中でも最大の物を、政治生命をかけて通そうとするのは当たり前のことだ。それ以外のものにも目を向けよ、と言うが、首相が首相になるときに掲げた公約も通せないようで、一体何の改革が出来るのか、私は発言者に問いたい。
ドラスティックな改革などというものは、本来民主主義のタブーである。民主主義は本質的に漸進主義なのだから、議論に議論を重ね、根気よく続けていくのが民主主義の改革だ。
郵政民営化はドラスティックな改革のように見えるが、決してそうではない。国鉄電電公社の民営化を成し遂げた日本にとって、郵政民営化がひどく急進的だというには当たらないだろう。
その改革すら通らないというのであれば、その手法も含めて、国民の審判を問うべきだと考える首相のやり方に、私は特に反発や反感は覚えない。
むしろ、論点がわかりやすくて結構だろう。民営化反対の議員に対し、各選挙区に対立候補を出すことでその審判を仰ぐ。選挙という形での間接民主制を採っている国なのだから、これほどわかりやすい方法はない。


首相の「強権的姿勢」とやらが強権的に見えるのは、日本に、これまでこのような形で持論を展開してくる政治家がいなかったからだ。あるいは、いても決して浮かび上がってはこなかった。
それは、日本という国が持っていた意識、つまり密室政治や情による政治を是としてきた意識が、変わりつつあるということの現われでもある。
たいてい、そういった流れは、経済活動から先に顕在化する。
高度経済成長が終焉し、バブルへと世の中が動いて行く最中から、経済界ではドライな経営者像が次第に幅を利かせるようになっていった。旧来の日本式創業者が情とコネで強引な経済活動をする時代から、経済理論と独創性を持つ起業家や経営のプロがその主役の座を奪うようになった。
小泉首相が生まれてくるに至った背景には、この流れを可能にした、市民の感覚の変化というものがある。
政治家同士、馴れ合いをせず、もっと斬り合えば良い。そして一度論が定まったら、それまでの確執をいったん措いて、その目的を果たすために共闘していけば良い。
私などは、ごく当たり前に、そのような考え方が常識だと思っているのだが、人間とはそんなに綺麗に動ける生き物ではないことも重々承知しているから、それが理想論であるという点は認める。
だが、実態をその理想に少しでも近づけていこうとする努力は続けて行くべきだし、理想論をただの理想として忘れ去ってしまうような政治家に、自分の未来を預ける気はさらさら無い。馬鹿にだけは支配されたくない。


もちろん、私は完全な小泉主義者ではない。
たとえば靖国参拝問題などに関しては、彼に対し異論もある。
ただし、彼が首相の座についていることについては異論はない。
全てを支持できる人間を支持する、というのは宗教である。
民主主義体制下の政治とは、選択し得る最良の物を選ぶこと。現在選択し得る物の中で、私には彼を指導者とする道が、今のところ最も良いものなのではないかと考えているというだけの話で、さらに良い道を示してくれる政治家が出てくるなら、その政治家を支持するだろう。
現在のところ、それが無い、と言うだけの話である。