自由


 国家というものが宗教によって動かされる、ということに、実感が持てない。
 それは、自分が宗教から無縁に過ごしてきたことに関わりがあるのだろう。私の実家は無宗教で、クリスマスケーキを食べた一週間後に初詣に出かけることに全く抵抗感を抱かない、多くの日本人に見られる宗教観そのものの家庭だった。
 日本という国自体、少なくとも現代においては、宗教が国家運営に大きな影響力を持つ事はなかった。公明党があるではないか、という意見も出そうだが、公明党に何が出来ているというのか。自民党の尻にしがみついて、政権のキャスティングボードを握ったと大法螺を吹くのが関の山だ。
 宗教のコミュニティが身近にあれば、コミュニティの延長線上にある国家が宗教によって動くということも多少理解できたのかもしれないが、私の周囲にはそういったものもなかった。
 完全に無かったわけではない。父の実家は創価学会員だったそうで、宗教コミュニティとしては現代の日本でも有数の巨大さと結束の強さを持つこの組織が身近であれば、多少状況は変わっていただろう。だが、父は早くから実家に馴染まず、ついには若くして勘当され、すっかり没交渉になってしまっていた。私は幼い頃に数度、父方の祖父の顔を見ているのだそうだが、全く覚えていない。縁など、無いも同然。



 だが現実に宗教が今の世界を動かす要素のひとつになっている。
 耳に新しいところでいけば、W杯アジア最終予選で日本が入っているグループに、宗教国家がある。イランだ。
 イランは、1979年のイスラム革命によって、イスラムシーア派の指導者ホメイニ師が国家の指導者となった。以来、イランはイスラム教を指導原理とし、今でもその体制に変わりはない。民主化の動きがあるというが、イスラムの教義を逸脱するような政治は決して行われない。
 そのイランの周辺には、イスラム教に則った政治を行う国がたくさんある。ペルシア湾岸のサウジアラビアアラブ首長国連邦などは厳格なイスラム教国で、たとえば女性が顔を出して歩くことすらままならない。



 アメリカが政教分離を成し遂げている、と信じる幸せ者はもはや世界のどこを探したっていはしないだろうが*1、それでも、一応体裁としてはキリスト教が国教とは口が裂けても言わずにいる。
 一方で、アメリカが目下もっとも敵視しているイスラム諸国は、自分たちはイスラムであると公言する。
 アメリカがイスラム国家を敵視するのは、今に始まったことではない。9.11以来の対イスラム戦、という図式がどうしても強調されて見えるが*2、前述のイスラム革命以来、アメリカという国はイスラム勢力にアレルギーを持ち続けている。イスラムキリスト教積年の敵であることも当然関係しているし、アメリカ政界にその財力で深く食い込んでいるユダヤ人社会が、彼らの宿願であるユダヤ人国家イスラエルを守るために陰に陽に活動していることも関係しているが、もっと理念的な部分での差が軋轢を生んでいる面も大きいだろう。
 昨日からニュースで散々ブッシュ大統領の二期目の就任演説が流されているが、そこで彼はひたすら「自由」「自由」と口にし続けたという。それは、アメリカ人の拠って立つところがその一言に集約されているからだ。
 アメリカ人は、freedomという言葉に異常な執着を見せる。その言葉は、自由を得るために植民地から脱し、運命の定められるままにそこにいた原住民族を粉砕しつつ西へ西へと大陸を進み、北アメリカ大陸を制覇すると世界まで制覇したアメリカという国の、酸素のようなものだった。無くなればたちまち命を失う。自由という名の許にのみ、アメリカの国家は成り立つ。
 その自由を守るために生まれたのが民主主義であり、共和制である。
 アメリカ人は、ただ法によってのみ国民であると規定される。なぜなら、「アメリカ人」という人種あるいは民族は存在しないからだ。共通の文化体系も無ければ、日本人のような単一民族というコンセンサスも無い。法以外に国家というものを成立させる道具が無い。国家には統治の正当性というものが必要だが、アメリカ合衆国が成立するたった一つの正当性、それが、自由を保護するための法の守護者たること、だった。
 ここで、彼らのいう自由というものが何なのか論じていると、とても本題に戻れなくなってしまうから、あえて極論してすっ飛ばしてしまうが、彼らにとっての自由とは、法の下ですべての人間の権利が平等かつ公平に扱われること、である。アメリカの現実はその理想に追いついていないが、その努力を延々と続け、血も涙も流しながらたくましく未来を築き続けたアメリカ人の歴史というものは、尊敬に値する。
 そのアメリカがイスラムにアレルギーを持つのは、彼らの考える自由、あるいは民主主義というものが、イスラム諸国に感じられないからだ。そして、その国民たちがそれを受け入れていることが理解できずにいる。理解できない相手に得体の知れない恐怖を抱くのは、人間の当たり前の感情だろう。



 だが、アメリカ人の考える自由とは別の自由が存在するのだ。
 イスラムとは、単なる宗教ではない。
 イスラムという言葉は「神への帰依」を意味していて、別に宗教そのものを表してはいない。イスラム教徒のことをムスリム(帰依する者)、というのだが、ムスリムは、神の教えに従い生活し、その法に従い社会を営む。ムスリムにとっての自由とは、神への帰依を貫くことであり、それ以上でも以下でも無い。国家や社会は生活のために必要な入れ物にすぎず、フランス革命以降の人権主義など異教徒の戯言にすぎない。
 当然、国家はイスラムの法(シャリーア)に乗っ取って形成されるし、その国家を維持することがムスリムにとっての自由である。アメリカのいう民主主義国家など、ムスリムにとっては異教のシステムである以上に、シャリーアをないがしろにする悪魔のシステムだ。
 それを受け入れられないと考えるのは、アメリカ人が「自由という言葉を使うな」と命じられ強制されるのと同じことといえる。
 政教分離を実現したイスラム国家が無いわけではない。かつてイスラム世界を制覇し、高い文明と文化の力で栄華を極めたオスマン帝国、その中心として栄えた今のトルコだ。だがこれも方便である部分が大きい。
 体制の弱体化から民族主義の運動が多発してオスマン帝国が崩壊した時、欧米列強の手から独立を勝ち取るために、トルコは急速な近代化と軍事力の強化が求められた。その手段として政治から宗教を切り離し、西欧化することが必要になった。その結果としての政教分離であり、イスラム主義を標榜する反体制派が、国民の間にはむしろ大きな勢力を持っている。
 それが暴発しないのは、トルコでは近代化主義(世俗主義ともいう)の護持者的立場を取る軍の力が強いからだ。いくらイスラム主義が強くても、東西冷戦の時代に常にソヴィエト陣営の圧力を受け続けざるを得ない位置にあるトルコは、地政学的に軍事力に頼って国家を運営することになった。なにしろ、共産主義陣営に入れば、イスラムムスリムもなくなってしまうのだ。民族や宗教などという瑣末な、と唯物論が唱える事象は、共産主義国家に組み込まれてしまえば根絶やしにされる。
 その恐怖感があったから、トルコは政教分離に成功したといえる。もちろんそれだけが理由ではないが、政教を分離することで逆に宗教や民族を守ろうとしたとも言える。トルコは決してムスリムであることをやめた国ではない。
 そういう自由も、世界にはあるのだ。



 アメリカが標榜する自由は、確かに魅力的なものだった。今でも決してその価値は輝きを失っていない。
 独裁者が国民の命をすすりながら体制を維持している国に、自由と民主主義のもたらす平和を与えたい。その理想は確かに尊い
 だがアメリカが勘違いしているのは、自分たちの自由が万能であると思い込んでいることだろう。
 ムスリムとして生きるために、シャリーアに則った国家を営んでいきたい。そう考える人々がいる。それを実現し、現実を生きている人々がいる。その彼らから彼らの自由を奪い、アメリカ人の考える自由を与えようとする行為が、人間として正しい行為だといえるのか。
 人権問題は重要なことだし、特に女性の人権が平然と踏みにじられている部分がイスラム国家に多く見られる事は否定できない。それを放置していて良いわけは無いのかもしれない。
 だが、イスラムからシャリーアの国家を取り上げて無理にアメリカ的自由と民主主義を押し付けることが、民族全体への人権侵害であるという考え方だって出来るのではないか。
 人々は、人々の意思によって統治される体制を選ぶべきである。それがフランス革命が産んだ自主自尊の原則ではなかったのか。民主主義の大原則ではなかったのか。
 ブッシュがなにを言おうが知ったことではないが、自由という言葉の意味を、もう少し考えてもいい時期なのではないかと思っている。

*1:現政権の宗政一致ぶりはいっそ見事なほどだろう。宗教右派が政権を取ると、平和を口にしてどれほどの攻撃性を見せるか、その戯画を世界は見せつけられている。

*2:もちろんアメリカ政府はその見方を頑なに否定している。