ガンダム


好きとはいっても、触れてはいけない領域というものがあるのかもしれない。



私が触れるまでもなく、あまりにもガンダムに関した情報は満ち溢れている。
いまや、下手に触れてもしかたがないという空気すら流れているし、大枠としてのガンダムで物を語っても意味が無いという感すらある。
20代から30代が中心で、しかも決してメインストリームでは無かったはずのコアなファン層が、ここ数年で劇的に変わってしまった。
新たなテレビシリーズの開始やライトファン層の商業主義的掘り起しが功を奏したというべきだろう。10代前半まで新たなコアファン層を作り上げ、これまでサイレントだったはずのライトファン層までがコアなファンであると語り始めるようになった。
すると、ファンの中でも、細分化が起きるようになった。学問の世界と同じで、その分野での研究などが進んでいくと、掘り下げが深くなる分、細分化・専門化が進む。



私はというと、最近のガンダムには興味も持てないという「オールドタイプ」で、かといってジークジオンを叫ぶほどマニアックになる気もないという中途半端な存在だ。
それでも、別に商業的意図があるわけでもなし、マニアの中で優位を保とうという野望があるわけでもなし、自分が何を好んでいるかを列記して行こうという宣言のもと、ビスマルクについて4回に渡って語ってしまった後である。今さら何を書こうと、怖いものなどないだろう。



まず、いちガンダムファンとして、最近のガンダム事情について。
現在放映中のシリーズについて、私は個別論的に語る資格が無い。見ていないからだ。
なぜ見ていないか。
ごく簡単な話で、絵も脚本も好きになれないからだ。
他の人間がどう評価しているかなど知ったことではなく、私の趣味では無いということ。
絵に関していえば、あの評価が低いにも程があるという「∀ガンダム」の絵が受け入れられた自分が、なぜあの絵を受け入れられないのかは不思議に思う。リアル感が大切だというのなら「∀」の方がよりガンダム的では無いといえるだろうし、女顔という批判をいいだしてしまうと、現在主流になっているアニメはほとんど否定されてしまいかねない。
ガンダムも、その時代その時代のアニメとして作られてきた。作品にはその時代特有の技術論が導入されているし、時代ゆえの制約もある。初代ガンダムの、いわゆる「スーパーロボット物」から一歩も脱却していないスポンサーサイドからの制約による一連の「嘘くさい造形」問題など、数え上げればきりがない。
現在のガンダムには現在のガンダムの思想があるのだろうし、それに基づいて造形がなされているのだろうから、いちいち文句はいわない。気に入らなければ見なければいいだけの話で、現にそうしている。
では脚本の方はどうかというと、過去のガンダム作品を連想させる記号を羅列させている面について、のっけから失望させられてしまった観がある。
宇宙世紀を放棄してなおガンダムというシリーズを再興させた以上、富野由悠季が提示したものと同等かそれ以上の世界観を構築しなければ批判は避けられるものでは無い。



商業面において、ガンダムというソフトはアニメ史上最強といっていいブランドである。そして、ブランドがブランド自身の価値に拘泥するようになると、必ず衰退するという原則があることも忘れてはいけない。ファッションブランドの盛衰を見てみればすぐにわかることだ。自己否定に近い価値観の転換と、守り抜くべき伝統とをいかに融合させていくかに苦労を重ねた末に、ブランドは底力を蓄えて価値を高めてきた。
今さらガンダムというブランドを謳って作品を作るからには、製作者側には、思い切って世界観をがらりと変えたものにするか、既存の世界観を別視点から切り開いて行くかする必要があった。
前者は、それまでのガンダムを想像することができないような、それでいてガンダムと名乗るに恥じないもの。急進的な、前衛的なガンダムを作るということ。
後者は、それまでのガンダムの伝統をさらに上積みにするべく、記号を存分に配置したもの。保守的な、古典的なガンダムを作るということ。
後者は∀ガンダムによって否定されたに等しい。ガンダムという作品世界の創造者である富野自身が、ガンダム世界の幕を引いた作品だからだ。外伝的にそれが作られることはあっても、本伝として作らざるを得ないテレビシリーズで後者を作ることは、もう許されない。F91のテレビシリーズ化が頓挫して以降、ファースト以来の価値観を引きずった作品が惰性のごとく作られ、作られるほどに支持を失っていったことを思い返せばわかりやすい。
ファーストとは似ても似つかない物語が作られていた、というのは、表面的な物語に目を捉われているだけに過ぎない。「ガンダム」という「ヒーロー」が、ほとんど無謬の力をもって敵を倒していくというイメージを崩す物語など、一切現れなかった。ヒーローに対置するアンチヒーローはしばしば仮面をつけて登場し、かつヒーローの力は物語を経るごとにインフレーションを起こしていった。



私が現行の物語を見切ったのは、インフレーションここに極まれりといった、ガンダムシリーズの安売りとその行き過ぎた無謬化を確認してしまったからだ。
ガンダムは敵方のものというところから始まり、主人公は戦いに偶然から巻き込まれていく少年という記号、ワンオフの試作機という位置づけをすり替えたとしか思えないワンオフ機の乱れ撃ち、これらは「機動戦士」の名を冠さないガンダム物語群が積み上げてきたインフレーションそのものだろう。
ひとつのガンダム物語のあり様としては、これもあり、なのかもしれない。だが、今さらインフレーションしたものを見せられて、何のカタルシスがあるというのか。
少なくともファースト以来の全てのガンダムシリーズを見てきた者としては、少々受け入れがたい代物になってしまっていた。
まして、ザクやら金色のモビルスーツやらが出てくるようになってしまっては、何の冗談かとあざ笑いたくもなる。



物語面として、旧来のガンダムには無かった概念を多数持ち出してきていることや、旧来のガンダムを知らない人間こそが楽しめるものを志向している面を評価することはできる。ガンダムというブランドを使ってこそ出来ることがある、ということもわかる。まったくの新規のアニメでは出来ないことも、確かに存在するのだ。
だが、なぜこうまでもガンダムの記号を出し続けるのか。
新しい価値観を創出していく姿勢を、なぜ中途半端な商業主義にも見えかねないもので覆い隠してしまうのか。
陶酔型の自己中心的な悲観論ばかりが幅を利かせ、出てくるキャラクターは類型の域を出るものではなく、世界観は結局従来のガンダムの世界観からそう逸脱するものでも無い。



どうせ宇宙世紀を逸脱した「機動戦士」を作るのであれば、誰もが一瞬首を傾げてしまうような奇想天外なことをやってのけるべきだったのだ。
太陽系をはみ出すほどの規模を持つ文明の戦いであってもいいし、ガンダムを最後まで敵として描ききってしまってもいい。
「なぜそれをガンダムの名を冠してやらなければならないのか」という議論から始まるような、とんでもない設定から新たな世界観を生み出していっても良かったはずだ。
それがスポンサーや局サイドの意向で潰されてしまう類のものであることはわかっているが、だからこそ、それくらいのことをしなければ、ガンダムブランドを商業的に食いつぶしているだけだという私の実感は覆らない。
なまじガンダムらしいガンダムを、ガンダムとは違う世界観でやろう、などと中途半端なことをするから、従来のガンダムファンに異様に叩かれる物語になってしまったと私には思える。



Ζガンダムという物語からガンダム神話の食いつぶしは始まったが、Ζなどはまだしもいいだろう。完全な続編でありながら、「ストレスドラマ」と称される鬱展開を堂々とやってのけ、最後には主人公を精神崩壊にまで追い込んでしまった。ほとんどやけくそとしか思えないその展開は、生々しいほどのキャラクターたちの苦悩とすれ違いの連続に、見ていて疲労を感じるほどだった。とても中学生程度の子供に楽しめる代物ではない。
典型はシャアの扱いだ。クワトロと名を変えた彼の、なんと情けないことか。理想主義と現実主義とが自分の中で乖離してしまった若き英雄が、カミーユなどという小僧にいいようにののしられ、無様をさらしてしまうのだ。大人になって改めて見返すと、ヒーロー否定とキャラ造形の非情さに驚きを禁じ得ない。同時に、よくぞここまでやったと富野神話に手を叩きたくなる。
さらに、ニュータイプ思想という、ファーストが生み出し提示した概念を、最後の最後まで救われないものとして描いたことにも、高い評価が加えられていい。そこまで徹底して悲劇を描いたからこそ、ファースト以降のガンダムの中で別格の地位を築いているといってもいいだろうからだ。



私がいい出したことではないからあまり大きな声で語るわけにはいかないのだが、どうせ新しいガンダムを作るのであれば、いっそ永野護あたりを起用していれば良かったと本気で思う。
FSS的価値観を導入せよ、といっているのではない。あんな劇薬を注入しては、ガンダムブランドは崩壊してしまう。永野護ロマン主義を導入すべきだ、という意味だ。
それはビジュアル面においてのみですら構わない。彼の造形は彼以外のものには再現不可能なほど特殊で、繊細で、これまでのガンダム的造形からは見事にはみ出してしまっていながら、安易なスーパーロボ物とは比較するのも失礼なほどに美しい。
彼がビジュアル面で参加したモビルスーツ群は、キュベレイにしろハンブラビにしろ、艶かしいほどの曲線と醜悪にすら思えるほどの奇抜さを誇っている。エレガントとかデーモニッシュとかいう形容詞が、たかがロボットに冠されてしまうというのは、並大抵のことでは無い。
残念ながら永野が参加した「ブレンパワード」では、原画レベルが永野デザインの良さをスポイルしてしまっている観があったが、ガンダムという名を冠した物を作るとなれば、ある程度それを意識したものがデザインされるはずで、その基準は「スマートなかっこよさ」に置かれるだろうから、出来上がってくるものがどんなものになるか、想像するだけでも楽しい。



などという暴論で終わってしまうのもなんだが、ここまでぞろぞろと書き連ねて、結局何がいいたいかというと。
私はガンダムというブランドにどっぷりと肩まで浸かってしまった、ひとりのガンダム教信者であるという宗教告白である。