マキアヴェッリから連想

kotosys2005-02-23



 ちょっと小説のほうは休憩中。話がまとまる前に書き始めてしまったので、改めて構成している。今さらだが。



 ニコロ・マキアヴェッリというイタリア人がいる。



 今日、仕事の都合で新宿に出たのだが、昼食をとるにしても少し時間に余裕があり過ぎたので、本屋に入った。
 適当に文庫本でも一冊買い、ファミレスで昼食がてらコーヒーでも飲みながら読もう、と思い、棚の前をうろうろしていると、「君主論」の文字が目に入った。
 実は君主論の本は他に二冊持っているのだが、片方は日本の研究者の解説本、一つは解説と翻訳を半々で編集したもの、どちらも決して読みやすいものではなかった。とにかく脚注が多いのと、学者が書いているからか、煩雑なまでに細かいところをほじくった解説文が鬱陶しくて、読むには読んだのだが胸にまったく残らないという結果に終わっていた。
 その本も、学者が翻訳したものではあった。が、基本的には全訳本。余計な解説が途中に挟まれていたりはせず、マキアヴェリの文章がそのまま日本語になっていた。
 特別厚い本ではないから、かばんの中に入れてかさばるものでもない。こりゃいいや、と、ご購入。
 読み始めると、内容は知っているはずなのだが、引きこまれた。仕事の待ち合わせまでの間、楽しませてもらった。



 だいたい、マキアヴェッリ君主論というと、クラウゼヴィッツ戦争論孫子の兵法などと並び称される、戦うビジネスマン必読の古典、などとくくられてしまうのだが、そういう割には、ちゃんと君主論や政略論、戦術論といった彼の著作を読んだよ、というビジネスマンにはお目にかかったことがない。
 抜粋した彼らの言葉のごくごく一部分を取り上げ、自分の論拠に都合の良いように解釈し、実際に書かれている文脈と比べた時に恥をかくような文章を書く不勉強なライターも多い。上記のマキアヴェッリクラウゼヴィッツなどはその犠牲になりやすく、とりあえずその名前さえ出しておけば知的且つ実践家的であるという不思議な符牒として使われているところもある。
 彼らの古典的名著の古典的名著たる所以は、現実の中から原理原則を抽出して言語化している、つまり哲学化しているという部分にある。それをそのまま読めばいいものを、何でもかんでもビジネスに応用しないと気が済まない人々は、たとえばクラウゼヴィッツの定義する戦争における戦術と戦略の違いを述べながら、強引にビジネスモデルにおける戦術と戦略の違いという話に持って行く。
 私はいわゆるビジネス書というものが嫌いだが、これまた仕事の都合で読まされる羽目に陥ることがある。著者名などコンマ5秒で忘れたが、あるビジネス書ではクラウゼヴィッツの著作を「悪魔の書である」とし、「悪魔なればこそ倫理を超えた現実に立ち向かっていける」と主張。なんと、商倫理における悪の肯定論につなげ、それが実効的であり合法であるならば行使に躊躇はいらないと言い切っていた。
 クラウゼヴィッツもまさか自分の著作が東洋の黄色猿にこうまで捻じ曲げられるとは思いもしなかっただろう*1
 クラウゼヴィッツマキアヴェッリも、商売についてなど書いていない。主題が全く違うものに対し、その著作から抽出したものを独自に理論化し、その理論を以ってある現状を分析しその結果を提示するというのならばまだしも、名言集にでも載っていたような言葉を抜き書きして自説の補強に使うなど、三流政治家の演説ではあるまいし、物書きのすることではない。
 あのくそ難解で字数の多い戦争論を読破したよ、褒めて褒めて、というのなら、褒めて上げよう。あーえらいえらい。えらいから、よく分かりもせずに終わってしまった自分をわざわざさらけ出して恥をかくことなどせず、大人しく自分の仕事上の成功談でも嬉々として書いていなさい。
 ビジネス書を読んで、その中に乗っていた古典の言葉を使いたがる大人には注意しましょう。自説を語るのに他人の言葉やら断言調の掛け声しか使えないような低脳に限って、偉そうに言葉の解説などし始めるのだから。
 いかん。毒舌になってきた。
 まあ、ここまで偉そうにこき下ろしている私にしたところで、クラウゼヴィッツマキアヴェッリをまともに理解しているとは思わない。特に前者など、読むこと自体が大変で、内容など覚えちゃいないのだから。



 話が盛大に逸れたが、マキアヴェッリの話。
 彼の本は、クラウゼヴィッツのものと比べたらはるかに読みやすい。
 近代哲学、特にドイツ観念哲学に影響を受けているクラウゼヴィッツ戦争論は、読み始めると5分でノンレム睡眠に入れる。執念の人か、あるいは基地の外でお暮らしの方か、という著述で有名な某ノンフィクション作家(また意味もなく毒舌に…)が書いたクラウゼヴィッツ論も読んだが、結局睡眠時間が増えただけだった。頭がおよろしい方々のご本を読ませていただくと、翌日の朝食が美味しいということだけは確かである。
 一方でマキアヴェッリの著述は、多少その時代の歴史背景というものを理解さえしておけば、あまり抵抗もなくするすると読める。
 彼はルネサンス期のイタリア、フィレンツェで活躍した官吏であり、政争に敗れて職を失い、山荘に引きこもっての生活を余儀なくされた時期に政治についての著作をものした政治思想家。
 イタリアのルネサンスという時代は、芸術分野で神々しいまでの輝きを見せた時代でもあるが、一方で国家として統一されていない半島の悲しさで、政治的な抗争劇や戦争が絶えない時代でもあった。フランスやスペインから度々侵攻を受け、あるいは都市国家教皇国家の間で繰り広げられた血なまぐさい抗争が続き、平和って何語だっけ? という状態が長く続いた時代。
 マキアヴェッリも、ジローラモサヴォナローラメディチ家スフォルツァ一統や「毒を盛る者」ボルジア家の一族といった強烈にもほどがある人間たちが陰謀や暗殺劇、戦争などで覇を唱えようとした時代に翻弄された一人だった。
 そんな時代を見つめ続け、母国フィレンツェのために粉骨砕身働いたマキアヴェッリは、カトリックの戒律や精神、倫理観と、現実に行われている政治の哲学とを切り離し、後に「権謀術数主義」と誤解されるような、目的のためにはすべての手段は正当化されるという言葉に代表される思想を築き上げた。
 もっとも、この言葉は文脈を考えずに抜き出した言葉であり、この言葉だけで考えてマキアヴェッリを理解すると、恥をかく。
 マキアヴェッリフィレンツェを愛し、イタリアを愛した。
 その国土を外国の干渉から守るためには、イタリアという地域を統一した政体の下に置くことが必要であり、そのためにはあらゆる手段は正当化される、と説いた。
 ただし、どう考えても悪辣に過ぎ、後にそれが悪徳として認識されて統治に悪影響を及ぼすような手段を採るのは、ただの大馬鹿者である。目的は平和の構築であり、そのために有用であれば倫理を超えた次元で現実主義的に考えて手段を用いよ、といっているのであって、別に悪を称揚しているのではない。
 そんなことは、さして厚くもない君主論一冊を読めば分かるものなのだが、自分の読みたい意味しか読み取らない、あるいは読み取れない人間というものは意外に多くて、おかげでマキアヴェッリの著作は、いまだに「そうじゃないんだよ」という弁護の対象になっていたりする。弁護の対象になっているという事は、弁護する必要があると思わせるだけの批判があるということだ。



 武装しない預言者は滅びる、といったのもマキアヴェッリだが、現代の武装せる預言者アメリカ合衆国を見ていればわかるとおり、預言者武装して理想論をぶち上げたところで、平和は来ない。その現実を、現在世界はこれでもかと見せつけられている。
 どんなに最新式の装備に身を固め、道徳的明快さを指針として行動したところで、銃を突きつける他人から道徳を押し付けられた人間がその道徳を受け入れるかといえば、そうでは無いだろう。宗教が絡めばなおさらのことで、それができると本気で考えていたとしたら、現在のアメリカを主導するネオコンの人々の神経は、正義と理想に燃えるあまり現実をまったく見ようとしない純粋馬鹿の小学生にも劣る。
 理想とは目標であり、実現しなければならない目的では無い。
 現実をより良くしたい、その方向性を示すのが理想であって、それを実現していくための努力を現実の中で続けていく事は大切だが、その理想を追うあまり現実を見ようとしなくなったら、現実は確実に理想主義者を絶望と滅亡の淵に追い込む。
 現実ばかりを見て理想をまったく考えないのはただの日和見主義者で、そういう人間を現実主義者と呼んだら、本物の現実主義者に対して失礼極まりないが、理想を叫ぶあまり現実を目に入れない人間がいたら、石をぶつけていい。そういう人間を正義馬鹿といい、数多くの歴史上の悲劇は、そういう人間の主導で行われた。
 正義正義と口にしまくってきた人間を、歴史の中で拾い上げてみるといい。見事に大量虐殺者のリストが出来上がるはずだ。
 ヒトラーなどは代表格だろう。彼は徹底して自らの思想を正義とし、現実主義的な態度など決して民衆には見せなかった。民族的正義こそがヒトラーの論理であり、それと同じことをいっている東洋の小国が今、色々な意味で脚光を浴びている。
 市民世界を切り拓いたとされるフランス革命でも、自派の正義を強く叫ぶ派ほど、容赦なく敵陣営の市民を虐殺してのけた。
 さかのぼれば、十字軍などは凄まじい惨禍を歴史に残した。宗教的寛容の無さがどれほど人間の尊厳を軽視させるか、当時の歴史を学ぶと寒気がするほどだ。それが正義だとされると、兵士たちは平気で異教徒の女子供を虐殺し、喜びの涙に暮れたという。



 正義という概念こそが邪悪の根源だ、とまでいう気はないが、正義の名の元に突っ走りすぎるとろくな事は無いのだ、という現実は、いい加減21世紀にもなったことだし、人類は学んでも良いような気がする。
 マキアヴェッリの著述を読んでいると、そういう余計なことまでいろいろと考えさせられてしまう。

*1:彼はナポレオン時代の人間だから、黄色人種など猿程度にしか思っていなかっただろう。現代ですら、西洋人の過半は薄気味悪い存在としてしか東洋人を認識していない。マスコミの感化を受けた大半の日本人にその意識は無いらしいが。