痛みと倫理


 私はプロフィールに書いてある通り、バリバリの独身で、子供を持っているどころか、家庭を持つ見込みすらない。
 だから、これから書く事は私の自分勝手な言い分。ただ、今後この意見が変わるとも思えない。
 今までこの考え方を人に話したこともないから、子を持つ親ではないからいえる無責任な言葉に聞こえるのか、納得できるだけの強さがある言葉なのか、私自身には判断がつかない。独身者だから、なかなかこういう事は口にできないのだ。所詮、独身者に子育てのことを語る資格があるとも思えない。
 それでも、自分の考えをまとめる意味もあり、あえて書く。




 子供から暴力を切り離そうとする動きに、私は危機感しか感じない。
 というより、痛みから切り離そうとする動きに、だ。
 子供を暴力から守ろうと考えるのは、当たり前だ。ただ、それと暴力そのものを子供のそばから切り離そうとするのは、問題の意味が違う。




 私は、喧嘩も悪いこともしたことが無いなどと口にする人間を信用しない。
 喧嘩をしたことがない人間に、傷つくことの痛みと人を傷つけることの痛みがわかるのだろうか。頭の中で観念だけをこねくり回したところで、体験に勝る学習効果は無いと思うのだが。
 悪いことをしたことが無い人間に、してはならないことの概念が育つのだろうか。これはしちゃいけないことなんだ、という感覚は、世界が終わるのではないかと思うくらいにこっぴどく叱られた経験があって初めて、人間の中に育って行くのではないのだろうか。
 あまり人間というものを信用していないからか、私は人間の倫理観が生来のものなどとはまったく信じていないし、人間の存在が先天的に善なるものだという論などは何の冗談だと笑い飛ばしている。
 そのせいもあるのだろう、私は人間がその成長過程で暴力から切り離されたら、倫理観まで育たないままに育つだろうと決め付けている部分がある。




 ちなみに、この項でいう子供というのは、小学校低学年までの子供のことを指す。それ以上の子供の事はあえて考えないでおく。高学年を迎える頃になれば、それ以下の年代とはまた違う次元の問題が起こってくるからだ。
 それから、当たり前だが、子供に対する愛情が前提にある。わざわざこれを書いておかないと、こんな言わでものことをわざわざ取り上げて人類の敵のように批難してくる人も、たまにいるので。




 カッターで指を切れば、痛い。ブランコから落ちれば、痛い。自転車で転べば、痛い。
 そんなものは誰でも経験して知っている痛みである、はずだった。ところが、今の子供たちにとって、このどれかは経験したことが無い痛みの可能性があるらしい。
 まず、子供にカッターを持たせない親が増えている。
 包丁などもってのほか。けがをしたら大変。そういうものは、道具の使い方をきちんと知ってから持たせても遅くはない。
 というのがその理由なのだそうだが、けがもせずに道具の使い方を知ろうというのはいくらなんでも思い上がりではないのか。けがをするような使い方をして初めて「こういう使い方はいけないんだな、けがをしないようにするにはどういう使い方がいいんだろう」と考えるようになり、道具の使い方に習熟していく。
 カッターくらいなら、けがだって大したものではない。使う前にきちんと説明し、ちゃんと大人が見ていてあげるのはもちろん大事なことだが、よほど危なっかしい使い方でない限り、口を出さずにじっと見ていてやるくらいの度量が大人に欲しいと思う。けがをしたからといって、大騒ぎをしなくてもいい。何度もいうが、カッターで子供が作る傷など、たかが知れている。
 そして、けがをした時に説明してやればいい。刃物がどれほど危険なものか。カッターだからこの程度の傷で済んでいるのだということ。そして、けがをしたからといってカッターを使うことをやめさせず、最後までやり通させて、刃物は確かに使い方も難しいし危険なものだけれど、うまく使えばとても便利なものだということも教えればいい。
 そして、それだけでは多分足りない。




 喧嘩といっても色々あって、口喧嘩もあれば手を出す喧嘩もある。
 そのどちらでもいいが、大人はあまりどちらの喧嘩にせよ、止めない方がいい。
 手を出す喧嘩の場合、カッターと同じで、けがなどたかが知れている。大人が本気で喧嘩をすれば殺し合いにもなりかねないが、素手で子供が喧嘩をしたところで、体格の違いが露骨でなければそう大きなけがにはつながらない。適当なところで止めてやればいい話だし、たいてい、どちらかが泣き出して終わるか、体力の無さからすぐに疲れてしまって終わる。
 口喧嘩の場合も、よほどひどく無い限りは黙って見ていたほうがいい。どちらかが泣くか、どちらも泣くか、いずれにせよ決着がつきそうになったら止めに入ればいい。そして、怒ったり叱ったりするのではなく、相手に泣かされて、あるいは相手を泣かせて、自分がどう思ったかをきちんと自覚させる。感情をそのままにしておかず、ちゃんと自己認識させることが大事だ。
 理非を糾して叱るのは、それが終わってからでいい。子供の喧嘩で大事なのは、それが正しいか悪いかの価値判断を教え込むことより、喧嘩によって自分と相手の間に何が起こるか、その感情の乱れと後味の悪さなどを体験させることだと思うのだ。
 それがわかっていて初めて、大人がいう理非も理解できるようになる。相手にも自分にも痛みを与えるから、うっかり喧嘩などしてはいけないし、人を傷つけるようなことをしてはいけない。そのことは、体験から学んでいくのが一番いい。




 体験無しに、言い聞かされるだけで倫理を学んだ人間がどうなるか。
 近年、日本人は、その答えをさんざん目の前に突きつけられてきたはずだ。
 人間は、残念ながら、言葉だけで何でも理解し応用させられるほどの特別な知性を与えられた存在ではない。そういう特別な人間だと信じきっている人間ほど、頭でっかちなだけで、知識と学力を振り回すのが精一杯の薄っぺらな知性しか持たない、一言でいえばつまらない人間だ。
 逆に、体験しなければどんな知識も無駄になると思っている人間は、深い。身になった知識しか信用しないから、その人がいう言葉には重みもあるし、なにより顔つきがいい。
 社会とは、人が生きていくために営まれていくもの。その社会の構成員として生きて行くときに、何より必要とされるのは、社会のシステムを理解し利用していく術を知ることではなく、人間というものがどんなときにどういう思いを抱くか、どんな行動を起こすかを知ることだ。人間が作る社会を理解するのに、結果として出来上がった社会システムを学ぶより先に、それを作った人間の方を知らなければならないのは自明の理であるはずだ。
 人間に対する理解も無しに社会を知ったところで、何ができるというのか。理詰めで効率的に生きて行こうとしたところで、恋愛一つまともにできずに精神的に追い詰められていくだけのことだろう。
 痛みを知らない人間は、痛みを想像することができないから、平気で人を傷つける。それが周囲との軋轢を産み、結局は本人を追い詰めて行く。追い詰められたあげく、その状況を打開するために、狭い視野の中でできる最大限の行動をとろうとして、最大級の罪を犯す。社会的な罪であれ、社会の法では裁けない罪であれ。なにしろ、何が罪であるかが骨身に染み付いていないのだから。




 痛みを知るだけでは、倫理観は育たない。倫理観だけを教わったところで、痛みを知らなければ身につかない。倫理観と痛みとは、同時に学んでいかなければならないもの。
 それを子供に身に付けさせていくのは、大人の責任である。何も親だけ、教師だけの問題では無い。関わったすべての大人の責任だ。
 社会を構成する一員だという自覚がある人間ならば、社会の子供を育てる責任がある。子供はすぐに社会を支える大人に育っていくのだから、結局は自分達の身に返ってくることでもあるし、それ以前に、人を傷つけてもその痛みが理解できない人間をひとりでも少なくしていく努力がどれだけ尊く大切なことか、普通の人間ならわかるはずだ。
 具体的に何をしろというのではない。そんなことは、人それぞれにやり方もあるだろうし、何かを参考にしてすることでもない。自分なりに考え、結論を出した上で実行すべきことだからだ。私のような、子供を持たない人間がなにをいった所で説得力も無い。
 ただ、痛みも知らないくせに偉そうにものをいう人間に辟易させられ、痛みを知っている人間の意見が封殺されている現状が、社会の歪みを増大させている現実は見えているつもりだ。
 原理原則ではない、人間の中にある感情の領域で正しいかそうでないかを判断する、それが倫理観というものの本来の姿であるべきだ。そして、感情の領域にまで倫理観を身につけさせること、それが幼児教育の最大のテーマであるはずだ*1
 受験のため、あるいは国際感覚を付けさせるためと称して、言語感覚を育てるためにマザータングを確立すべき時期*2に、その場限りの生活に根ざさない英語教育を押し付けてみたりするより前に、するべき事はある。




 犯罪の中でも、特に人間の尊厳を冒涜する唾棄すべき犯罪、子供に対する虐待というものも書きたかったが、ここまでにしておく。そのことについては、いずれまた触れるかもしれない。

*1:それを洗脳であるとするなら、教育とはすべて洗脳だろう。理屈にばかり走る人間はそれを排撃しようとするが、属す社会の倫理観を刷り込まれていない人間など、禽獣でしか無い。その現実をまず見るべきだ。

*2:幼時に多ヶ国語の教育をすることで言語感覚を鋭くさせるという理論は、すでに破綻しているそうだ。言語とはつまるところ自分の主張を相手に伝える記号であり、マザータングが確立せずに思考言語が定まらない状態で育つと、主張をまとめるだけの論理性が育たず、言葉は知っていても話す内容が空虚な人間になってしまう、という。考えてみれば当たり前の話だ。