農業

 お隣日記を探検中、偶然にもアメリカ在住の方のブログに行き当たった。
 読んでいて暗澹としたので、軽く触れてみたい。




inakamamaさんのブログ、「アメリカ田舎生活」



 先にこのブログについて触れておくが、面白い。肩の力が抜けていて、生活感もあって、視点も良くて、文章も変に硬かったり柔らかかったりせず、今まで読んだブログの中でもかなりの高得点。私のブログなんぞを読むより、よほど面白いと思う。





 土地の投機が問題になるのは、日本に限った話ではない。
 土地というものは有限で、それが移動できる性質のものでもないために、必要ならばどんなに高い金額であろうとも手に入れたい、と思う者がいれば、価値は際限なく上がっていく。
 都市では常にその問題がある。古代、人類が都市という物を手に入れて以来の悩みといってもいい。
 ただ、その必要性というものが、土地そのものの価値ではなく、土地について回る付加価値に対してのものになると、問題は深刻になる。




 たとえば、都市近郊の農地の場合を考える。
 土地が投機の対象ではなく、農地としての価値のみを認められていた場合、資産としての土地の価値は、当然土壌の肥沃さ、水の管理条件、農産物出荷ルートの利便性などに左右される。土が肥えていて、川が近くにあって水はけも良く、すぐ近くに市が立つ、というような場所なら、新鮮な野菜を作るのにばっちりの条件がそろっているから、土地としての価値は高まる。
 だが、それが投機の対象になると、農地としての価値などはまったく無視されてしまう。投機、つまり、将来の利益を予測してものを売買する行為は、その土地から採れる野菜など当てにはしない。土地が持つ資産価値のみを相手にする。
 いい野菜が採れるいい土地だから、資産価値もあるじゃないか、という考えはこの際捨てたほうがいい。農業では、土地の価値を上げられない。なぜなら、土地を資産としてのみ考える場合、農業はいたって生産性の悪い手法だからだ。生産性が悪いという事は、経費ばかりかかって利益が少ないという、資本主義の考え方に逆流するような手法。そんなものを、投機目的の人間が考えるはずも無いし、考える事はその目的に対して悪ですらある。




 土地投機が生まれる背景には、たいてい、その土地が属す政府の政策が根底にある。
 今回参考にさせていただいているブログを見てみると、土地に関わる税制に問題があるように思える。土地の転売に際し、別の土地を取得することで免税を期待できるという。
 私はまったくアメリカの法律の知識が無いから、この文面だけで判断するしかないのだが、土地の取引を優遇する政策のように思える。土地取引を活発化することで資金の流動性を高め、経済の停滞を防ぐという考え方だ。マネーフローの停滞は経済全体の停滞であり、一つ一つの金額が大規模かつ安定している(と思われている)不動産というものは、その取引を活発化させることで社会のマネーフローを高める効果が期待できる。




 土地投機をする際に、その土地が価値があるかどうかを判断する基準は、その土地に次に買い手がつくかどうか、である。近郊農業地域であっても、農業生産力はこの際関係ない。
 なぜ農業が関係無いかというと、多くの場合、土地を高く買い上げようとするとき、収益率が低い農業で利益を上げようなどとは考えていないからだ。
 収益は、あくまで転売益。転売する際に、いかに買った価格に上乗せして売れるか、が問題になる。
 転売先として考えられるのは、まとまった土地を必要としている大資本。小資本では、投機の対称になっている土地など買えないからだ。
 大資本が必要とする用地というと、主なところでは工場や大規模な商業施設、ニュータウン開発などになる。消費地である都市から近い、という近郊農業地域の特性は、そのまま、都市圏の拡大に伴う都市機能の分散拠点としての利便性と合致してしまう。
 ここで考えなければならないのは、投機筋は、そのような将来を期待して買っているのかどうか、ということ。つまり、将来的な開発計画を考え、その発展を望んでいるのか。
 望むはずがない。利益が出さえすればいいのだから。
 だから、投機筋は、「そうなれば土地の価値が上がる」あるいは「ならないにしても、今の時点でこの土地に市場価値があるのだから、近い将来の値上がりは期待できる」という考え方で資本を投下する。将来の事は彼らの関心事では無いし、それが彼らにとっての正義である。
 そうして投機の対象となり、マネーゲームのアイテムとして扱われた土地は、本当に土地を必要としている人間の手に渡ることなく、転売に転売を重ねられて行くことになる。




 私はあくまで日本のことしか知らないから、どうしても日本的基準で「近郊農業」などというものを考えてしまうのだが、別に近郊農業に限った話ではなく、土地投機が行われるようになると、農業は壊滅的な打撃を受ける。
 まず、投機の対象となっている土地は、所有者がころころ変わるから、継続的な営農活動ができない。継続性が無い農業などというものが巧くいくはずはない。相手は生物なのだ。手をかけて土地を作り、あるいは世話をしなければ、育つものも育たない事は、子供にだってわかる。
 土地をただ遊ばせておくのはもったいないからといって、農業従事者を雇って営農を続けるということもあるが、結局は農地は荒れる。なぜなら、農業は決して利益率が高いものではなく、大規模な集約農業でもしない限り、土地を売るほどの利益を上げる事はできない。下手をすれば赤字を垂れ流すことになる。そんな事業に本気になって取り組む投機家がいるはずがない。
 また、問題は投機家に買われた土地ばかりの話ではなくなる。
 土地問題は、周辺の人々の心まで荒らすからだ。




 日本は、その実例を散々見てきたはずだ。
 高度成長期以降の地価上昇で、都市の近郊では農地の値段が際限なく上がり続けた。
 農地解放以降に生まれた小規模自営農家たちは、そのあおりをもろにかぶった。投機筋が……というより、親方日の丸を背負った銀行が、関連企業を巻き込みながら絨毯爆撃のように土地を買いあさり、「日本の地価は下がらない」などという幻想というのも馬鹿馬鹿しい神話を作り上げ、狂乱の経済を産み、あげくの果てに自滅した。
 土地を商品として扱った以上、それが上がり続けるなどという考えを持つのは異常。あらゆる商品の価値というものは変動するし、上がり続ける価値などというものは存在しえないというのが資本主義経済の大原則。土地神話は、日本史上空前の詐欺行為だったといっていい。経済の大原則を無視してそれをあおった銀行や政治家、官僚たちは、すべて歴史上稀に見る経済犯であり、大詐欺師である。
 小農家たちは地価上昇のあおりをうけ、農地を維持できなくなっていった。地価が上がれば固定資産税額も上がるし、なにより相続の際にとてつもない金額の税金が発生する。とても、農業の収入でどうにかなる金額ではない。
 そのために農地を転売すると、巨額の利益が生じる。
 その利益につられて農家を廃業し、土地成金となるものが続出する。
 農地はどんどん少なくなり、農業生産力は低下する。
 土地がどんどん転がされていくことでマネーフローが拡大し、景気が良くなると、その資本を利用して初期投資をすれば、最初は大きな赤字であっても、外国産の安い農業生産物を大量に輸入した方がコストダウンに繋がり結果として利益になるという考え方が生まれる。そしてそれが実行に移されると、国内の農業は需要の低下という問題にさらされるようになる。
 これで農業が生き残っていけると考える人間がいたら、オプティミストというより、オポチュニスト過ぎて頭の構造が疑われるたちのものだ。
 将来の先行きが暗い職に就いている者は、当然ながら希望を失うだろう。そんな職に就こうとする若者もいなくなるだろう。ダサいとかいう問題ではなく、農家をやっていっても食えないというのであれば、新しい労働力が農業に従事することがなくなるのは当たり前である。
 そうしているうちに、商品作物として付加価値が高い希少作物ばかりが作付けされるようになり、収益率は低くても人間の生存に必要な大切な作物が置き去りにされるようになってしまう。それらは、大量に輸入されてくる分でまかなわれるようになる。
 結果として、都市周辺部の農業は壊滅する。
 畑は、もはや、転売待ちの土地を遊ばせないための手段にまで貶められ、都市特有の環境問題により土壌は汚染される。里山という、農業の後背地ともいうべき存在の消滅により、生産物からは生物としての力が失われていく。
 食料自給率の低下が問題となって久しいが、人口が農業生産力を遥かに超えて増えたから、という理由も大きいにしても、土地問題だって大きな理由だろう。農業に向かう意義を日本人から見失わせ、農地を荒廃させ、農業を行うための経済的な基盤を奪った。




 もっとも、日本の食料自給率低下の問題は、アメリカの政策の責任がもっとも大きいと私は考えている。
 わかる人にはわかるだろうが、戦後の小麦政策というやつだ。
 日本では、小麦よりよほど単位面積当たりの栄養価が高い米が作られているから、大規模に麦を作るなどという農業は成立しがたく、国内のみで農業が完結していれば、小麦食文化というものも成立しがたかった。
 それを成立させたのは、アメリカ占領政府による、日本の農業植民地化政策の成果だった。
 ただ、この問題はそれだけで連載が可能なほど面倒な問題だから、ここではあまり触れないでおく。




 小規模農家の存在が無視されているのは、大規模な集約農業の方が遥かに効率がよく、収益率が高いからだ。
 では小規模営農は悪なのだろうか。時代に適合しない、旧弊としかみなされないものなのだろうか。
 大規模な集約農業は、確かに効率もいいし、収益性もいい。だが、致命的な問題を抱えていることも事実。
 それは、ひとつの重大な変化が起きると、それに対応できなかった場合、多大な損失が出るということだ。
 まず考えられるのが、農場内で起きる伝染病などの被害。単一の作物、あるいは家畜を育てている場合、これは壊滅的な被害を生む。集約農業というのは多品種少量生産より少品種大量生産をよしとするから、一度伝染病が発生すると、被害が甚大になる。
 農業生産を支える資本の影響という点も見逃せない。つまり、親会社がこけたおかげで資金繰りがつかず、農業を続けられなくなる可能性だ。これは現実に幾度も起きている。
 ところが、これらの問題も、経済の専門家たちに言わせると問題ではないという。
 病気の問題だが、大規模農業のひとつの地域が壊滅したからといって、別の地域の大規模農業まで壊滅する事はない。つまり、大規模な不作であると考えればいいという。豊作になる条件の土地にある大規模農業がそれを埋めていけばいい、というわけだ。
 資本の影響も、次のオーナー企業を公的な存在、あるいは第三者機関がさっさと決めれば問題はない。
 これだけを聞くと、まるで小規模農業に死ねといっているようなものだが、問題はもっと根が深い。




 大規模農業最大の弱点は、少し論点がずれるような感じがするかもしれないが、倫理観の欠落である。
 利益が最大の価値とみなされるようになると、営農の最大の目的はその収穫量の安定と品質の維持になる。ただし、ここでいう品質とは、農業生産品としての品質ではなく、消費者に購買させる時点までの商品としての質。食べた後の事は関係がない。
 それを確保するために、新しい効率的な肥料を開発し、病害虫駆除のための手段を模索する。
 その結果として生まれた問題が、残留農薬問題や環境ホルモンの問題、あるいは遺伝子改変作物の問題だ。
 消費者にとって、健康問題となりうるような情報を秘匿し、経済効率を優先させて科学技術を徹底応用し作り上げた作物が、流通ルートに乗せられて消費者の口に入り、社会問題を起こす。それまでにしっかりと利益を上げておき、何かが問題になれば知らぬぞんぜぬを通し、その間に問題となっているものを、たとえば政府の補助金を使って改善していく。自分の懐は痛まず、責任はあらかじめ危険性を提示しなかった農業行政当局や農薬などの製造業者、研究者などにかぶせてしまえる、というわけだ。
 小規模農家にはこの手は使えない。だが、マネをしようとする。そういうことが現実に起きたのが昭和末期の日本の近郊農業。農薬漬けの野菜や米を出荷し、決して自分達では手をつけないという農家が続出した。今でもいるのだろう。
 昔の農家にはこれはできなかった。なぜなら、生産物は第一に自分たちを食わせて行くためのものであり、また、商品として市に出す作物は、顔を見知っている人々が買って行く場合が多かったからだ。そもそも農薬などなかったといえばそれまでだが。しかし、大規模農業の夢に冒された「農協」という半ば国家権力的存在が強力に農薬の使用を推し進めていなければ、少なくとも農薬の使用は自分たちにとっても安心できるレベルに抑えた農家が多かっただろうし、今に至る歪みも小さくてすんだはずだ。
 大規模農業が産む倫理観の欠落は、単に大規模農業自身ばかりの問題ではなく、小規模農家まで巻き込み、食の安全という問題全体を揺るがすのだ。




 農業の問題や、それをとりまく土地の問題というのは、話題があまりにも豊富すぎて、書いていて空しくなってくる。多岐に渡りすぎてとても私の知力筆力では追い切れないのだ。
 inakamamaさんのブログを見て色々考えたが、結局まとまりきらなかった気がする。
 ただ、問題意識を持って農業について考えないと、本当に足をすくわれる。日本人が、じゃない。人類が、だ。地球温暖化を筆頭とする環境問題だって、その大きな部分を農業の問題が負っている。焼き畑農業などがいい例だ。あれのおかげでどれほどの森林面積が失われているか。
 ライブドアとフジテレビの抗争を見守るのもいいし、憲法改正問題について考えるのもいい。人権保護法案について激論するのも大事なことだが、たまに、人類の生存を根本から支えている農業について考え、一人ひとりが問題意識を持っておかないと、冗談抜きに大変なことになる。