変身


 誰にでもあるものだそうだが、私にも一応、変身願望がある。
 一言に変身願望といっても、もっと綺麗な顔になりたい、とか、スリムな体型になりたいという実現可能性が無いわけでもないものから、異性になってみたい、好きな動物の姿になってみたいなど、SFやファンタジーの領域に踏み込んだものまで様々ある。
 私の場合の変身願望は、年齢とともに移り変わりがあった。


 子供の頃は、まあ、他愛も無い話で、当時はやっていたマンガのキャラクターだったりする。たとえば、「星闘士聖矢」の紫龍。私の周囲でも一番人気のキャラクターで、ごっこをするときには取り合いになった記憶がある。


 もう少し年を経て中学生くらいになると、思春期に入り性と向き合うようになるせいか、女性への変身願望が生まれてくる。
 これには、単に女性になってみたいという願望以上に、未知の存在である女性性というものに対する強烈な憧れや、自分の得体の知れない性衝動に対する嫌悪感が関係している。
 自慰行為が、少年にとっては自己否定にも繋がる罪悪感や絶望感を与えてしまうことがあるが、私の場合もそうだった。今となってみればかわいらしいものだが、渦中にいる少年にとっては一大事だ。
 その嫌悪感が、自分の性器に対する嫌悪感に繋がったり、男性に対する嫌悪感に繋がったりする。その結果として、男性にとっての聖性の象徴である無垢な少女への変身願望というものが生まれる。
 誰でもそういった願望をもつというものではないが、決して世に少なくはない。
 その願望をどのように昇華して行くかは、人によって異なる。


 美少女関係のアニメ、ゲーム、フィギュアなどに走るいわゆるオタクの中には、そういった変身願望を置換する対象としてそれらの趣味を楽しんでいる者がいる。これも決して少なくはないはずだ。
 評論家の中には、ロリータ趣味も、自分の男性性への嫌悪感からくる無垢性への憧れから生じるものだとする者がいるが、あながち間違っているとも思えない。
 自分の男性性への嫌悪を強く持っている限り、男性としての自分に対する自信などというものは持ちようがなく、したがって、女性性を強く持っている第二次性徴終期以降の女性に対する際に、自信を持って臨むことなど出来るはずも無い。それが大人の女性に対する忌避感、あるいは恐怖感を産み、かといって女性に対する衝動を消すことも出来ず、幼女への嗜好を肥大化させてしまう。
 あるいは、処女信仰というものも似たようなものだろう。他の男性を知っている女性が相手では、自分への自信が持てない男は、比較や嘲笑を恐れて一歩も前に進めなくなってしまう。処女ならば比べようが無いから、多少自信を持って望めるという理屈だ。
 幸か不幸か、私にはロリータ趣味も処女信仰も無い。
 年相応というべきか、中学生の頃は中学生に、高校生の頃は高校生に、それぞれ強い興味を持っていたが、それをロリータ趣味とは呼ばない。これまで何人かの女性と付き合ってきたが、相手に処女を求めた事は無く、実際処女だった女性もいない。


 話がそれたが、私にも女性への変身願望はあった。
 それは、言ってみれば女性というものに対する憧れがベクトルの向きを変えただけの事で、向きを変える原因になった男性性への嫌悪感を外してしまえば、残るのは女性というものに対する絶大な好奇心だ。
 私は、女性への変身願望を、小説に仮託した。昇華した、とまではいわないが、小説を書き、そのキャラクターに自身を仮託することで変身願望を満たした。
 だから、変身願望が強かった時期、つまり男性性への嫌悪感が強かった時期に書いた小説に出てくる女性像は、どれも似たり寄ったりの理想的な女性たちで、きれいごとばかりで生き生きとした魅力に欠ける。


 ほぼ同時期、別の変身像もあった。
 これも小説的想像力の中から生まれたキャラクター的なもので、小説として描く事は結局無かったから、キャラクターだ、と断言することもできない。キャラクター的、な存在。
 無口で、実行力があって、天才的な頭脳の持ち主で……という、いかにも妄想上の人物だった。ついでにいうと、長身の美青年だった。なにか、女性側のオタクが喜びそうなキャラクターではある。
 今、彼の存在はほぼ消滅している。そういう人間に対する憧れが失せたということもあるし、変身願望自体が無くなっているということかもしれない。


 話はだいぶ変わるが、そういった願望の話ではなく、実際に人間は容易に変身しているのではないか、という話。
 装いの話だ。
 人間は、誰と対しているか、どのような場面にいるかによって自分の顔を使い分ける機能が備わっている。心理学の学派によってその捉え方や呼び方が違うから、いちいちそれに言及はしない。
 それを仮面といったり欺瞞といったりして忌避する必要は無い。人間に、その全てを自覚できるほどはっきりとした自己などというものは存在しないのだから。相手や場合に応じて無意識にせよ意識的にせよ自分を調整し、周囲に心の形を合わせていけるからこそ、人間は自由に生きていけるし、関係の多様性も生まれる。
 そのスイッチとして有効なのが、装うということ。
 フォーマルな服装になれば気が張るし、カジュアルな服装になれば落ち着くし、ジャージやパジャマ姿ではリラックスするだろう。
 仕事着としてのスーツを着ると、私も精神的に仕事モードに入る。私は現在営業部に所属しているが、以前に技術部門にいたころは、作業着を着るとやはり仕事モードに入った。逆に、それらの制服を脱ぐと、それだけで心が仕事から離れて行く。
 変な話だが、仕事着であるスーツを着たままで恋人と会い、デートなどしていると、落ち着かない。これはまだ心が仕事モードから脱し切れておらず、恋人と睦み合うなどという行為に没頭できる状態になっていないということなのだろう。
 逆に、これを利用している部分もある。つまり、仕事で気合を入れてかからなければならないというとき、そのために準備していたスーツを着る。すると、その服を選んでいるという時点で気合が入り、着ることで意識が冴えてくる。
 装うということは、自分の心を自分である程度コントロールするために重要な技術の一つである。


 なりたい自分になる手段として装うことが利用できる。これは、自分が現在置かれている立場に必要だからという理由ばかりで考える必要は無い。
 なりたい自分とは、自分の理想像という意味で捉える事も出来る。
 自分にはこれが似合いそう、という理由で服装を選ぶのではなく、こんな服が似合うようになりたい、という理由で選ぶのも、あるいはなりたい自分に近付いて行く手段の一つではないかと思う。
 それが今の自分に似合っていないように思えても、「馴染む」という言葉があるように、その服にひっぱられて心がその服装に合うように少しずつ変化し、いつかに似合うようになることだってあるのではないか。
 おしゃれの楽しみの本質は、案外そんなところにあるのかもしれない。単に外見の印象を変えることで変身を遂げるのではなく、精神的にも自分が望む姿に近付いて行くこと。人間の体と心は不可分のものだから、それこそが本当の変身なのだろう。