鉄血宰相その3

ドイツ皇帝戴冠



あまり内容が固くなると、数少ない固定読者の方々から「読みにくいよ」「面白くねーよ」というお叱りを受けるはめになるのだが、一度書き始めてしまった物を今さら撤回もできないので、もう少し書く。
一応、今回と次回で終わらせるつもりではいるのだが。



普仏戦争プロイセン側の勝利に終わった原因は、端的にいってしまえば、フランスが弱かったせいである。
当たり前といえば当たり前だが、単純に弱いといっても、国力はフランスのほうがはるかに上といって良い。それが軍事力の強さに反映していなかったがための弱さ、だ。
要は、宣戦布告をしたのはフランス側だというのに、まったく戦争の準備が整っていなかった。



フランスの市民を、メディアを使って扇動し、宣戦布告させてしまうという離れ業を使ったビスマルクだが、その狙いはいくつかある。
まずひとつは、プロイセンが他国から宣戦布告を受けた際、プロイセンの戦争に協力するという条約があったからだ。相手はプロイセンが連邦として条約を結ぶ関係にある北ドイツ諸邦。これは攻守同盟というよりは、プロイセンが戦う時には自動的に動員令をかけてしまうという、半ば支配的なものだったらしい。また、南ドイツ諸邦についても、それよりは緩やかな形での攻守同盟に基づき、兵が出されている。
また、戦争には正当性が必要であるということもある。茶番とはいえ、戦争を起こすからには大義名分が必要で、それを欠けば、外交上まずいことにもなるだろうし、国内の政治的混乱を招くことも考えられる。なにより、前線の兵士たちに厭戦気分が起きては、勝てる戦も勝てはしない。
加えて、扇動されたのはなにもフランス人だけではない。プロイセン国王がフランス皇帝により屈辱的な立場に置かれたというようにも読み取れる「エムス電報」により、ドイツ人の反フランス感情も大いにかきたてられていた。それにより、ビスマルクは、対フランス戦の中でドイツ人のナショナリズムを刺激し、統一への心理的障害を一気に取り払ってしまおうという策を展開していた。



対フランス戦を予期して万全の準備を整えていたプロイセン側に対し、フランス側はろくに準備などしてはいなかったから、戦争開始はフランス側へのプロイセン軍侵攻という形ではじまることになった。
フランス軍は、軍備が遅れていることもさることながら、補給線すらまともに確立できないという有様だった。計画がどうこうというより、補給のための輸送力がまったく足りなかった。
当時、まだトラック輸送は無い。馬車か鉄道である。戦略目標として敵の補給戦を断つのは戦争の常道だが、なけなしの補給線を維持するというごく基本的な発想すら、フランス軍には無かった。
広大な空間に兵を集めて「せーの」で真正面からどんぱちを始めれば、あるいはフランス軍に勝機があったかもしれないが、火器登場以前ならともかく、銃剣突撃すら時代遅れになった近代戦の中で、古代以来の遭遇戦などそうあるものではない。補給が途切れたときの彼我の兵力差の不均衡は、火器の威力が増すに連れて飛躍的に増大するものだ。
フランス軍はあっという間に防衛線を破られ、大兵力が分断されて兵力の効率的な運用が出来なくなったあげく、皇帝ナポレオン三世自身が率いる軍がドイツ連合軍に包囲され、降伏投降の憂き目にあうという惨状を示した。
皇帝が捕虜になってしまったのだから、もはやまともな戦争にはならない。偉大な伯父ならともかく、彼には大した軍才は無かった。にもかかわらず戦場に出た結果がこのざまでは、情け無さに目もくらむ思いだったに違いない。



これが後のナチス・ドイツの時代なら、そのままフランス占領という発想になってしまうのだが、ビスマルクにはそんな気は毛頭無かった。
軍部や国王側近、あるいは国王その人もかもしれないが、ビスマルク以外の人々は、ナポレオン三世が皇帝廃立された時点で、つまり勝敗がほぼ明らかになった時点で軍を退こうなどといい出したビスマルクの言葉に、耳を疑ったことだろう。
ビスマルクは、フランスを敵に回すことにためらいはなくとも、徹底的に戦うという考えなど無かった。彼にとって軍事行動は外交活動のひとつの形態でしかなく、目的はあくまでドイツ統一である。フランスを叩くことでは無い。
ここでこちらに都合が良い条約でも結んでしまえば、それで目的は達成される。
だが、これはいくらなんでも周囲が納得しなかった。特に、ビスマルクと度々衝突したことで知られる参謀総長モルトケは激しく反対し、結局ビスマルクを押し切って戦争を継続することになった。
ただ、モルトケら軍部にも、フランスを占領するなどという気はさらさら無かった。彼らが考えていたのは、積年の敵であり、これからも間違いなく敵であるフランスを、ここで徹底的に叩いておくことで、しばらく立ち上がることもできないほどの打撃を与えるということだった。
立ち上がれなくなったフランスを貪り食う、という発想は無かった。国力を振り絞って絶滅戦争を戦う、という狂気の発想は、まだこの時代には無い。



戦争継続を断念した臨時政府に怒り狂った労働者たちがパリを占拠し、パリ・コミューンという擬似社会主義国家を作ったりという事件もあったが、戦争の帰趨を変えることなど不可能であり、結局は瓦解した。
ドイツ軍はパリ近くのヴェルサイユ宮殿を占領し、そこで全ドイツ国家を統一すべきドイツ帝国の成立を宣言、プロイセン国王が初代ドイツ皇帝に即位した。
ビスマルクとその主君の悲願、統一ドイツの誕生である。
もっとも、主君の方は不満たらたらだったようだ。
ビスマルクにしてみれば、あきらかにプロイセン主導でなしえたドイツ統一なのだから、形式などどうでもいいではないかというところだが、主君にしてみれば、プロイセンという国がドイツを実力で統一する形ではなく、統一ドイツのいち諸邦としてのプロイセンに成り下がってしまうようで、どうも気に入らなかったらしい。
皇帝などという称号にだまされ、王位を統一ドイツ帝国に乗っ取られたような気がしたのかもしれない。
いずれにしろ、皇帝が誕生し、帝国が成立し、フランスは負け、ライン河沿いの領土がドイツのものとなり、多額の賠償金がフランスを財政的に苦しめて行くことが決定した。



帝国、という言葉は、解釈が色々と難しい。
このドイツ帝国の場合、いくつかの王国といくつもの公国など、ドイツ地域にあった諸邦を統一したから帝国という。国を統治するのが王や公であり、それらの国々全体を統治するのが皇帝、ということ。
一応、憲法が存在していたし、諸邦から代表を出しての議会「連邦参議院」と、普通選挙で選ばれる議会「帝国議会」も存在していたが、実質的には「ビスマルク独裁体制」だったといわれている。
なぜなら、行政の代表者である宰相のビスマルクは、議会ではなく皇帝にのみ責任を負っていたからだ。つまり、議会がなんといおうが、ビスマルクがその気にさえなれば、皇帝を納得させてどんなことでも押し通せてしまうということだ。
連邦参議院には、それでも大きな権限があったが、帝国議会となると権限は小さく、ビスマルクの剛腕には対抗する術も持たなかったようだ。
統一の過程で得たこの絶大な権限で、ビスマルクドイツ統一をより実質的なものにして行くために、様々な手を打っていく。
そして、この統一以後の彼の施策こそが、彼が後世名を残すに値する大政治家であったことを証明していく。
私が彼に興味を持つようになったのも、普仏戦争以後の彼の業績を知ったからだ。
ここまでの彼の業績など、ちょっとばかり肝の据わった政治家ならば、どうにかやってやれないことはないことだとすらいえるが、ここからの彼の施策は、彼が極めて現実的で柔軟な思考を持つ、真の現実主義者であったことを物語る。



断っておくが、彼はごりごりの保守主義者であり、民主主義などというものを毛ほども認める気は無かった。
少なくとも現代的な意味での「保守主義者」が可愛らしく思えるほどの保守主義者であったことは間違いなく、フランス革命から始まる民主政治と自由への流れは、彼にとって冷笑の対象以上のものではなかった。
私は民主主義をごく普通に受け入れて育ってきたし、今の所これ以上の体制があるとも考えてはいないから、現代社会にビスマルクのような政治家がいたとしても、絶対に投票することなど無い。
ただ、政治家とは、出した結果が全て。
彼の考え方が受け入れられなくても、彼が為したことが結果として社会に益したか否かだけが政治家の判断基準だから、それを考えると私は彼を受け入れざるを得ないのだ。
どんなに理想的なことを語り、それを信じたいと思わせるような政治家であっても、結果として社会を悪い方向に進めてしまったのなら、その政治家は問答無用で悪だ。弁護の余地は無い。結果が全てである。
人に感動を与えることが仕事というスポーツ選手ではないのだ。人々の暮らしが、命がかかっているのが政治家という仕事であり、途中経過や努力の量などというものには何の価値も無い。繰り返すようだが、政治家とは結果が全てだ。



普仏戦争後、統一されたドイツで、ほぼ独裁的な権力を得た彼は、内政に外交に手腕を振るう。その振るい様は、後世がどのように批判しようとも、「彼には決断力が無かった」とだけは絶対にいわれないだろうという、無責任に仔細に見ていくと楽しくてしかたがないというようなものだった。



普仏戦争に絡めて外交面を挙げると、まず彼はフランスを孤立させる政策を用いた。
ヨーロッパで、その時点で列強と呼べる国は、イギリス、オーストリア、ロシアにフランスといったところ。
うち、イギリスは大陸に対する領土的野心が無い。彼らは植民地経営や通商路の確保には熱心でも、わざわざヨーロッパ大陸に進出して大汗をかこうなどという自虐的な趣味は無かったから、経済活動上有利になるよう、ある程度ヨーロッパには平和でいてもらいたいと考えていた。バランス・オブ・パワーのバランサー、といわれるほどに外交的に奮闘し、平和を支えたのも、要は平和な方がもうかるからだった。
オーストリア普墺戦争に敗れた後、ドイツ方面への拡大を完全に断念していた。プロイセンと事を構えても出血が増えるだけということもあったし、ハンガリーバルカン半島への拡大志向の方が大きかったせいでもある。つまり、統一ドイツ帝国がこれ以上手を出してこない限りは、ことさらに対立する理由は無くなっていた。
ロシアは文明化が遅れてはいたが、その底力は他の列強に劣るものではない。とはいえ、地理的に東に寄りすぎていて、彼らの目も西欧よりは黒海方面やシベリア方面に向きがちだった。
となると、新たに列強として名を連ねたドイツ帝国にとって、目下最大の敵はやはりフランスだった。
まずはドイツの経済を成長させ、統一の実質を作り上げることが求められていたビスマルクは、これらの外交的状況を考え、フランス孤立化政策を進める。



そうして出来上がったのが「ビスマルク体制」と呼ばれる、緊張感のある平和、という代物。
ビスマルクは、 ① フランスの孤立 、 ② 他諸国との友好関係樹立 、 ③ 友好以上の関係の否定 、という三つの原則で外交を行った。
ライバルを世界の中で孤立させ、ライバルに恐怖心を抱く他の連中と仲良くし、かといってそういう連中とは仲良くしすぎないことでうまく紛争などからも身をかわす。
これが可能だったのは、もちろんビスマルクに才能と嗅覚が備わっていたからだが、それ以上にドイツ帝国が領土的な野心を持っていなかったからだった。
ドイツが領土に野心をもたない以上、またビスマルクには聖戦志向が無かったから、その意味における宗教戦争というものもありえない以上、ドイツはフランス以外の誰かを敵に回してまで何かを欲するということが無い。当時列強諸国が血道を上げていた植民地の拡大競争にすらさほど興味が無かったから、その点でも他国を刺激しない。
ビスマルクはその立場を最大限に活かし、孤立し過ぎない程度に孤立するというデリケートな外交を完璧にやってのけた。これにより、ドイツはヨーロッパのバランサーとなり、20年間の平和を現出させるに至る。



内政的にも、彼の考え方は似たようなもの。
当時、社会主義思想が次第に激化しつつあったが、彼はこれを弾圧。保守主義者の彼としては当然のことだったが、その一方で、社会主義者が謳う「社会保障制度の充実」や「普通選挙の実施」を、その強権をもって成し遂げてしまう*1
社会主義者たちの運動は、このやり方で拡大のしようが無くなってしまった。社会主義者たちが目指していた物を結果としてビスマルクが達成してしまうことで、社会主義者の主張が薄れてしまったのだ。
また、社会保障制度の拡大と市民権の拡大は、他国に比べ圧倒的に遅れていた産業の活性化にも大いに役立った。労働者の権利が多少は改善されたことで、生産性も上がったし、国内政治が安定したことも経済の活性化に大きな役割を果たした。



ドイツ帝国成立以前には戦争によって、成立以後は平和によって、彼は政策を進めていった。
「鉄血」という名から想像されるような、武器によってのみ国威を発揚させようと図る単純な政治家では無いということが、彼の名を不朽のものとした。
彼にとってイデオロギーなどというものは笑殺してしかるべきもので、社会主義者との闘争にしても、それが国体を揺るがすから弾圧したのであって、彼に敵対するから弾圧したのではない。
ビスマルクが属すプロイセンという国はプロテスタント国で、南部ドイツに多かったカトリック諸邦とは対立する関係にあった。統一後のドイツでは、このプロテスタントカトリックの対立という構図が存在し、「文化闘争」と呼ばれる激しい争いが起きた。
ビスマルクプロテスタント勢の先導者としてこの争いに主導的な役割を果たしていたが、社会主義に対抗する必要性に迫られ、またイギリスとの経済上の対立から保護貿易主義に政策転換する必要に迫られると、それまで反ビスマルクの旗振り役のようになっていた教皇が死んだことを契機にカトリック陣営と妥協を成立させてしまう。
かつて敵としていようが、都合が変われば手を結ぶこともいとわなかったのだ。
彼にとって、政治目標である「偉大なるドイツ帝国の成長と維持」以外のことは、どれも譲れないものではなかった。そのために必要とあらば、社会主義者を徹底的に弾圧することに何のためらいも持たなかったし、自身の信仰をごり押しにして国内の対立を激化させたりはしないという決断も下せた。


次項、最終回。

*1:ただし、普通選挙は男子に限られた。