セクシャリティ
(2004年11月11日の記述。)
体調が悪い。どうも風邪っぽいらしい。
このところ、電車での営業まわりが続いたせいかもしれない。人ごみの中に入る回数が多いほど罹患率が高くなるのが風邪という病気の宿命だから、一日中路線図を眺めながらごとごと都内を電車に揺られて歩いていれば、季節の変わり目ということもあるし、風邪くらい引いてもおかしくはない。
今日も、帰宅して、着替えたり炊飯器の準備をしたりPCの起動を待っていたりする間、かすかな頭痛と倦怠感に襲われた。
あまり都市についてとか、社会的な問題を考える頭になっていない。
だから今日は、ただ思いつくままにだらだらと書いていこうと思う。
喫煙の回でコメントを頂いた方のブログをつらつらと読んでいて……お隣日記とかコメントくれた方のリンクを辿るのはおもしろい……感じたのは、自分の周辺に非ヘテロセクシャルの存在が感じられないという事実だった。
ヘテロセクシャル、というのは、異性愛者という意味。バイセクシャルだと両性愛者、ホモセクシャルだと同性愛者。ホモというと男性の同性愛者ばかりを連想するが、間違い。女性の同性愛者もホモセクシャルという。ゲイだのレズだのという言い方は、性別をはっきりさせる場合などに使われるが、ホモという言い方が蔑称になってしまっているために、それを避けているという意味合いのほうが大きいだろう。
なぜ男性同性愛者ばかりがホモ呼ばわりされるのか。あくまで私見だが、単純に男性同性愛者のほうが社会的に目立つからだろう。
社会的、という言葉を使えるほどに大きく世間を見た場合、少なくとも高度経済成長期末期までは男性が中心を占めていた。今だってそうだといわれそうだが。そんな中でセクシャリティを話題にするとき、マイノリティとして存在を認知されるのはやはり男性の同性愛者だったはずだ。男性社会で差別を受けるのは異種の男性である。
もっと生理学的な部分も働いているのかもしれない。一般的に、性欲という部分に関しては、女性より男性のほうが活発とされる。セックスに対する執着の強さは、たしかに男性のほうが強い。セックスという行為の強さだとかはこの際関係がなく、あくまでそれを求める気持ちの大きさ。
ということは、性的な行動も男性のほうが活発になるだろうし、当然、目に入る機会も多くなる。だから、男のほうが目立つ。
あるいは経済力の差。男性のほうが、性に傾ける経済力は遥かに上だろう。セックス産業の隆盛を見てみればいい。同性愛者は絶対数が少なく、さらにカミングアウトしている率も少ないから、必然的に相手を見つけようとすれば、同好の士が集まる場所を探さなければならない。ことが性的な部分だけに、その場とはどうしてもセックス産業と密接なつながりを持たざるを得ない。歓楽街や、もっといえば売春である。
同性愛が社会悪である、とする風潮があった時期に……今でもあるのだろう……同性愛者を徹底的に貶めるような行為が一般化したため、ホモ、という言葉は汚されてしまった。寓意を含まない、学術的なまでに乾燥した言葉であるはずなのだが。
言葉の意味は、まあここまででいいとして。
私の周囲には、異性愛者しかいない。
少なくとも、カミングアウトしている非異性愛者はいない。
よって、実際に同性愛者・両性愛者と接してどう感じた、という感想を述べることが出来ない。残念。
自分に偏見があるかどうか、それもよくわからない。まあ、どのみち私が男性を受け入れることはないだろうから、それ自体が相手にとって偏見と感じさせるのかもしれないが。
ただ、悪だとは思っていない。
同性愛を悪とするのは、よくいわれるのは、原罪意識を根幹にすえている宗教の倫理観が支配する文化だ、ということだ。
性は原罪のもっとも恥ずべき現れである、らしい。
今はどうか知らないが、たとえばキリスト教のカトリック教会では、その昔、夫婦間の性行為で喜びを感じることを禁じていた。カトリックではセックスとは子供を得るための必要悪で、声を上げたり行為中にキスをすることすら禁止されていたらしい。教会にもよるのだろうが。
夫婦の間のセックスでさえその有様だから、子供を作るための行為には決してならない同性愛が、認められるはずもない。
アメリカでは、同性愛者の権利を主張する活動が盛んで、日本でもそれにならう動きがあったりする。さすが自由の国アメリカ、日本も見習って性的マイノリティのことも認めないとなあ、などと思ったら大間違い。
権利拡大を叫ぶのは、権利が無いからである。声を上げなければならないのは、現に差別されているからだ。同性愛者の街、などといわれて有名になる都市があるのは、その都市が自由なのではなく、それ以外の大部分の国土が同性愛者の存在を締め出しているからに過ぎない。
日本で同性愛が排斥されるようになったのがいつかは知らないが……単なる不勉強……、すくなくとも同性愛だろうと両性愛だろうと問題なく見られていた時期も、あるにはあった。
よく知られているのは戦国期。
同性愛者として有名なのは上杉謙信で、彼はあまり女性を好まず、常にそばには小姓の姿があった。腹心の部下たちももと稚児が多かったという。
織田信長はばりばりの両性愛者で、犬千代と名乗っていたのちの前田利家はその稚児衆のひとりだった。豊臣家五大老となって天下の武将たちの尊敬を集めていた後年、大名武将たちを前に、自分が信長の寵童であったことを自慢し、自慢された武将たちのほうからも羨ましいという声が次々に上がったというエピソードも残されている。さすがに先年の大河ドラマではそのシーンは取り上げられなかったようだが。
江戸期に入ってからも、衆道という言葉で同性愛が認知されていた。町奴*1の中では衆道こそが男の道であるという常識もあったようで、色々な逸話が残されている。
時代をあまり問わずに同性愛が定着していたのが大寺院だろうか。叡山や高野山などに限らず、修行僧を多く抱えたり僧兵組織を持っていた寺院には、数々の話が残っている。もっともこちらはあけっぴろげではなかったし、現在でも行われているかどうかは知らない。
ただ、これらの例はいずれも、いわば特権階級のことでしかない。一般の民衆レベルに話を移したとき、果たして日本では同性愛や両性愛が認知されていたのか、となると私には分からない。ただ、家族をなしたり子をなしたりが無い関係というものを民衆に許すほど、世間が甘いものであったかとなると、やや疑問。
頭がぼうっとしているせいか、話がまとまらない。
また別の話。
よく、「たち」「ねこ」「せめ」「うけ」などといい、同性愛者の間の役割として男女の区別をつける、というようなことをいわれるが、どうなのだろう。
あくまで私がそう思っているだけ、という話なのだが、たとえば男が男に惚れるとき、相手に女を感じたり、自分を女に擬したりするものなのだろうか。あくまで自分が男であり、相手も男であり、その上で相手に性的な好意を抱くのであるとすれば、べつに精神的な部分で自分が女になったり相手に女を求めたりする必要は無い気がする。
性同一性障害、というなら話は別。身体的な性が精神と合一しない、というのだから。この場合の同性愛は、精神的には堂々たる異性愛だ。
そうではなく、あくまで自覚的な同性愛の場合、無理に性差をつけるような行為というものに意味があるとは思えない。男同士、女同士で愛し合う、その行為に性差が必要ないからこその同性愛なのではないか、などと考えている。
性差の役割を考えるのは、あるいは異性愛者のほうではないのだろうか。つまり、自分たちなりに同性愛を理解しうるパラダイムとして、その関係の中に異性愛的感覚を押し込んでしまう、という。
あるいは、異性愛者の文化が主流である点が災いして、同性愛者が、自分の性的指向を自分なりに理解する際に、異性愛的感覚を持ち込んで自分を納得させてしまっている、とか。
男性の同性愛者はかならず肛門性愛をしているとか、女性の同性愛者はかならず道具を使うとか、そういった考えもどうかと思う。精神的なつながりの部分だけでは恋愛になりにくいのが人間のさがだから、セックスは存在するだろう。だが、何も異性愛的な感覚を無理にはめ込む必要はない。男性であれ女性であれ、手なり口なり、あるいは性器を合わせるなり、どうとでも相手と自分を喜ばせる手段はあるはずだ。
また話がそれるが。
肛門性愛では(これは異性愛でも同じこと)、ローションや食用油などの潤滑油を使う。そうでもしないととても出来たものではないからだが、なかには、「しているうちにちゃんと濡れてくるぞ」と言い張る人もいるらしい。女性器のそれとはやや違うそうだが、男性器の滑りが良くなるようなものが出てくるのだそうだ。
だがこれは、直腸の腸壁から粘膜がはがれてきているだけのことだから、体のためにはやめておいたほうがいい。粘膜がはがれて、体にとっていい事は何もない。感染症の危険が増したり、腸炎を起こしたり、腫瘍の原因になったりもする。まあ、私の知ったことではないが。
なんか変な話になっている。なんだろう。まあ、こんな日もあるか。
*1:要はチンピラ。