わずかな誇り


世に様々な問題があり、語るべきことはいくらでもあるのに、それを語れないのは、間違いなく自分のことで手一杯になっているからだろう。
自分自身をすら持て余している状況では、外に目を向けることなどできない。外界の事象を目に入れて行こうという気力が、そもそも湧かない。内にこもり、閉ざし、光の差さない風景の中でじっと膝を抱いているような状況が続いていた。
今もそれが続いているが、ちょっと気分転換になるような仕事が先週の水曜日と今日、転がってきたせいか、少し気分が晴れている。
誰かと話がしたい、などという、年に何回も湧かない欲求に捉われるのはこんな時だ。生来の引きこもり体質ゆえに、別に一人でいることが寂しいとは思わないのだが、気の置けない友人などと無駄話に興じたり、深刻な顔をしながら陰険で凶悪な冗談を交わし「おぬしも悪よのう」などとバカ話で盛り上がったりするのもいいかな、と思える時がある。
もっとも、気の置けない友人関係というものをバキバキとへし折って歩いてきた人生のおかげで、そんな気を起こしたところで、話す相手がいるわけでも無い。なかなか難儀な体質である。



仕事の一環で、300名を前に舞台上で歌うという奇天烈な行為を行った。最近のことだ。
準備期間を3日しか置かないという暴挙は、舞台上で頭が真っ白になって歌詞が全て飛ぶという無様を呼ぶ結果にはなったが、予定通り馬鹿をさらけ出すことは出来たので、ぎりぎり成功というところ。もう少しまともな準備をしていればなお良かったが、まあ、自業自得なので、次回への反省点としておく。
わりと大人数の前で歌うといったことは平気な方で、むしろ中途半端な人数の前で喋らされる方が緊張する。アドリブが利かない=頭の回転が良くない人間なので、何か質問などを振られると一気に崩れてしまう。
だいたいにして、引きこもりの人間が人前で喋るということ自体が無茶なわけで、コミュニケーション不全であるがゆえに一人を好んでいる人間なのだから、対人関係の構築や折衝能力、弁論力を求められても困る。
それでいて営業職になど就いているのだから呆れた話だが、手に職があるわけでもない無能な人間には、無理でも口と足で稼いでいくほか道が無い。



などと愚痴を書いてみたりしたが、匿名性の高いネットでの愚痴というもの、非常にありがたい。書き捨て、されど誰が読むともしれない、という曖昧さが、愚痴の掃き捨て場として貴重である。
もちろん、知り合いが時々目を通していたりするのだが、知り合いといってもネット上での知り合いばかりであり、明日明後日会うという人間が見ているわけではない。誰に迷惑をかけるでもなく、家族や友人が見たら心配のあまり電話でもかけてきかねないようなことを書いても、どこからか反応が返って来るわけでも無いという気安さがありがたい。
なるほど、ブログの効用ここにありだな、という気がする。
誰も目に出来ないところに書いても気が晴れない駄文をそ知らぬ顔でネットの片隅で垂れ流し、そのことで誰かに怒られたりするわけでもなく、日に数百億のログの中に静かに埋もれていくという希薄な存在感がなんとも好ましい。
ゼロではないが限りなくゼロに近い存在感。
完全な匿名ではないが限りなく匿名に近い自我。
私のような中途半端な引きこもりにはたまらないぬるま湯なのだが、残念ながら、ここには私が生きる術を見出すことはできない。生きるためには、食っていくためには、リアルで働き、痛めつけられても立ち上がり、存在を否定されてもしがみついていかなければならない。
大半の人間はそういう苦しみを抱えながら、それでもなんとか踏みとどまって戦っているわけだが、自分もそうして何とか生きているという事実に、少しだけ誇りを見出してもいいのかな、という気がしている。