ドライブ

 私は貧乏サラリーマンだから、自前で車を持つなど夢のまた夢。入社2年目がもっとも年収が高かったという、不況の中の笑えない現実のおかげで、車どころか引越しもできない有様。ワンルーム暮らしも7年目を迎えようとしている。
 だが、仕事の都合上、技術職だろうが営業職だろうがペーパードライバーではいられない。現場へ行くなり、営業先へ行くなり、車を運転しなければ仕事が出来ない。都内だけなら電車移動で営業回りができなくはないが、公共交通がそう発達しているところを回っているわけではないから、毎日のように運転席に座ることになる。
 今日も、埼玉県内の日高市東松山市、川島町、川里町騎西町北川辺町をぐるりと回って埼玉県最南端に戻ってくるというハードな行程で走ってきた。距離にして200kmに足りないくらい。
 もっとも、これくらいですごく走ったという印象を持つことはない。宇都宮まで高速を使わずに行き、帰りがけに栗橋町行田市熊谷市東松山市を回って帰ってきたときは、350kmを超えた。プロドライバーが見たら「何だその程度」という距離だろうが、さすがにあの時は疲れた。運転それ自体が仕事ではないのにこれだけ走っていると、本業の営業より運転しているほうが楽なはずなのだが、頭痛がしてくる。



 それでも、天気がいい日にぼんやり走っているのは楽しい。仕事の予定がつまっていたり、難しい案件があって頭の中が整理できていないときなどは、運転していても気が気ではなく、とても楽しめたものではないが、行ってみないと仕事にならないという場面だと、行くこと以外に懸案が無いから、急がず騒がずドライブ気分で運転できる。
 ナビもないし、オーディオなど積んでいるはずもないが、一応FM・AMラジオが入るし、その気になればカセットデッキアダプタを使ってポータブルプレーヤーからCDを聞けないこともない。近場をチョコチョコ回る時は別だが、確実に一日がかりの行程になるとわかっている場合などは、時々その手でお気に入りのCDをかけて熱唱しながら車を走らせたりする。
 ただし、熱唱はあまり連続して行わないことにしている。一度、営業先に行く前に声が枯れかけたことがあったからだ。しゃがれ声で話す営業が行ったところで、客は風邪を警戒して引くだろう。
 あまり歌に熱中していると、対向車線を走っているドライバーが怪訝そうな目で見たりはするが、それはあまり気にならない。へたくそな歌が聞かれているわけでもなければ、知人でもない。



 知らない道を走っているのが一番楽しいかもしれない。
 渋滞を潜り抜けるための抜け道などは、私はあまり好きではない。だいたいが付近住民の生活道路だからだ。ドライバーにとっても危険だが、なにより歩行者にとって危険であり迷惑でもある。自分が歩行者であれば、たとえば生活道路を歩いている子供たちなどにクラクションを鳴らして走り去ろうとしている車が至近にいたら、ドアを蹴飛ばしてやろうという欲求を抑えるのに苦労する。
 実際、幅が4mに満たない古い住宅街の道に無理に侵入してきておいて、駐車車両をよけて走っていた老人の自転車に怒鳴りつけていた中年の男性ドライバーを見て、思わず瞬間的に腹が立って、全くの第三者ながら怒鳴り返したこともある。
 宅地内の道路に入ってきた通過車両の分際で歩行者や自転車を怒鳴りつけるなど、なめた態度にもほどがある。幹線道ならばともかく、生活道路は通過車両にとって「使わせていただく」道路でしかない。別に道路法にそう規定しているわけではないが、それが一般的なコンセンサスというものだろう。
 それはともかくとして。
 都道府県道クラス以上の知らない道をのんびりと走っているのは、それが昼間なら実に楽しい。夜は景色が見えないから楽しさは半減だが、渋滞さえなければそれでも楽しいものだ。
 なにが楽しいのか自分でもよくわからない。見慣れない風景の中を走っていることが楽しいのか、歩いていては体験できない速度で景色が行き過ぎていくのが楽しいのか。自分の中に無いリズムで走るのが楽しいのか、記憶が無いために先が読めない緊張感の中で走るのが楽しいのか。
 いずれにしろ、オートマチック車で操作感を楽しむのが難しいような車でも、交差点ばかりの都会の道だったとしても、知らない道はおもしろい。まあ、信号の少ない田舎道ならもっといいのだが。



 ドライブが楽しいというのは、なぜなのだろう。
 乗り物にただ乗っているだけで気持ちいいと感じる、というのは、考えてみると不思議な感情だ。
 理屈をつければどうとでもつけようはあるし、何となく納得できない気もしないではないのだが、すっきりとはしない。
 乗り物にただ乗って楽しむという性癖は、昔から人間には存在した。代表的なところを挙げれば遠乗り、というやつで、馬に乗って遠出をする。これは洋の東西を問わずあったようで、平家物語にも史記にもイーリアスオデュッセイアにも記述がある*1そうだ。
 自動車が発明されて以来、人間は干草で動く馬から化石燃料で動く車へと移動手段をシフトさせたが、そのことから、馬を飼うよりは容易に管理できるせいもあり、また操縦それ自体が馬に比べれば遥かに簡単でもあり、遠乗りを楽しむ人口が爆発的に増えることにもなった。
 自動車とは、四輪の車ばかりではない。バイクだって立派な自動車だ。区分けの問題で、自動車といえば四輪車と決め付けられているが、言葉そのものの意味から考えれば(オートモービルの和訳)、機械的に作動して軌道敷以外の地面を自走する車であれば、なんだって自動車と呼んでいいはずだ。
 二輪車のほうが、積載性に乏しく実用性が低いからこその身軽さと自由さで、より娯楽性が高くて楽しい。人馬一体感、というやつだ。残念ながら私は二輪免許を持っていないから想像するしかないが、自転車で坂道を下るだけで楽しさを感じるのだから、パワーのあるバイクで道を流して行く楽しさは他に換えがたいものなのだろう。



 環境問題が厳しさを増している今、化石燃料を垂れ流しにして楽しむという行為はあまり褒められたものではないのかもしれないが、楽しいのは事実。交通法規以前の問題としてのマナーを守れないような人間が乗れば、凶器以外の何物でもない自動車だが、いらいらせず泰然として楽しむ余裕があれば、さほど人に迷惑もかけずに有意義な時間を与えてくれる。
 自分の車も持てない私がいうのもなんだが、操作性の高い車*2で知らない道をのんびり走るのは、たとえ目的地が仕事場であっても楽しいものだ。
 その楽しさの裏側にある危険性をきちんと認識して、誰もがもう少し大人な運転ができれば、交通問題も少しはましになると思うのだがどうだろう。

*1:もっとも、私が実際に読んだことがあるのは史記だけで、しかもどこの話だか覚えていない。平家物語などの文献に遠乗りの記述があるというのは、全く別の本からの知識なの、実際どうなのかは未確認、あしからず。

*2:高級車より、安くて軽くて脚がしっかりした車のほうが運転そのものはずっと楽しい。