想像力

 不思議なもので、以前はサイモン・シンの「暗号解読」やキッシンジャーの「外交」など、知的刺激優先で読書していたのだが、精神的にちょっと課題を抱えるようになった頃から、もっと柔らかい物を好んで読むようになった。
 マンガの傾向もそうで、「マスターキートン」や「ムーンライトマイル」といった、割と対象年齢が高そうなマンガが好きだったのが、最近ではまったく分野違いの柔らかいマンガを読んでいたりする。
 佐藤賢一のフランス物より、司馬遼太郎の「街道をゆく」の方が読みやすくて疲れずに良いし、がちがちの理系の友人相手に議論を交わすメール交換より、完全な文系人間の友人とのゆるいメール交換のほうが心地良い。



 頭の動きが鈍っていることとも関係はあるのかもしれないが、そればかりではないはずだ。
 理屈に走りがちな人間は、つい、人間の想像力というものの価値を低く見がちだが、そう馬鹿にしたものでもない。
 たとえば、知的刺激と感情的刺激、どちらが高等かという議論がある。
 小説やマンガに限らず、映画やドラマ、バラエティ番組などのあらゆるコンテンツに触れた時に、触れた人間が得る刺激について、知的な刺激のほうが人間にとって素晴らしいのか、エモーショナルな方がすばらしいのか、という議論だ。
 私はこの議論を根本的に馬鹿にしている。知的刺激だろうがなんだろうが、感情を動かされるから人間にとって刺激になるわけで、議論の根底から間違っている。
 ただ、そういう考え方が存在しているという事は興味深い。
 感情を刺激するだけでは知的刺激がないぞ、という議論だからだ。



 ちょっと、例によって脱線する。
 これは、感情の刺激に対して、人間が常に受身であるという考え方が存在しているから、生まれうる考え方という気がする。
 つまり、「これは泣ける!」というドラマを見て、正直に泣いている人を見て、「ばっかじゃないの?」と冷笑する見方だ。
 そのドラマがどう考えてもアホくさい泣きの展開を見せていたというなら、それはしかたがないことだが、泣きの展開に身を任せずに「私は騙されない」と常に身構えている人間は、自らの同調能力の欠如を嘆いた方がいい。
 何でもかんでも同調すりゃいいというものでもなく、常に懐疑精神を持つべき科学の分野では、同調などもっての他ではあるのだが、こと対人関係において、同調能力というのは非常に重要かつ有用。
 同調能力は、批判しないということではない。反対しないということではない。
 勘違いされやすいところだが、自らの意思を捨てて相手に同調することと、ここでいう同調能力とは、意味合いが違う。自分の意思を捨てて相手に合わせるのは、ただの思考放棄。無責任なだけである。
 自分の考え方が、簡単に外的要因によって擾乱されないものであるという前提条件がある場合、相手の考え方に同調することによって相手のもっと深い考えを誘引し、より関係性を深めるという手法が用いることができる。最近の対人コミュニケーションテクニックの、流行的な考え方だ。
 相手を自分の理屈で屈服させることで得られるものなど、その場限りの自己満足であり、関係性の進歩には一片の利益ももたらさないし、相手の態度を硬化させるだけで、より深い話ができない分、不利益ばかりが増加していく。
 自己が獲得できていない子供ならともかく、自己同一性をある程度確立させているはずの大人までが同調性を放棄している場合が多いから、そういったテクニックがトピックスとして語られるのだろう。



 知的刺激を与えることを目的としないものについて、程度が低いとレッテルを貼りたがるのは、たいてい知的刺激を受けることが至善の価値だと思い上がっている「おとなこども」である場合が多い。
 最初の方に挙げた「暗号解読」を例に取ると、これは単なる知的刺激を与えるという目的以上に、暗号の理論構築者と、それを破る側に立った人間たちとが、文字通り命がけの知的抗争を繰り広げた歴史を描いた本で、本質的には人間を描いた本といえる。暗号論についてのみ書いた本だと捉えるのは、あまりにももったいない。
 この本を読んで、「暗号のことを取り上げた部分はおもしろかったけれど、それを開発したり破ったりした人間たちについて詳述している部分は余計。もっと手短で充分」などと感想を述べる人間がいる。
 それらの筆者の文章をもっと読んでみると、社会情勢について述べている部分が、異様に幼い場合が多い。
 あまり具体的に書いてもしかたがないのだが、たとえば、反日活動について書いた部分を読んで見ると、「現代を生きている人間たちと過去の歴史とは別次元の問題であって、それを冷静に捉えられない人間はゴミ以下だ」とかいうことを恥ずかしげもなく書いていたりする。「すぐ感情的になる人間の低劣さは見るに耐えない」「中国政府が反日をあおることで国民の統制を取っているだけのことで、政治的デモンストレーションに過ぎないのだから、いちいちそんなくだらないものに付き合っていてもしかたがない」など。
 冷静に見ているつもりなのかもしれないが、ここには、中国の人々の視点がまったく欠けている。
 私は、相手の立場に立って物を考えろ、といっているのではない。幼稚園児じゃあるまいし。
 冷静に問題を捉えたいのなら、まずは相手がどう考えているかくらい、きっちり考えてからにしろ、といっている。
 相手の考え方を知らずに、あるいは相手の感情を知らずに、どうやって問題解決の道を探るというのか。
 当事者じゃないからんなもん知るか、と反論されそうだが、そういう反論をする人間には、そもそもその問題について語るべき資格はない。ニュースを見て独り言を口にしていればいい。
 人間には感情という物があり、どんなお偉い人間だろうが必ずその影響を受ける。その事実を受け入れられない「おとなこども」に限って偉そうに物を断定的にいうから始末に終えない、といったら、いいすぎだろうか。



 知的刺激は素晴らしいもの。
 それは私もまったく同感。知的刺激を否定する事は、自分の頭を刺激することを放棄しているわけで、そういう退嬰した頭の持ち主と話すのは、正直苦痛である。そういう人間は、自分の考えを押し付けることと、愚痴をいうことしか頭にない。
 ただ、知的刺激と、感情を刺激されることとが、本質的には等質であるという事実に気付いていない人間と話すのも、苦痛。



 よく、年とともに涙腺がゆるくなる、というが、これは、経験が増えるからだ。
 つまり、自分が感情的になり涙した経験が多ければ多いほど、その経験の記憶が刺激されることにより感情が刺激されることが多くなる。感情の引き出しが多くなる、と言い換えてもいい。
 この引き出しが多い人間ほど、対人関係の名人になって行く場合が多い。相手の感情について理解するための引き出しが多いから、対応に過ちが少なくなるせいだろう。
 一方で、知的訓練を多く受け、心理学を学んだ人間であっても、感情の引き出しが少ないと、ただの頭でっかちで終わる。
 この経験というもの、別に実体験である必要はないのだが、そのあたりがまた難しいのだろう。
 実体験でなければ、なんだというのか、といえば、もちろん想像力だ。
 想像するだけでいいのなら、理屈先行理論先行でも大丈夫じゃないか、といえば、そうではないだろう。
 感情を理論化することなど、脳科学の現状を見れば不可能なことくらい、まともな科学知識がある人なら考えるまでもなくわかっている。
 誰でも知っていることだとは思うが、感情は理屈ではない。理屈で生まれてくるものではないし、理屈で解決するものでもなく、また理屈で途中経過を説明できる代物でもない。
 理屈とは、論理である。論理とは、言葉である。
 感情は決して言葉で表現しきれるものではない。
 そこをどうにか想像していこうとするとき、必要なのは、限界ぎりぎりまで言葉を追って、限界にまで行き着いたその先にある感情の風景を見ようとする強い意志だ。
 それを想像力という。
 言葉で説明できる物を追いかけているうちは、まだまだ論理に頼っているから、感情に対する想像力というには足りない。それを越えた部分で感情を追体験していくのが、少なくとも感情に対する想像力というもの。
 それができる人間が、たとえば小説を読んで泣いていたからといって、想像力を持っていない周りの人間が「なんであれで泣けるかわからない」などとくさしている光景は、見ていて気持ちのいいものではない。
 何でもかんでも泣けばいいのかといえば絶対にそうではない。ないが、感情を刺激するコンテンツに対して、何でもかんでも否定してくる自称「理論派」の人間に対する価値など認める気になれないのも、また事実なのだ。



 わかるようなわからないような文章を書いてしまったが、要は、他者に対する同調力、あるいは想像力を欠いた人間があまりにも多いのではないか、という愚痴である。
 知的刺激を放棄せず、感情も否定しない。
 そんな当たり前のことが、どうも軽視されている気がする。少なくとも、私の周囲では。
 感情を重視する人間は知的刺激を回避したがり、知的刺激を重視する人間は感情を軽視する。
 どちらも、人間にとって大切なものだと思うのだが。