いいわけ

 木曜日、仕事が終わってから久しぶりに同僚と夜中の3時過ぎまで麻雀などしたものだから、金曜日と土曜日はくたばっていた。麻雀自体の疲れはそれほどでもないのだが、タバコを吸いすぎたらしく、帰り道はふらふらしていた。タバコは吸いすぎると胃に来るから、食欲も無いままに野菜ジュースばかり飲んでいた。自爆。
 学生の頃などは、一晩中打っていても眠くてヘロヘロになる程度だったのだが、仕事についてからは麻雀自体する機会が無く、おかげで麻雀をするときの体調管理がまるでできなくなっていた。これはもう、年だから何とかではなく、タバコは無意識に吸わないようにするだとか、あまりだらけた姿勢にならず座るとか、そういう当たり前だったはずの自分ルールが守れなくなっていた自分に原因がある。
 次の機会には、学生時代に何回も自爆して得た教訓を再度記憶の底から引っ張り出しておかなければ、本当に体調を崩す。気をつけよう。



 ブログに書くことが無いのはなぜだろうかと、つらつら考えてみたりする。
 元来、私は内弁慶の語りたがりのはずで、ごく親しい者の集まりなどがあったりすると、私好みのネタが出た瞬間にがっつり食らい付き、延々と長演説をぶったあげくにみんなが引いたのに気付いて撤退するという、寒い性格をしている。というか、痛い性格。
 さすがに30も近くなってきてそういう場面は減り、減った分をブログなどで好き放題書き散らして発散するという、さらに痛い人間になってしまったわけだが、最近はそれすら少なくなってきた。
 チャット時代もそうだった。もっとも、チャットは会話の流れが分断されるのが異常に早く、また、私以上に痛いやつがいくらでもいたため、そういうやつをからかったりして楽しむというあまり人に勧められたものではない趣味にいそしむことで自分の痛さを軽減したりしていた。
 ブログは少なくとも不特定多数に自分の言質がさらされるという性質を持っているから、たとえ注目もされずログが無駄に消費されるクソスレ状態であっても、多少の自己満足とともに語り続けることが出来た。だから、文章書くのが好きなのに筆不精という矛盾しまくった私であっても、以前はてなダイアリーで運営していたブログから現在のここに至るまで、けっこうな分量の文章を書き続けることができていた。
 それがここに来て、書く意欲が薄れてきている。
 もともと、身の回りにそう事件のある人生を送っているわけでもなく、できるだけ平和に、波風の立たないようにと地味に生きている人間だから、書くネタが身辺に転がっていていくら書いても時間が足りません、と言えるような人間ではない。
 興味があることもそれほど多くはなく、また、現代の病巣についてえぐりだす、という芸当ができるほどの教養や観察眼があるわけでもない。ネット社会ではあまり余計なことを書くと火をつけられ、あっという間に燃え上がって運営不可能になったりする場面が往々にして見られるが、私が何を書いたって火を付けられるほどの注目を集めるはずもない。立場の無い、また政治的におかしな思想体系を持っているわけでもない(自分の評価ではなく、他人の評価がね。)人間が、多少自分の意見というものを過激っぽく見せて書いたところで、それが注目されるにはよほど能動的にネットを徘徊する必要がある。トラックバックを張り巡らしたり、アンテナ機能を駆使したり。
 だが私は一度たりとも自分からトラックバックしたこともなく、アンテナも使おうと考えたことも無い。立場ということでいえば、私は有名人でも無いし、どこかのマスメディアに所属しているわけでもない。信心もなければ政治的にどこかの政党を支持しているわけでもない。土木業界の人間であるという仕事の都合上、自民党よりの立場を取らされてはいるが*1、何も天皇国家元首に、とか、自虐史観廃絶とか、右翼がいいそうな事は言下に否定してしまうたちだし、かといって憲法を何が何でも守ろうとするのは愚の骨頂と思っているくらいだから左翼でもない。つまらん人間だ。
 自分がつまらないから、他人のことを書く。そういう考え方をしていた作家がいる。私が好きな司馬遼太郎だ。なるほど、と思うが、それは彼に類稀な素質があったからで、そもそも対人関係の構築が嫌いという救いがたい性格をしている私に、他人のことなど書けるはずがない。彼は座談の名手だったそうで、講演や対談などの本を読んでいると、ああなるほどと思わせるものがある。じゃあ私が座談や対談ができる人間かといえば、そんなものができればもっと営業マンとしてぱっとした仕事ができているはずだ。そもそもブログを書く暇など無いくらいに友人たちとの時間を取っているだろう。
 書いていて情けなくなってきたが、一言で表してしまえば、私はいたってつまらない人間で、自分をネタにして書くには限界が低すぎる。



 私が文章を書くようになったのは引きこもりが原因で、ある種の自己分析の一環として利用していた部分がある。
 暇つぶしとして、あるいは数少ない自己表現、自己実現の手段として書いていたのだが、結果として、自分が何を考えていて、自分がどのような人間であるかを把握する、もっとも有効な手段として働いていた。
 普通の人は、これを人間関係の中でやる。他人は、自分を映す鏡なのだから。他人の自分に対する対応を見て、自分がどのように他人の目に映っているかを考え、どのように映りたいかを考え、自分自身を修正していく、その作業の繰り返しが人間的成長というもの。だから、対人関係が濃密な環境で育った人間の方が、魅力的で頭の回転も速い人間に成長して行く。IQとはつまるところ対人関係で育まれる、と極論する評論家もいるほどで、私のようにまともに人間関係を構築できない人間などは、いつまでたっても成長できずにうろうろするはめになる。
 それでは社会人として生きていけないから、どこかで多少なりとも補償していかなければならない。その補償の手段が、私の場合は文章だった。文章を書き、ある程度時間が経ったときに読み返し、その文章の中から自分の嫌な部分や好きになれる部分を見つけ、自分に修正を加えて行く。他人との関係の中でならばものの5分でできるところを、私の場合は数ヶ月単位で行っているわけで、成長は著しく遅い。ただ、それをしないよりはした方が遥かにましであるはずで、だから今でも私は何かにつけて文章を書いていきたいなと考えている。
 と、こういうことをじくじく書いている段階で、私に好感や興味を持つ人間が少ない事は実証されている気がする。自分の傷ばかりほじくっている人間など、私は嫌いだ。それが自分なのだから、気が滅入ってくる。まったく。



 結局、自己嫌悪が原因なのかもしれない。
 ブログにせよ、なんであるにせよ、自分から何かを発信しようとするとき、何かを伝えたいという思いが必要だ。量は少なくてもいい。
 その思いがあっても、それより強い自己嫌悪があると、伝えようという行為は阻害される。
 今、これを書いていられるのは、自己嫌悪よりも、自分が書けなくなっているのは何故かという原因を考えたい気持ちが強いからだろう。だが、そういう自分についての考察以外に書けなくなっているのは、自分の意見だとか考え方というものに自信が持てなくなっている、それだけ自己嫌悪が強くなっている、ということなのかもしれない。
 自己嫌悪の原因はわかっている。
 昔から自己嫌悪、あるいは自罰傾向が強い私だが、特に今はそれが強い。自己嫌悪というより、自信喪失、か。
 自分に自信を失っていれば、当然自分の意見にも自信など持てないから、口を開く気が失せる。無口になる。ブログだって同じことなのだろう。
 自信などというものはそう簡単に身に着くものではなく、一度失ってしまえばしばらくは戻らない。
 とはいえ、書くこと自体は好きだから、ブログを書かないという事はあるまい。ただ、毎日書くという事はもう無いだろう、というだけのことだ。
 今までも毎日は書いていなかったが、それでも自分としては努力して書いていた。これは、自己嫌悪なり自信喪失なりの原因となったこと、そこからの逃避でしかなく、いつまでも続くことではない。その、いつまでも、というのが、ここにきてしまった。



 久しぶりに小説でも書こうかな。

*1:昔はともかく、今もそんな事があるのか、と驚かれたことがあるが、あるに決まっている。最終的に自民党系候補者に投票するかどうかはもちろん本人の意思次第だが、仮に私が共産系シンパだとして、自民党系候補者に対する裏切りが露見したら、私は業界にいられなくなるはずだ。まあ、共産党なんぞ過去の遺物として鼻にもかけちゃいないんだが、仮の話として。