文章上達法らしきもの

 今日もブログなど書かず、とっとと寝ようと思っていたのだが、そうはならなかった。
 仕事を終えての帰宅直後に新聞屋がきて、人のことをホスト呼ばわりして去っていった。髪が長めで染められていると、とりあえず相手をホスト呼ばわりするのはなぜだろう。私は決して派手な顔立ちではないはずで、自分でいうのもなんだが、そういい男でもないと思う。ホストという言葉は褒め言葉で使われているとは思えない。瞬時にたたき出したのはいうまでもない。
 私は頭に来ることがあると、なにもなかった日よりずっと文章を書きたくなるたち。
 だから、ブログを書くことにした。
 さて、何を書こう。





 私には学歴というものがない。
 学歴がない、というと語弊があるか。一応、専門学校は出ているわけだし。
 中学時代に一度引きこもりになり、私は1年少々の間、登校していなかった。それでも卒業はできるが、問題は進学。
 別に中卒でも食えない事はないが、父は自分が中卒で苦労していたせいか、息子の私にはどうしても進学して欲しかったようで、中学の先生がたが奔走して下さったおかげもあり、幸運にも高校進学がかなった。
 もっとも、地域でも最低の偏差値の学校だった。どのつく田舎のことだから、「家から近いから」という理由で頭のいい生徒が入ってくることも無いではないが、それでも数はたかが知れていて、大部分は中学時代に「落ちこぼれ」の烙印を押された生徒。もちろん、私はその中でも他を引き離したどん底に位置していた。
 進学後は、一切無理をせずにだらだらと過ごしていたおかげか、時々サボる程度のことで無難に卒業を迎えることができた。その代償として、何ら実りの無い、ほとんど記憶が残っていない灰色の青春を送る羽目になったのだが、それはまた別の話。
 高校を出る時に、私は漠然と進学できたらいいなと考えていた。完全に文系の頭である私は、これまた漠然と、歴史の勉強ができたらいいなと考えていた。歴史を勉強したところで、先生にでもなる以外食えるわけではないのだが、当時の私にはそれ以外の勉強をしたところで身につくとも思えなかった。
 今にして思えば、そのまま先生への道を歩まなくて正解だったような気がする。私にはどこか人間関係を築いていく上での人格的な欠落があるらしく、人と深い関係を築いたり、逆に浅い関係を保ったりするのが下手で、いつも関係性を破綻させてしまう。そういう人間が、人の将来に対して重要な責任を負い続ける教師という仕事に就くに値するのか、疑問がある。
 結局のところ、私は先生にはなれなかった。進学に失敗したのだ。
 このブログの中でもすでに触れていることだから、繰り返しになってしまうのだが、私は予備校に通いながらの一人暮らしで内向性が亢進したのか、二度目の引きこもりになってしまう。そんな状況で受験勉強もできるはずがなく、実家に引き払っての本格的引きこもり生活が始まってしまった。
 その後紆余曲折を経て専門学校に通うことになったのが、高校卒業から3年経ってからのこと。親にはだいぶ迷惑をかけた。
 専門学校の分野は土木技術。文系とはかなりかけ離れている。
 なぜ、数学がさっぱり出来ない私が土木業界に進もうとしたのかは以前も書いたが、要するにそれ以外選択肢が考えられなかったということ。それは構わないのだが、就職先に、土木業界でも特に数学的素養が求められるはずの測量設計業を選んだのはどうだろう。これはちょっと失敗だったかもしれない。
 しかも、人と大いに関わる、という職場では無いがために測量という業種を選び、エンジニアとして生きて行こうと思っていた入社後3年の私に、会社は営業部行きを命じた。そんな殺生な、という私の悲鳴は見事にスルーされ、現在に至る。よりによって人間嫌いを公言しているやつに営業をやらせるとは……人を見る目が無い幹部を持つと、社員も大変だ。




 というわけで、私には高度な教育を受けた経験がない。
 高等教育、というと、専門学校もその中に含まれてしまうからあえてその言葉は使わないが、土木系の専門学校というのは、いってみれば手に職をつけるためのもの。理論を学ぶという部分がなかったわけではないが、程度は低い。実際に測量機器を触って使い方を覚えたり、図面の描き方を覚えたり。
 理論というものの理解の仕方、論文などの引き方、書き方、資料の使い方、選び方など、学問として必要な知識の前の知識すら、私は知らない。だから、大学というものに変な幻想を抱いているし、大学出というだけで自分よりはるかな高等な人間に思える。
「そんなものじゃないよ」
 と大学を出た人間はいうが、当人がどう思おうが、これは私が条件付けされでもしているかのようにそう考えてしまうという話だから、その人にも、私自身にも、どうにもならない。
 特にひがんでいるわけでもない。あのまま引きこもりにならなかったとしても、自分が大学に行ける頭になれていたかどうか疑問だから、自分の頭のできがどうも人より劣っているらしいことはわかっている。それに比べて、本人がどういおうが、大学に入ったという厳然たる事実があるのだから、やはり大学出の人は私より賢いのだ。ひがんでも仕方がない。




 などと書くと、文句をいう人がいる。
「それだけ文章が書けて、賢くないとかいわれると、こっちがばかにされているみたいだ」
 これに対する反論は簡単である。文章なんぞ、慣れればたいていの人間はある程度書けるようになってしまうということ。
 いつかのコメントにも書いたが、包丁と同じだ。使い慣れないうちは絶望的に下手くそでも、それを使わなければ飢え死にしてしまう、あるいは飢え死にさせてしまう、という土壇場の中で日々使い続けていれば、いつの間にか料理全体の腕はある程度上がってしまうものだ。そこから本当の料理上手になるためには、もちろん、自覚的な取り組みと参考になる本や人を見つけたりする努力が必要になるのだが。
 文章も、料理よりとっつきにくいものの、根は同じ。いかに書くか、それだけの話だ。
 問題は書く内容。これも料理と同じで、どんなに手際よく作れるようになっても、肝心な味がさっぱりだったり、バリエーションが致命的に少なかったり、材料の活かし方がとんちんかんだったりすれば、意味がなくなる。
 文章が書けないという人にはいくつか種類があって、最も多いのは「昔から作文が嫌いだった」と主張する人。
 この手の人々に共通するのはもちろん、小学生時代からの作文というものに対する嫌悪感だが、ここでもいわせてもらうが、私は何も最初から文章が得意だったわけではない。むしろ小学生の時などは、嫌いで嫌いでたまらなかった。読書感想文などまともに書いたためしがないし、他の作文でも原稿用紙を完全に埋めたことなど一度もなかった。





 それが変わったのは、自分にはマンガを書く才能がからっきし無いと悟った中学生の時。絵が描けなかったのだ。とにかく、下手。どうしようもなくなり、絵がダメなら字で勝負してやる、と思ったのが、私の文章事始。
 ある意味、必要に迫られてのことだった。なにしろ当時は一度目の引きこもりの真っ最中、現実逃避の手段として創作まがいのことでもしていないと、気が滅入る一方だったのだ。
 動機はどうあれ、少しでも文章を書くようになって私が知った事は、書く道具として言葉を認識するようになると、読む言葉の捉え方も違ってくる、ということだった。
 抽象的な言い方になってしまったが、つまり、文章を自分で書くようになると、人が書く文章についての読み方や考え方も変わってくる、ということ。
 たとえば、それまでは気になっていた誤字脱字などのことよりも、文章の組み立ての方に目が行くようになった。点が多すぎてかえって読みにくいな、とか、漢字の多い文章を書けば賢く見えるってものでもないな、とか、ある程度まとまりのあるところで段落を区切らないと、短くても長くても読みにくいな、など、色々とある。
 誤字や脱字は、正直、誰でも犯す誤り。私だって無数にあるし、ブログでは書きっぱなしで推敲もしないから、それこそ探せばいくらでも出てくるだろう。無いに越した事はないが、誰の文章であろうと、よほどひどくない限りは黙って見過ごして問題ない。書いている内容が良ければ、誤字脱字など、それをいちいちあげつらって無知呼ばわりする方が恥をかくことになる。文章はあくまで伝達の道具で、伝わりさえすればいいということを無視しているからだ。
 内容ではなく、道具である文章の方に視座が移ると、誤字脱字の問題はさらに遠くなる。



 
 作家の中には、「。」で文章がひとつ終わるたびに、はなはだしいと「、」ひとつ打つたびに段落を変える人がいるが、私にはそれが読みにくくて仕方がない。それがその人の文章感覚なのだろうが、文章にまとまりが感じられないし、すべての文章を強調しているかのような構成のために、かえって何を強調したいのかさっぱりわからなくなる。スタイルが良く見えるから、という理由なら、なにもいうことはない。私にはそのスタイルは理解できないから、もう読みません、というだけの話。
 また、段落をつけずにひたすら文章を書く人もいる。特に技術畑の人に多い。これもまた読みにくい。
 パソコンで閲覧することを前提としているHPやブログの場合、段落の他に、空白の行を入れて全体を構成する人が多いが、これはいいことだと思う。私もマネをし始めてずいぶん経つが、CRTにしろ液晶にしろ、モニターを見て文章を読むとき、なぜかはわからないが、段落で区切られているだけではイメージとしての文章がつかみづらい。
 本を読んでいる時、慣れている人は、ページ全体を視界の中に入れて内容を把握している。字を追うのではなく、字の流れを追うようにして読んでいる。いちいち字面を追って読んでいたら目が疲れるし時間もかかるが、字の流れ、文章の配置といったものを目の中に入れつつ単語や文節を追いながら読むと、さほど疲れない。
 どうも、モニターを見ているとそれが難しい。なぜかはわからない。
 だから、段落だけではなく、空白の行を活用することで文章のまとまりをうまく視覚化すると、とても読みやすくなる。




 結局のところ、文章は「多数の人が読んで読みやすいもの」が正義。なぜなら、人間が人間に思考を伝えるために使う道具が言葉であり文章だからだ。伝わらない文章、というのは、無いのも同じである。食えない料理、というものがゴミと同義語であるのと同じ。
 だから、文章を書く時、何より大切なのは、うまく書くことではない。わかりやすく書くこと、だ。
 メールのようなツールを使って書く場合と、人に読ませるために文章を書く場合とでは、当然文章の使い方は異なる。これも料理にたとえてしまえば、日々の生活の中の食事と、ご近所さんや親戚一同を集めての宴会の食事とでは、材料も調理法も違ってきて当然、というたとえにでもなるだろうか。あまりたとえを多用するのも、文章の構成としては上手とはいえないのだが。
 メールで私のここの文章のようなものを書いては、迷惑千万だろう。メールは無駄なくすっきりと、が鉄則であり、余計なものをつけるのは失礼ですらある。
 一方で、自分が考えていることをはっきりと書こうとする時、あまりにも簡潔では文章が無味乾燥になる。多少、骨組みの上に肉付けをしてやることも必要になる。
 それらはTPOに合わせたテクニックというもので、あまり意識しなくても誰もが使い分けている。
特に携帯でのメールというものが普及してからは、そう。なにしろ携帯で打つのは疲れるから、無駄な長い文章をメール作法から駆逐するのに絶大な効果があった。
 ただ、短いセンテンスで物を語るのに慣れすぎると、論理的に積み上げた表現で文章を書く習慣が身につかないせいで、長文を書く必要に迫られたときに、ただの短文の積み重ねや切り張りとしか思えない無残なものを書いてしまうことがある。やたらと接続詞が多い割に文章はそれほど繋がっておらず、なぜそこをつなげて書く必要があるのか、と読む側が首をひねるような文章だ。
 接続詞を多用するのは、ひとつの文を書こうとする時に、自分が考えていることを相手に伝えるためにはどのように文を構成したらいいか、というサンプルが頭の中に入っていないため、という場合が多い。ごく短い文章はすぐ出てくるのだが、それをどう並べればいいかわからないから、接続詞を多用して苦し紛れに文をつなぎ、形式的に文章として成立させてしまう。
 そういう文章は、読むのが苦痛。なにしろ接続詞の使い方も間違っていることが多いからだ。文章ががたがたな上に、言葉の使い方まで間違っていたら、読む側にその意味を汲んでくれというのはむごい話だ。




 そういう文章しか書けない人間が、少しでもまとまったまともな文章を書けるようになるためにはどうすればいいか。
 そんなものがわかったら教育現場に苦労は無いわけだが。
 あくまで本人が「文章うまくなりたい」と思っている場合に限っての話だが、対策はある。
 まず、書くこと。残念ながら、これは当然。書かずに巧くなる事はありえない。道具なのだから。
 本を読むこと、というのは、必ずしも必要ではない。変な本を読むくらいなら読まないほうがましだったりもするからだ。
 雑誌を読むというのは有効。新聞でも良い。新聞や雑誌というのは、文章自体は武器でも何でもなく、載っている情報がすべて。ということは、情報を正しく伝えることが文章のすべて。そういう文章の構成は、少なくとも昭和の後半くらいになると均一化が進んでいて、ある程度の書き手の癖は出るものの、誰が書いていてもそれほど形は違わない。
 そういう文章の形を覚えるために、新聞や雑誌を意識して読むというのは、いい訓練になる。こういうリズムで書けばいいのか、という程度で構わない。文法的にどうというのではなく、リズムをつかむのが大切なのだ。
 それから、好きな人が身近にいれば、それを利用する。つまり、読んでもらう。
 ラブレターじゃなくてもいい。ラブレターでもいいが。いずれにしろ、好きな人に文章を読んでもらう。ただの文章ではなく、読んでもらう人にテーマなりお題なりを決めてもらい、それについて書く。分量は自由だが、やはり1600字から2000字は欲しい。少なくとも800字。
 読んでもらう人に感想をいってもらう必要はない。読んでもらう、それが大事。感想どうこうより、まず好きな人に読まれる文章を書く、というだけで、書く方は知恵熱が出るほど頭を振り絞るだろうからだ。それが大事なのだ。
 なにしろ、下手な文章を読むという行為には、根気が必要。書いているほうも大変だが、読むほうも大変なのだ。そのことがプレッシャーになり、「どうすれば好きな人を苦労させずに読ませられるか」と知恵を働かすようになる。
 これを十回もくり返してみるといい。間違いなく文章が巧くなっていることを保証する。ついでに、物を考えることが実は楽しいことなのだということを再発見できるだろうことも予言しておく。
 さらについでをいえば、文章が巧くなった実感をつかめると、文章に対するアレルギー症状が出なくなり、楽しくなったりもする。その内、より高度な文章を書くためには高度な知識と知識を応用する力が必要だ、という壁にぶち当たることになるのだが、その壁にぶち当たる頃には、人に見せてそうは恥ずかしくない文章が書けるようになっているはずだ。





 と、文章を扱うプロではない私が偉そうに語ったところで説得力は無いわけで、プロになる気などさらさらないにしても、まず自分の文章をこれからも磨いて行く努力を続けていかなければならない。
 私の場合、それが苦痛ではないから、努力とはいえないかもしれない。趣味なのだから。