喫煙

(ついでに転載。前項で触れている「喫煙の回」というのはこれ。2004年11月7日の記述。)




 私は喫煙者である。
 と、あまり堂々といえない世の中になってきた。
 時代の趨勢といえばそれまでだし、それは多分良いことであるはず。タバコというものには百害あって一利無し、というのはもはや常識化している事実だし、それに難癖をつけて愛煙家の自己肯定をするつもりもない。
 タバコは体にも悪いし、周囲まで巻き込んで健康被害をもたらす悪者である。はい、お説ごもっとも。




 これまた堂々とはいえない話だが、私が喫煙を始めたのは高校時代。
 私が高校生活を送ったのは、大田舎のイメージしか無い山形県の、さらに片田舎。通っていたのは地域最低の偏差値*1を誇る普通高校で、石を投げれば自称不良に当たるという有様。
 当時の田舎の高校生にとって、不良のステータスシンボルはなんといってもタバコだった*2。姿かたちで言えばボンタンというやつだが、これを聞いて「あれか」とイメージできる人がはたしてどれほどいるだろうか。
 私はというと、中学生の後半を引きこもって過ごしていたような生徒だから、不良化などする度胸があるはずもなく、人間関係の片隅で小さくなりながら生きていた。
 つもりなのだが、当時の同級生に以前聞いたところによると、「まあおとなしい感じではあったけど、別に小さくはなってないよね」ということだそうだ。身長が平均より少し上だったせいもあるのだろうが、自己認識と微妙にずれがあるらしい。
 それはともかく、髪を染めるでもなく(田舎の当時の学校では染髪=不良だった)、あからさまに校則違反の服を着るでもなく、ピアスや指輪をするでもなく、おとなしく学校という世間の中で漂っていた私は、間違いなく不良という扱いを受ける立場ではなかった。
 そんな中で、私が唯一自覚的に行っていた校則違反が、喫煙。
 馬鹿馬鹿しい話だが、当時の私は喘息を患っていた。人によっては体が出来上がってくると治ってしまうという小児喘息だったからか、現在では全くその痕跡もないのだが、当時は、発作が起きて一晩病院の厄介になったり、学校で持久走などやろうものなら3日はぜぃぜぃいっているような体だった。にもかかわらずの喫煙行為。自殺行為というものだ。
 もともと、我が家では両親が共に喫煙者だった。父はヘビースモーカーで、セブンスターを1日2箱吸わないと気が狂うと自称していた。年を食った最近はそうでもないらしいが。母はそれほどの量は吸わないが、マイルドセブンのレギュラーを吸っている。
 だから子供の頃からタバコというものは身近な存在で、近所のタバコ屋にお使いに行くことも多かった。お使いの途中で手に持っていた5千円札が強風に飛ばされ、泣き泣き帰って母に叱られた、なんてことも、書きながら思い出した。あれは理不尽だと、今なら思ったりもする。タバコくらい自分で買えよ、おかん……。
 元ヒッキーでもそれなりにかわいらしい謀反気はあるわけで、内向的な分内弁慶な部分がひどかった私だが、人を相手に暴れるのは虚弱さも手伝って無理だったから……父が肉体労働者で反抗したらぼこぼこにやり返されるのが目に見えていたせいもあるが……反抗期のもやもやした気分を晴らすのは、主に隠れて何かをするということに限られた。
 タバコなどは、そのいい標的だったわけだ。
 普通、タバコを吸うという行為は、それが簡便な不良のシンボルとして扱われる場合、仲間内に見せながら吸うべきなのだが、私はそれはしなかった。私の周辺にばりばりの不良が少なかったこともあるが、美意識のようなものが働いていたということもあった。つまり、徒党を組まなければタバコも吸えないのか、という、軽蔑にも似た気分だ。今更タバコを吸う事で不良ぶって見せているように見られるのがいやだったこともある。
 当時の友達で、私が高校時代から喫煙者だったことを知っている者は皆無。小学生の頃から親友付き合いしていた某君も、こちらがそれをカミングアウトしたつい先年まで知らなかった。
 親にもついにばれなかった。逆に後になって言い出しにくくなって、二十歳も超えてからそれとなくばれるように仕向けるという妙な苦労までした。親の前で吸える年齢になっても、なんとなく面映かったためだ。当初はあまりいい顔はしなかったが、自分たちも吸っている手前私に吸うなともいえず、「お互い早くやめないとな」と、人間ドッグの結果を心配するおじさんたちの会話のようなものを時々交わしていたりする。




 喫煙者に対する風当たりの強さは、年々高まって行く一方。
 税金を非喫煙者より多く払って社会に貢献している、などという喫煙者の自己弁護も、もはや戯言にしか聞こえなくなってきている。
 これにはなにより、喫煙者のマナーの悪さが大きく寄与しているだろう。
 確かに、気にしてみて見ると、喫煙者の私でもふざけるなといいたくなる手合いが結構いる。未だに、だ。
 代表的なところでは、歩きタバコ歩きタバコも、場所が悪いと本気で相手の頭を疑う。新宿駅から都庁方面へ向かう地下道の中で堂々とタバコに火をつけたおじさんには、さすがに注意しようかと思ったが、先に別のサラリーマンが声をかけていたからやめた。
 地下道という場所でタバコを歩行中に吸おうというのもすごいが、時間的に混んでいたにもかかわらずそれが出来てしまう相手の脳の構造に疑問符がつく。
 これだけ世間で嫌煙がかしましく叫ばれていて、それが耳に入らないという事はないだろう。まして人混みだ。煙だけでなく、タバコの火そのものが他人にとっての脅威になることくらい、まともな頭を持っていればすぐに想像がつく話だ。それができないほどタバコが吸いたい中毒者なのだろうか。あるいは、すかすかの脳の代わりに紫煙が頭蓋の内を占めているのだろうか。
 以前がどうだったかなど関係ない。今このとき、タバコというものが社会でどう扱われているか、喫煙者はそれを考えて行動しなければならない。当たり前の話だ。携帯だって、電車の中では使わない、運転中は使わないということがマナーとして定着しつつある。なにもタバコに限ったことではなく、嗜好品なり道具なりには、節度を持って使うべきという大原則があるはずだ。なにしろ、生存に直接関わるものではないのだから。
 それが分からない人間がでかい態度でのうのうと社会のコンセンサスを破って行動し続けると、自覚的な人間まで巻き込まれることになる。




 と義憤めいたことを書いているからといって、私は喫煙という行動そのものを弁護する気も無かったりする。
 やはり、タバコは体も害すし、代わりに得られる一時的なものは、健康という代償を支払うのに値するほどのものではない。中毒性が私の喫煙癖を縛っているだけで、真に体に、あるいは心に必要なものではない。
 値段もこれからまだまだ上がり続けるだろうし、私もそろそろ30代に突入し体にもがたが来始めるころだから、心肺機能に致命的な一撃が与えられる前に何とかこの「年来の悪友」を切り捨てていかなければならないだろう。
 むずかしいんだけどね……。
 

*1:これが既に時代を感じさせる台詞らしいが……

*2:今でも田舎ではそうだろうな。都市部では麻薬関係になるんだろうけど。