鉄血宰相その4

ビスマルク肖像




ビスマルクプロイセン首相として、あるいはドイツ帝国宰相として、その辣腕を振るうことが出来たのは、主君に恵まれたからだといえる。
プロイセン国王ヴィルヘルム一世という男にも、なかなか興味を惹かれるものがある。



まだ王位に就く以前から、軍人として、あるいは外交官として活躍していたこのヴィルヘルム一世は、自由主義者や過激な共和主義者を相手にかなり厳しい措置をとり、「榴弾王子」というあだ名を奉られていた。
榴弾というのは、中に爆薬が詰められた砲弾のこと。着弾すると景気良く破裂し、破片を飛び散らせる。貫徹力は小さいが、殺傷力はきわめて大きい。
民衆などにしてみれば、よほど危険な人物として知られていたのだろう。
自由主義者の活動が活発になると、それに反発する保守主義者のことを反動主義者というようになったのだが、榴弾王子はまさにこの反動主義者だった。社会主義者を徹底的に弾圧したビスマルクも反動主義者といえるから、このあたり、主従で似たような道を歩んでいるといえなくもない。
父が亡くなったあと、兄が即位するのだが、その下で反動政治家としての彼は良くも悪くも名を轟かせた。兄が脳卒中に倒れ、後遺症が激しかったためにもはや王としての責務が果たせなくなったとき、彼は摂政王太子となる。
本人に王国を継ぐという覚悟があったか無かったかは私にはわからないが、兄に子供がいなかったことから、薄々時期国王となるべき存在であるという考えは生まれていたに違いない。
兄が亡くなると、彼は即位する。63歳という遅い即位だったが、同時に、難問が控えていた。
軍制改革問題で急進派と保守派との対立が激化する議会で、保守派が惨敗したのだ。
若い頃はともかく、60も過ぎた新国王は、単純な反動主義者ではなかった。プロイセン、ひいてはドイツ地域の発展と安定が大切であるということはもちろんわかっていたし、そのためにはある程度急進的な人間の考え方とも付き合って行く必要があるとも考えていた。
ただ、この惨敗はひどすぎた。議会の過半数どころか、大多数が急進派の議席となり、国王が焦って議会を解散、再度選挙を行うと、さらに保守党の議席が減少するという体たらくだった。
プロイセンの国民は、保守反動の動きを容認しないかに見えた。



ここで登場するのが、老国王が目をかけていた少壮気鋭の保守政治家、ビスマルクだ。
老王は、生粋のユンカー出身で、プロイセン国家に対する忠誠心を誰よりも強くもつこの年下の男に、全てを託す。
結果はものの見事に吉と出た。
この老王、人材眼には優れていたようで、ビスマルクに対抗する人材として、それ以上にプロイセン国軍の改革と来るべきフランス戦勝利を実現する人材として、参謀将校モルトケ参謀総長に抜擢したりもしている。
後に戦略の天才と称されるモルトケも、また政治家として不朽の名を残すことになるビスマルクも、この老王の引き上げによって日の目を見た。
ビスマルクは先述の「鉄血演説」で議会の空気を一変させ、軍制改革の法案を通過させてしまった。



そこからのビスマルクの活躍ぶりはこれまで触れてきたとおり。
国王に「ドイツ帝国などというものができてしまえば、わがプロイセン王国もその中に吸収されてしまうのだろう」と嘆かれ、戴冠の前日まで駄々をこねられるという幕間狂言があったりはしたが、ビスマルクは主君の期待に応え続けた。
もっとも、老王はビスマルクと心が通じ合った君臣の関係が結べていたとは考えていなかったようだ。「いつまでたっても気心の知れぬよそよそしさを覚えさせる」と、ビスマルクに会った後にもらしたという話も伝わっている。
このあたりに、ビスマルクの性格の一端が現れているとも考えられる。
彼は、職務上の必要性から王に臣従していたにすぎず、誰が相手だろうとその態度は変わらなかっただろう。どこか不遜で、剛腹で、自らの繊細さを決して人には見せない男。
彼は孤高であり、自分が孤高であることを完璧に理解していた。そしてそれが自分の責務であることも理解していただろう。
統治者とは、孤高になってしまうものなのだ。指導者とは、常に孤独を背負うことになる立場で、それは古今東西変わりが無い。



彼は、意外なことに詩を愛した。バイロンというロマン派の詩人の詩を日記に書き写したり、素朴で美しい文章を綴って手紙にしたり、「鉄血」のあだ名からは想像がつかない部分も持っていた。
文章家としてはつとに有名だったようで、最も美しいドイツ語をあやつるとさえいわれていた。政治家に言葉が必要なのは当たり前だが、偉大な政治家には案外文章家が多いことにも気付かされる。それも、現実主義者として名を馳せた者の中に、だ。現代周辺に限定しても、ノーベル文学賞を受賞しているイギリスのチャーチルなどは現実主義者の筆頭だろう。フランスのミッテランなども文章家として知られていた。
そういう人間には往々にしてありがちだが、彼は口が悪く、政敵などは散々にこき下ろしたという。なまじ言葉が巧みだから、言われた方は怒り狂ったに違いない。
だが、周りで聞いている分には面白かっただろう。皮肉が効いていたり、洒落が効いていたりして、ただ罵倒するだけではない人の悪口というのは、自分がいわれているのでなければ充分楽しい。
下級とはいえ貴族であるユンカー出身、しかも政治家として若い頃にはフランスやロシアの宮廷にも出入りしていたという人物だから、挙措も意外に洗練されていて、社交界では人気者でもあったという。
気の強い性格は昔からのことで、たとえば学生時代にはよく決闘騒ぎを起こし、またせっかく就職した先で上司と大喧嘩をして退職したりと、色々とその性格が災いして青春の苦悩というやつもそれなりに経験している。
もっとも、それを本人が苦悩としていたかどうかはわからない。少なくとも本人はそれを苦悩だなどと認めはしなかっただろうし、そういった騒ぎの中で、「自分以外は馬鹿だ」とはっきり意識したからこそ、「こんな馬鹿どもに国を任せていられるか」という強い意志をもつに至ったという事だって、考えられなくはない。
彼は2mを超える偉丈夫だったというから、肉体的な面でも他者に優越していた。そのことも、あるいは彼の人格形成に一役買っていたかもしれない。
それから、政治家として孤高の存在であったからこそかもしれないが、あるいは孤高の存在となるためには必要なことだったのかもしれないが、彼は愛妻家だった。プロテスタンティズムを守っていただけだ、という考え方もあるが、その美しい文章で婚約者の時代から多くの手紙を送り、家庭も大事にしていたという。



彼は間違いなく天才的な政治家だった。
「上からの改革」で今日のドイツの社会保障制度の基礎にもなっている制度を作り上げ、国内の産業を育成し、外交においては「ビスマルク体制」と呼ばれる平和を作り出した。
ビスマルクの建国はあまりにも見事であったので、彼が築いたドイツは、二つの世界大戦での敗北や二度の外国による占領および二世代にわたる国の分裂を生き抜くことが出来た」
と、キッシンジャーが評価している通りである。
一方で、彼は偉大すぎたともいえる。



ビスマルクが仕えていた国王ヴィルヘルム一世がなくなったあと、そのあとを継いだ子が早々に亡くなり、孫のヴィルヘルム二世がさらにあとを継いだ。
若き皇帝は、ビスマルクと祖父帝が築き上げたドイツ帝国が、どれほどデリケートに運営されてきたか、あるいはドイツの持てる力がいかに自制され、そのことによって平和や繁栄を維持してきたかを、まったく理解できていなかった。
若き皇帝と老宰相は、すぐに対立するようになった。
ごく簡単に把握してしまえば、若い皇帝は景気のいい話しか聞きたくは無かったが、老宰相にしてみれば、それは統治者としての態度では無いというところだろうか。
偉大なドイツ帝国の皇帝たる自分が、なぜ他国や臣下のビスマルクごときに気を使わなければならないのか、ヴィルヘルム二世にはまったく理解できなかったに違いない。
初代ヴィルヘルム一世は、その父が王であった時代から軍人として、あるいは政治家として苦労もしたし、王となり皇帝の位に就いて以降も、ビスマルクら臣下の力を借りて自ら政務を執り行っていたから、現実という物を知っていた。戦争政策から平和政策に転換し、自分たちドイツ帝国が持つ力を抑制することでかえって国際政治で発言力を増す、というデリケートな外交が持つ意味も理解していた。
老帝がビスマルクを最期まで信任していたのも、ビスマルクが作り上げたドイツ帝国の路線がおおむね正しいものだと確信していたからだろう。
若き皇帝にはそれがわからなかった。
若者にとって、ビスマルクという傲岸な男は手に余ったという部分も大きかっただろう。
皇帝は、ビスマルクを解任する。



ビスマルクは優秀すぎたのだともいえる。
彼が行ってきた政治も、外交も、他者の理解の範囲を超えていたのだ。皇帝も、その側近たちも、さらに国民や他国の政治家たちも、ビスマルクが偉大であるということは理解できても、彼が何をしてきたか、については理解できなかった。
後継者も現れなかったし、ビスマルクもその育成に失敗した。
ビスマルクは、彼が皇帝にしたヴィルヘルム一世に賜った領地に隠棲し、晩年を過ごす。
彼が死ぬまでの間、ドイツは次々に失策を犯し、それまでの「敵は作らず、かといって過度に仲良くなることもせず」という外交方針はくつがえされた。
フランスを孤立させ、それ以外の国とは程よく仲良くする、というビスマルクの手品のような外交政策は姿を消し、力押しの外交がまかり通るようになった結果、大した時間もおかずに今度はドイツが孤立して行くことになる。
ビスマルクが最も恐れていたのは、地理的に強国に挟まれているがゆえに、包囲網を形成され孤立してしまうことだった。だからこその外交政策だったのだが、若き皇帝はその程度のことすら考えずに、まずはイギリス、次にロシアを敵に回し、やがて第一次世界大戦へと突き進んでいくことになる。
皇帝はわかっていなかったのだ。祖父帝と老宰相が築き上げたドイツ帝国は、自由に振舞うにはあまりにも強くなりすぎていたということを。



ビスマルクという男、反動政治家という理由で、左派史観が根強い歴史の世界では評判が悪い。といって、右側の思想を持つ人間に人気があるかといえば、そもそも右側の人間は歴史に学ぶという姿勢を持たない場合が多いから、そちらにもあまり人気も無い。
それでも、日本の歴史に多大な影響を与えている政治家ということで、割と名は知られている方だろう。同時代のイギリスの政治家、ディズレイリやグラッドストンなどと比べれば、はるかに知名度は高い。
では、彼が好きだと公言する私は、彼をどう評価するのか。
仮にこういう政治家が日本にいたとして、私は彼を支持することはないだろう。
好きだから書いたんじゃないのかよ、といわれそうだが、彼は民主主義の世界にはいささか大きすぎる人物である気がするからだ。
民主主義に英雄は必要ない。必要なのはシステムとそれを支える人材で、システムを無視して国家を運営できてしまう偉材ではないからだ。
それでも、このような人物に学ぶところはたくさんあるはずだし、彼と同様の性格であったとされる彼の同時代人、イギリスの首相ディズレイリの存在を考えれば、生まれる場所が違っていればあるいは彼も民主主義の護持者としてその才を振るっていたかもしれない、などと考えるのも、楽しいことである。



最後に、この項を書くのには、基本的にネット上の情報を参考にしたのだが、キッシンジャーの「外交」という本の一部分も非常に参考になったので、掲げておく。

外交〈上〉

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