ひとり歩き

kotosys2005-03-16




 久しぶりに仕事で電車に乗った。といっても2週間ぶり程度のことだが、たいてい週に一度は電車で営業まわりをしていたから、まあ久しぶりといっていい。プライベートで電車に乗る機会などまずありえないということもある。
 目的地はいつものごとく新宿の某所で、今日は時間的に余裕もあったから、西新宿のあたりをぷらぷらと歩いてみた。
 私は高層建築物にはまったく心が動かないたちで、副都心の高層ビル群に囲まれても別に何の感慨もないのだが、その街を行き来している人々の姿には興味を覚える。
 新宿という街は、駅の西と東でまったく人の姿が違う。歓楽街としての新宿は駅の東になるが、こちらは私にはあまり縁が無い。区役所はあるが、私の営業ルートには入っていない。
 田舎者である上に華やかな場所がどうも苦手な私には、駅の東側は馴染まない。何か用事がなければまず足を踏み入れる気にならない。
 西側は、容赦なく用事があるために踏み入れざるをえないが、なぜか私には抵抗感が少ない。
 街の雰囲気というのも関係があるだろう。
 西新宿には、東側とは違って、どこか無機質な感じがある。
 基本的にビジネスの街だからだろう。西新宿を歩いていて、すれ違う人々の9割方は仕事で歩いている。たまに観光客とすれ違うこともあるが、東側のように遊びに来ていますという雰囲気を四方八方にばら撒いている人間の数は数えるほど。
 遊びではないから、人々はまっすぐ歩く。どこかに寄り道しようという気配が少なく、周囲をあれこれ観察しながら歩く人も少なければ、人の姿かたちを見て楽しんでいる様子の人もごく少ない。
 私にとって、それがいいのかもしれない。
 私には視線恐怖的な部分があって、他人と視線が合うのをはっきりと嫌っている。誰かと話すときに視線を合わせずにいるのは失礼だから、それはしないが、ただすれ違ったり、信号待ちの交差点で正面にいる人と目が合ったりするのは、苦痛だ。
 だからといって視線を下げ、うつむいて歩くのも好きではない。視線を適当にさまよわせ、背筋は一応伸ばして歩いている。うつむいて歩いていると疲れるし、人が多いときなどは顔を上げて歩いていたほうが安全ということもある。
 まわりをよく見て歩かないとぶつかるから、という理由もあるが、ピンと背を伸ばして歩いていた方が、すれ違うときに相手が避けてくれる確率が高いのだ。別に怖い顔をしていたり、喧嘩が強そうだったりはしないのだが、人間というものは自分より態度がでかそうな人間が歩いてくると、反射的に避けるようにできているらしい。




 この季節、天気がいいと、西新宿あたりでも歩いていて気持ちがいい。ある程度無機質な街の方が、人の歩みが整然としている分歩きやすいということもある。渋谷や新宿の東口ではこうはいかない。
 暖かかったということもあるが、今日は厚着している人間も少なくて、少し軽やかさが出てきたなという印象がある。仕事の街だから服装は誰もが地味なのだが、重いコートが少ないというだけで、街の雰囲気も微妙に明るくなる。私も今日はコートは着ていかなかった。
 年度末の忙しい時期だから、中には殺伐とした雰囲気をまとっている人もいたが、今日は全体的に表情も柔らかい印象が多かった気がする。私自身が柔らかな気分になっていたからだろうか。
 この時期、私たちの業界の営業マンは、仕事はあるのだが切羽詰ってはいない、という状況にある場合が多い。入札行為があまり無いからだ。入札行為に進むための準備段階はもちろん進められているから、そのことで動く場面は多いのだが、なにしろ目前に勝負がかかっているという状況が少ないから、自然に精神的に余裕がある。
 観察者の側に余裕があると、観察されるべき周囲の他人たちの表情にも、余裕が見て取れるものなのかもしれない。逆にこちらに余裕がないと、誰の顔も険しく見える。
 人間の目には主観という強固なフィルターがあるが、そのフィルターもその時々で変わっていく。今日の私のフィルターは、人に対して優しくできていたのかもしれない。




 どちらかというと、私はリラックスした笑顔より、軽い緊張状態にあって表情を消している人の顔を見るほうが好きだったりする。始終そんな顔ばかりしている人間が近くにいたら鬱陶しいが、行き過ぎる人の波をぼんやりと眺めている分には、たとえば友達と楽しくしゃべりながら歩いている人々を見るより、気がかりなことを抱えている様子でむっつりと歩いている人々の顔を観察しているほうが楽しい。
 西新宿はそういう人が多いから、私にも馴染みやすいのかもしれない。
 自分の存在がすごく軽く感じられる、ということもある。
 あるいは、私は、自分の間尺に合わないほど大きな自意識を持っているのかもしれない。人の中にいるとその自意識が過剰に反応して、疲れきってしまう。
 それが、無機質な街で無機質な人の中に紛れ込んでいると、無駄に自意識を感じる必要がなくなる。人の存在を過剰に感じる必要がないからだ。周囲の人々にとって自分がまったく無価値だ、ということが安心感になる。
 神経症的なのかもしれないが、すれ違う人たちが自分の存在をどう感じているのか、と気をもむ場面が昔は多かった。別に誰も自分の事など見てはいないのだが、そうは感じられない時期があった。理性ではなく、感情がそう主張する。
 今ではそういう事はなく、たとえ目が合ってしまったとしても一瞬のことで、すれ違う頃にはお互いの意識の中にはまったく残っちゃいないものだということもわかっているから、いちいち気にはしなくなった。それでも、残滓はある。
 同じ人混みでも、繁華街などの方がその感覚は強い。一方、仕事の街である西新宿や九段下近辺では、そういった自意識の突出を感じることが少ない。みんなそれぞれの目的を持って歩いているから、大人しくさえしていれば間違いなく誰もが私の事を無視して通り過ぎる。
 自分の存在が一番軽くなるのは、見も知らない人々の中でひとりたたずんでいるときだろう。
 あまり人が多いと今度は物理的にしんどくなるから、満員電車などはその例に当てはまらない。誰も立ち止まらずに行き過ぎる、というくらいがいい。
 一人でいるときより、人の波の中にいたほうが孤独を強く感じる。
 知っている誰かたちと一緒にいて感じる孤独は寂しいものだが、人並みの中で揺られながら感じる孤独というものは、私にとっては気分がいい。だから、私は知人の中に入り込んでいくより、知っている人間がいない街でぼんやりしている方が好きだ。
 まあ、自分の部屋でひとりぼんやりしているのが一番好きなのはいうまでもないが。




 とりとめもない話になってしまった。
 今日は別に結論らしいものはない。
 ただ、西新宿をぼんやり歩いているのが割りと好きだ、という話。