ハリケーンに浮かび上がるもの

 日本でも台風災害が猛威を振るっている。
 被災された方々に心から御見舞いを申し上げるとともに、常に災害と隣り合わせで生きて行かざるを得ない日本人としての心構えを、再度自らに問い直して行きたいと思う。



 海の向こう、アメリカでも自然災害で多大な被害が生じている。言わずと知れた、ハリケーンによるニューオーリンズを中心とする大災害だ。
 拡大する市域を補充するために、海面下の地域に堤防をめぐらしていった歴史が今回の悲劇を招いたともいえるようだ。
 もともとハリケーン災害が皆無という地域ではないから、以前から堤防の脆弱性とその補強の必要性が指摘されていたという。だが、何らかの理由により先延ばしにされた末に、今回の被災となった。



 もっとも、これをして当局による人災と呼ぶのはちょっと抵抗がある。堤防主犯説には無理がある。



 私も土木工学を学んだ者の端くれとして、自然災害に備えることの大変さというものは多少ながら想像はできる。
 今回のハリケーン災害は、立地条件の悪さを人為的に改善して行く努力で補い切れるものであったかどうか、私には疑問がある。堤防を強固にするためには、ただ高さを以ってすれば良いというものではなく、堤防自体を支えるための幅を必要とする。その幅は、一般に想像されているよりもはるかに大きい。
 現代の日本の河川堤防を考えてもらえばわかりやすいかもしれないが、特に大規模河川の新しい堤防は、無駄じゃないかと素人目には見えてしまうほどに広大な後背地を持つ。それは、大増水した河川の水の質量に加え、堤防自身の質量を支えるために、どうしても巨大な構造が必要になってしまうからだ。
 現在国土交通省が整備を進めている「スーパー堤防」という高規格堤防は、堤防の敷地内にちょっとした街づくりが出来てしまうほどの巨大な代物である。私が土木を学ぶ以前には「何考えてんだ」という感想しか出てこなかったものだが、水の凶暴な圧力と、それを支える堤防の膨大な質量とを支えるために、どれほどの構造体が必要になるかを計算した表を見たとき、その感想が浅はかであることを知った。
 確かにそのような堤防を必要とする災害は、百年に一度も起こらないようなものであるかもしれない。だが、起きてしまった災害で失われたものは決して取り戻せない。
 台風災害もそうだし、地震災害もそうだが、対策にはとにかく目も回るような莫大な資金と、膨大な労力とを必要とする上、終わりというものが無い。
 万全の対策などというものは無いのである。なぜなら、自然災害に対し万全の対策が取れるほど、人間は巨大な存在ではないからだ。知恵を出せば自然災害にも万全に対抗できるはずだ、という幻想は、平成になって以降起きた大災害によってことごとくその芽を潰されてきたはずだ。



 今回のハリケーンによる災害では、堤防が破れて海水が街を覆い尽くしたために、凄まじい被害をもたらした。
 もちろん、以前から指摘があったにもかかわらず、それを放置してきた当局に責任が無い、などという気は毛頭無い。重大すぎるほどの責任が市当局や州政府にはある。
 だが、堤防をどんなに頑丈に作っていたところで、相手は海である。
 河川の増水と海の高潮とでは、堤防に対する物理的なエネルギー量の桁が違う。
 むろん、高潮の方がはるかに巨大だ。今回の災害に際して撮られた映像などを見ても、その凄まじさがわかる。普通の海で見られる風によるエネルギーで生じる波と、ハリケーンによって気圧が猛烈に下がることで起こされる波とでは、波に内在するエネルギーの量が違う。
 これに対抗する堤防を作るには、都市そのものを作り変える必要性がある。
 水に囲まれた都市であるニューオーリンズでは、衛生面などの点からも水の流れを淀ませてはならないから、周辺の水路の流れは確保する必要がある。それを確保しつつ巨大な堤防を作ろうとしたら、どうしても堤防は都市内部に張り出さざるを得ない。
 それができたのだろうか。
 つまり、それを許すだけの素地が、ニューオーリンズ市民にあったのだろうか。
 もちろん私はニューオーリンズとは縁もゆかりも無い人間だから、断定的なことなどいえるはずもないのだが、少なくともあれだけの規模のハリケーンの襲来を前にして逃げ出すこともしない、あるいはできない市民が多数いたという事情を知るにつけ、その素地は無かったのではないかと考えざるを得ない。
 つまり、天災というものに対する防備が、心理面でまったく取れていなかったということだ。



 ここで問題になってくるのが、最近急浮上してきた人種間、あるいは貧富層などの断絶という、現代アメリカが19世紀から抱えている痼疾だ。
 私が以前からアメリカの一市民として生きる日本人(ちょっと表現がおかしいか)の日記として愛読しているブログがある。


アメリカ田舎生活


 頭でっかちな日米論を読むよりよほど面白いので、以前からよく読んでは感心させられたりしている。右翼左翼のレッテルを貼りたがる現実感喪失気味の夜郎自大たちのブログを読んでいると頭痛がしてくるが、生活者としての視点からごく当たり前の日常の中のアメリカを描いてくれているので、清々しささえ感じる。
 などと私が偉そうに評価しては、inakamamaさんが気を悪くされるかもしれないが。
 それはともかく。
 少し引用をお許し願いたい。

ニューオリンズでどうのこうの言われている、黒人層のなかには、こういった、政府からの支給だけをあてにして生きている底辺の人たちも多かったという。1日の支給日にお金を受け取りたいので、町を離れたくなかった・・とも言われている。この問題は、今受けている世代だけでなく、その世代の親も、祖父母も、みんな「支給を受けてきた」世代であって、子供たちは、「親の働いている姿」など、見たこともない状況で育ち、結局変な男につかまったりして、シングル・マザーになり、また自分も子供も支給を受けて・・の繰り返しのようなループが続いているようなのである。このような層にとって、たとえば、パウエル前長官とか、ライス長官のような人は、「迷惑」な存在だそうだ。彼らにとっては、「そうだ、今までの虐げられた歴史があなたたちをこんなにしたんだよ」とやさしく言ってもらえる、民主党の政治家の言葉のほうがいいのかな。


 ここに、問題の根の深さというものがくっきりと浮かび上がってきてはいないだろうか。
 被災地での治安悪化の問題は、一時は悪化などというものではなく、完全に無法地域になってしまっていたほど。避難勧告を無視した結果被害にあった被災者も数え切れないほどいたというし、その多くが上記引用部に示された層だと伝えられている。
 この恐ろしさ、想像がつくだろうか。
 親も、祖父母も、貧困者のための給付を受けるのみで生きてきた人々であり、暴れたり略奪に走ったりしているのはその子供たちであるという現実。
 労働というものを経験せず、与えられるか奪うかという、自立の尊厳がまったく存在しない中での生活しか経験していない層が、街中にあふれかえっていたということなのだ。



 彼らに責任のあることではないかもしれない。
 彼らはいうまでもなく、奴隷解放以前の白人たちがアフリカから拉致してきた人々の子孫である。白人社会が犯した罪は問答無用のものであり、歴史の汚点と断言して構わない。
 彼らの先祖には教育の機会どころか、生存の自由さえも与えられてはいなかった。人間としての尊厳全てを奪われ、ちょっと上等な霊長類として扱われ続けた歴史を、世界は忘れてはならない。
 そういった人種差別が特に色濃く残っているアメリカ南部地域のことだから、現代に至ってもなお、黒人層の社会的地位はなかなか改善されない面は強いに違いない。
 それにしても、である。
 今回の災害で全世界に暴露されたこのアメリカの現実は、一体なんなのだろう。



 被災者に鞭打つようなことを言うつもりは無い。被災したこと自体、彼らの罪だとは思わないからだ。
 彼らには確かに災害に対する想像力というものが欠けていた。
 だが、そういった想像力というものは、教育によってしか生まれないものなのだ。
 日本人が自身の災害に際し、国際社会から畏敬の念を持って見られるほどの(これは日本人として誇りに思って良い)態度を示すのは、単に災害がもともと多いからという理由からではなく、それを前提とした教育が昔から続けられてきているからだ。
 ことあるごとにマスコミも災害に備える心構えを説き、社会は災害に対する備えを根気よく続けることを正義とし、起きた災害について多少感情的に批難する場面はあっても、次の災害に対する備えをする教訓として最大限生かすべきだというコンセンサスが難なく取れるようになっている。
 黒人層と貧困層は必ずしもイコールではないかもしれないが、ニューオーリンズの彼ら低い層にいる人々は、災害の被害を予測してそれに対応するという教育そのものを受ける機会すらなかった。
 教育の最も良い指標である識字率だって、どれほどのものなのだろうか。
 学校で受ける教育とは、そのものが危機意識の醸成に役立つものではなくとも、間接的にその意識を育てる。字が満足に読めなければ学習するのも難しいだろうし、自分ひとりで生きていけるだけの力を持つことも難しいだろう。
 危機意識とは、自分で生きているという自覚が無ければ、育たないものなのだ。誰かによりかかって生きている人間に危機意識を持てといったところで、よりかかっている誰かが現実に倒れでもしない限りは、なかなか持てはしないものである。



 このような層が現実に多数存在し、こうして多大な被害を受けている。
 私は、自然災害の猛威というより、社会構造が産んだこのどうしようもない人的災害というものに、より大きい衝撃を受けている。
 これは、当局が悪い、連邦政府が悪い、という問題ではあるまい。
 アメリカ合衆国という、この人工の国家が内包しているあまりに巨大な闇が産んだ、ひとつの「民族」としての問題だろう。
 一人ひとりが市民として自立し、その集団として国家が存在しているという前提の下に成り立っている、歴史上最大の共和制国家が、自然災害の前にあっさりと仮面をはがされてしまった。



 ある古代社会*1では、奴隷を解放する際に、単純に解放する事はしなかった。一定の財産を持っていることを証明するため、税金を取ったのだ。
 奴隷を自由にするために税金を取るなど何事だ、と現代人は考えるかもしれないが、自由とはそれを欲する者にのみ与えられるべきだと古代人は考えていたから、その程度の義務が果たせない奴隷を解放するなど考えもしなかったのだろう。
 解放された奴隷は、財産を築けるだけの能力を持っていることがすでに証明されているわけだから、身分が自由民になってもそれまで通り働き続け、一家を成す。彼自身は一生「解放奴隷」の身分で、完全な市民権は無いのだが、彼の子供は市民権を得て、完全な市民になる。
 この制度により、社会は健全性を保つことが出来た。つまり、自立の意志がある者に機会を与えることで、身分の流動性を確保することが出来たし、なにより意志も無い者が街をうろうろする状態を減らすことが出来たからだ。
 また、自由民に「パンとサーカス」とよばれるばらまき政策を行ったとされるその社会だが、確かに小麦の無料給付はあったが、小麦だけでは人間が生きて行く事は不可能だし、その小麦の量も生きて行くのに不足なのではないかという程度の量だった。少しでも働くなりなんなりしなければ、食いっぱぐれてしまいかねなかったのだ。サーカスについてはそのほとんどが裕福な個人か皇帝が行うもので、皇帝が行うものも国庫には手をつけていないものがほとんどだった*2
 過去の不の遺産に対し、ただ福祉を行えばいい、とは古代人は考えなかったのだ。



 それを現代において実行せよ、というのは単なる暴論でしかない。
 古代よりは多少進化した社会を実現しなければ、人類はあまりにも情けない。
 ただ、奴隷階級の者を解放し、社会が受け入れようとするとき、単に福祉政策を充実させればいいというものではない、という厳しい現実に、絶対に目を向ける必要性はある。
 機会は与えるべきだ。ただ、機会以上の物を与え続ければ、それは当人たちにとって決してプラスにはならない。



 働く親の背中を知らない世代に、教育を受けて働くことの意義を教えるのは、並大抵の努力で出来ることではない。
 だが、それをしなければ、今回のような悲劇は、いつ何時でも起こりうる。
 ロサンゼルスの暴動の時にも、それは叫ばれたことだったはずだ。
 アメリカに厳として存在するこの断層は、埋めるのが非常に困難なものではあっても、いずれどうにかしなければ、アメリカという超大国の屋台骨をも揺るがしかねない大問題である事を、世界はこの一件で再確認してしまった。
 そしてこの問題は、アメリカだけで起きている問題ではないのである。
 形は違っていても、同質の問題が世界中に強固な根を張り巡らしている。

*1:古代ローマ。ただし、全時代の話ではない。

*2:もちろん例外はある。