キス

今日は趣向を思いっきり変えて。
といっても、自分が気に入っている様々なものを書いて行くと宣言した、そのことに反してはいない。様々なものを書く。それが、たまたまハードやソフトではなく、行為だというだけの話。



一般に、男性より女性の方がキスを重要視するという。
これは、女性が重視しているというより、男性が軽視しているといった方が正しいのかもしれない。
理由はいくつもあるのだろう。
すぐに思い浮かぶのが、男性は根本的に挿入行為を尊び、それ以外の接触行為を基本的に軽視しがちだということだ。キスという行為が持つ意味について、女性ほど重みを置いていない。性欲が女性に比較して強く生まれているが故の業、といったらちょっと大げさになるかもしれないが、キスや手をつなぐことなどのセックスに直接結びついていない行動に対し、内心での格付けが低くなっている傾向はあるはずだ。
また、照れというのもある。パートナーに対する愛情表現に対する照れというものは、特に根拠があるわけでもないが、男性の方が強い気がする。経験論でしかないから強弁はしないにしても、多くの男性が、自分のセックスのことについて語るよりも、キスなどの行為について語る方がより大きいプレッシャーを感じている気がする。女性がどうかはわからない。
もちろん、あくまで一般論であって、必ずしもそうではないということはわかっている。



日本人にとってのキスというのは、ほとんど絶対に近い愛情表現である。そもそも肉体的な接触というものを極力避ける礼式に馴染んできた日本人にとって、握手ですら、時に心理的な苦痛になる。少なくとも西欧文明の礼式が伝わってくる明治時代までの日本人にとっては、の話だ。
昔から日本人に握手という習慣があったのか無かったのか、不勉強な私はまったく知らないのだが、相手の体に触れるのはよほど親しい相手でなければ避ける、というのは、室町以降の各礼式流派の当然の常識であったはずだ。現代でも、昔ながらの作法を嗜んだ人は、美しいお辞儀や敬語を使いつつ、決して相手の体に触れようとはしない。
これは儒教の影響が強くなっていたということなのかもしれない。
中国文明のひとつの核である儒教を、日本という国は大昔からとりいれてはきていたが、平安期に貴族の間ではごく当たり前に通い婚が行われていたことからもわかるように、日本人の根っこの部分に儒教が染み付くことは無かった。仮に染み付いていたら、母系社会を形成する通い婚というシステム、誰の子かわからない子供を自らの子として育てるなどという、儒教の倫理からすれば不孝にも程がある暴挙をするはずがない。儒教は、鉄壁の父系思想なのだ。
鎌倉期の一種のプラグマティズムを経験し、また室町期の農業の爆発的な生産力増加と商業の高度化がもたらした新たな倫理観を獲得した日本人は、朱子学の影響も受けながら独特の礼法を完成させていった。その基本はやはり通い婚など儒教倫理に反する行いの禁止であり、様式の中に人を押し込めることで摩擦を少なくするという対人技術の高度化だった。
もっとも、町人文化の中にはそういった接触を拒まないものもあったかもしれないし、農村部にいけばそれぞれの地域の習慣があっただろう。たとえば若衆宿といった習慣が重要だった時代には、相撲や柔の稽古を除いても、誰彼なく触れ合って相手への親愛を示す行為が行われていたかもしれない。
いずれにしろ、不勉強が祟って、どれも想像に過ぎない。
ただ、これだけは間違いないのは、男女が手をつないだりキスをしている場面を他人に見られるというのは、大正期の開放的な気分が横溢した時代であっても、破廉恥な行為として認識されていたということだ。



一方で、日本を離れれば事情は当然違ってくる。
親愛の情を表すあいさつで、相手の両頬にキスをする海外首脳などの風景は、ニュース映像ですっかりおなじみになったし、今や違和感すら覚えない。
これもその地その地で差があり、ただ頬を寄せるだけのところもあれば、くちびるの端で頬に触れるところもある。
握手などは、それを拒んだら敵対を表明しているようなものであり、日本人が差し出された手を見て一瞬怯む姿などは、その程度のことで驚くほど日本人は引っ込み思案で訳がわからない人種なのか、と相手に思われてもしかたがないことであるらしい。
別にキスなどしなくとも、抱き合って親愛の情を示すところからコミュニケーションが始まる社会というのはどこにでもあって、慣れない人間を戸惑わせる。
一次的な接触をごくありふれたあいさつとする文化は、一神教の傘下にある場合が多いらしい、という話も聞いたことがあるが、どこで聞いたか覚えていないから甚だ怪しい。図体がでかい人種ほどなれなれしい、という冗談なのか本気なのかわからない主張も見たことがある。
また、相手が異性だった場合には当然ながら対処が違ってきて、そもそも女性と会う機会が無いという原理主義的なイスラム文化のような例もある。
海外ではあいさつ代わりにキスをする、などという誤解が日本中にあふれていた時代もあったが、今はどうなのだろうか。案外、まだそれを信じている人がいるのかもしれないが、もちろん、そんな事は無い。
比較的軽く男女間でキスをする文化はあるが、それにしても、ただの友達程度の相手にくちびる同士のキスをしたりするのはごくごく一部の人間だし、その文化の範囲もごく狭い。時代背景の問題もあるから、フリーセックスやらヒッピー文化が世を覆っていた当時に比べれば、現在はずっとその範囲は狭くなっているのではないだろうか。
もちろん、家族の中でキスをするのは良く見られる光景であり、それまでもが異様に見えてしまうというのであれば、あいさつ代わりにキスという思い込みも、あるいは正しいとしなければならないが、ここでいいたいのは家族まで含めた話ではない。あくまで男女間の話をしようと思っている。



さて、私も日本人である以上、キスに対しては、もちろん親しい友人とのあいさつ、などという意味は持たせていない。
相手のくちびるに限らず、自分のくちびるを相手の体の一部に付ける、という動作をする相手は、特別な関係にある異性か、ごく親しい身内の子供くらいのものだ。
例外として、暴れ出す寸前まで盛り上がった男だけの大宴会で、禁断ネタとしての手当たり次第のキスに巻き込まれ犠牲になった、というものはあるが、ぜひとも例外で済ませたい。
ノーカンノーカン。
舌までは入っていないことだし。少なくとも、おぼろげな記憶の中では。その後記憶を失っていたときに何が起ころうが、私の感知する所では無い。



キスにも様々に種類がある。
軽くくちびるを触れるだけのキスから、お互いが上なり下なりのくちびるをくちびるではさむキス、くちびるを舌でつついたりなめたりするキス、舌をなめあうキス、舌を口の中にまで入れあうキス、など。
くちびるを固く閉じ合い、じっと目を閉じてそっとキスをする、というのが最もエロティックだというフランスの聞き取り調査だかなんだかがあったが、要はただ相手を求め合い獣性に任せたキスをしても、精神的な部分でのエロティシズムは高まらないということなのだろう。
といって、相手の口中に下を差し込んでいくキスにエロティシズムが無いということもないのだろうが、過度の性表現は、かえって心理的な高まりを阻害する。簡単にいえば、しらけてしまう。
いい忘れたが、ここでいうキスは単独の行為としてのキスであり、セックスの前戯としてのキスは含めない。
直接セックスに結びつかない愛情表現としてのキスでは、なまじ舌など使わず、相手の息遣いを確認しながらゆっくりと唇を合わせるというのが、互いの気持ちを高めるのに良いようだ。



人前でキスをする、という行為をする若者がいる。けしからん。
という話を聞くが、男友達などに聞くと、無理、の一言で終わってしまう場合が多い。恥ずかしいし、そういうことをするのは「バカップル」に任せておけばいいという考えだろう。
一方バカップルを自認する人間に話を聞くと、「海外では恋人同士が街角でキスしたりしているじゃないか」という。「しかも、それを見ても街の人たちは何も言わないし、絵になっている」と。
それを聞いていた非バカップルの人間は「それは外国だから似合うんで、日本でやっても似合わない」と反論する。
私には、どちらも違う気がする。
カップルだろうがそうでなかろうが、日本に住んでいるからには日本の風習を尊重すべきで、周囲が困惑するような行動は控えるべきなのは、わざわざ説教するのが馬鹿馬鹿しいほどに当たり前のことである。
その一方で、街角でいちゃいちゃするのが外国人の特権のようにいう日本人も、自分たちを卑下しすぎている。



欧米だって昔から公然とキスすることが許されていたわけではなく、中世期にそんな事をしたら、確実に地域社会の大問題になっていた。近世から近代へと時代が下っても、ピューリタニズムと反動思想の狭間に揺れる社会にそれを許す素地はなく、街頭キスなどというものがまともに見られるようになったのはせいぜい今世紀に入ってからのことだ。
しかも、当初はずいぶんと問題にもなったし、批難の眼差しで見られることもあっただろう。それでも、若者が周囲の大人社会にプロテストする手段としての性文化の追求というものは、いつも見られる現象。
第二次世界大戦が終わり、戦場から男たちが大量に戻ってきたときに、あるいは冷戦が始まりつつも曲がりなりにも平和が訪れたときに、恋人たちの行動が開放的になるのは当然の成り行きだろう。
さらにそれが一気に燃え上がったのがベトナム戦争の前から次第に盛り上がっていた、若者たちの社会運動だろう。伝統的な価値観を放棄し、大人たちが作り上げた反平和的な体制(と彼らが考えた)を崩そうという運動の中には、当然ながら性文化面での解放、というものも含まれていた。
ありていにいえばフリーセックスとか社会的な契約としての結婚の放棄などだが、行き過ぎたそういった行動はやがて淘汰され消滅した。
だが、後には、より恋人たちの行動が開放的になったという事実が残され、今に至る。
のではないかと自分では思っているのだが、反論の余地がありすぎるので強弁はしない。そんな気がする、というだけのことだ。



日本では、欧米ほど開放的になる事はなかった。当然の話で、日本は敗戦国であり、そもそもキスというものが現在ほど重要視される文化が根付いていない。
欧米から遅れてその文化が根付こうとしているときに、多少の軋轢が起きるのは、これまた当然の成り行きだろう。
だが、自分たちもそれなりにいちゃいちゃしてきた、という世代が老人になったとき、若者たちを批難がましく見る目は多少和らぐはずで、それまで日本が平和な社会であれば、あるいは現在程度に寛容であれば、街角でひっそりといちゃつく程度のことはごく当たり前に行われるようになったりするのではないか、と思ったりもする。



では私自身はどうなのか、というと、わざわざ書くこともない気はするが、間違いなく潜在的カップル人間である。
人前で恋人と手をつなぐという行為に抵抗はないし、電車の中で恋人の腰に手を回すくらいのことに照れる方でもない。恋人が嫌がるのを承知で、隙を見てぱっとキスをして肝臓をえぐるようなぐーを入れられる、というのも割とよくやる。
人がしていても別に気にはしない。それがさりげなく、わざとらしくなければいいと思う。自分の所有欲や自己顕示欲の表現としてそれをされると見苦しいが、そういう人間のほうが目立つ内は、まだ日本にはキスや睦合いの文化が根付いてはいないのかもしれないなあ、と思う程度のことだ。
当然のマナーとして、人に迷惑をかけない行動はするべきだろう。程度の問題だ。わざわざ人からよく見える場所でいちゃいちゃせず、誰の視線の邪魔にもならないところで、気持ちの区切りや切り替えの手段として触れ合う、というさりげなさが必要ではある。
空気を読む、と言い換えてもいい。



少し本題から外れた話ばかりしてしまったが、私はキス自体、かなり好きな方だと思う。
途中でも述べたが、セックスの前戯としてのキスは除外する。
くちびるから感じる相手のくちびるの感覚が好きだし、他のどの感覚より、くちびるで相手を感じるのが官能的なのではないかと思ったりする。もっとも、手をつないでいるだけでも、相手と心がつながっていると実感さえ出来ていれば、あるいはそう思いこんでいられれば、官能の感覚は味わえる。
また、くちびるを合わせるという、行為自体の特殊性が持つ意味も大きいだろう。それをするというのは、日常生活のどんな行為にもつながらない。立ったり座ったまま、何かに唇を寄せるという行動が、日常生活の中にあるだろうか。
その特殊性ゆえに、また感覚がどんな愛撫よりも鮮明であるがゆえに、キスというのは儀式たりうる。
言葉が心を規定していくように、キスもその儀式としての効用ゆえに心を規定していくだろう。
キスを、なめてはいけないと思うのだ。