鉄血宰相その2

ナポレオン三世




ビスマルクを語る上で、そのライバルとして常に語られるのが、フランス皇帝ナポレオン三世だ。



彼は、中世から受け継がれた、過密で不潔なパリを近代的な大都市パリに改造したり、産業革命を導入して国力を引き上げた偉大な内政家であり、スエズ運河の建設やイタリアからのオーストリア勢力の駆逐を成功させた外交家でもあった。
いわずとしれた大ナポレオンの甥で、大統領就任からクーデターを経ての国民投票で皇帝の座についた。
本人は外交こそが自分の責務であると思っていたようで、その面に特に力を割いていたが、結果から見れば、内政家としての資質がはるかに優っていたようである。ビスマルクにはいいようにしてやられ、ロシア皇帝からは見下されたままで終わり、メキシコ出兵では国内外からの批判を浴びて帝政の崩壊を招くなど、偉大な内政家としての顔に比べ、外交面では失策が目立つ。
そういった外交面の失策の中でも、特にビスマルクとの関係は、彼にとって最悪だったといっていい。
彼はビスマルクに徹底的に、しかも一方的に利用され、搾取されて終わってしまったからだ。



産業革命から取り残されつつあったドイツは、何とか統一することで地域の安定と産業の育成を図りたい、という強い願望を持っていた。
だが、その願望には二つの流れがあり、それらが対立することで一向に話が前に進まずにいた。
ひとつは、当時ゲルマン系最強国だったオーストリア帝国を中心として、ゲルマン系国家を大集結させての統一を目論む一派。大ドイツ主義ともいう。
一方は、多民族国家であるオーストリア帝国を排除し、文化的にも同一のドイツ地域のみを統一すべきという一派。小ドイツ主義ともいう。
仮にオーストリアを加えて統一するとなれば、ドイツ地域は小国乱立状態のままオーストリア支配下に入るということであり、ビスマルクにしてみればそんな事は認められるものではなかった。
彼は当時の人間としてごく当たり前な民族主義者であり、後のナチのような急進的な民族主義者ではなかったが、オーストリアの下風に立つ気など微塵も無かった。



ビスマルクは、ひとつの戦争を利用する。
ひとまずオーストリアとは同盟関係を結ぶことで平和を維持した彼は、ドイツ人とデンマーク人とが混在する地域で領土紛争が起きたとき、オーストリアとの同盟を利用し、対デンマーク戦争を起こす。
その戦いの中で、ビスマルクプロイセン軍部は、盟友であるはずのオーストリア軍を徹底的に分析する。将来必ず戦うことになるだろうという予測の中で、対オーストリア戦略を立てるために必要な情報は、ここで全て集められた。
デンマーク戦争に勝ち、プロイセンオーストリア連合軍は、デンマークから奪った領土を共同管理化に置くことを決める。同時に、プロイセン側は、内密に進めていたオーストリア軍の分析を行い、ひとつの結論を出す。
「勝てる」と。



かくして、ビスマルクの周到な準備の下に、いわゆる「普墺戦争」が始まる。
ドイツ地域の中でも、オーストリアに味方するものが多かったが、ビスマルクは構わずに開戦。
そして序盤で圧勝を収める。
オーストリア軍は未だに銃剣突撃の時代だったが、対するプロイセン軍は、数年前から着々と進めていたビスマルクの軍拡政策により、世界初の軍用ライフル実用化*1や、速射能力と射程距離に優れる鋼鉄製後装式大砲の実用化などで軍備を刷新していた。オーストリア軍は火力で既に大きく水をあけられ、しかも戦略を何年もかけて検討していた準備万端のプロイセン参謀本部の手際にも対抗できず、戦う前から勝負は決まっていたようなものだった。



ビスマルクの凄みは、むしろ勝ってから先の戦後処理に現れてくる。
彼は、勝った以上、オーストリアに厳しい条件を出せるはずだったが、それをしなかった。直接の対立の原因となった、デンマークから奪ったばかりの土地をプロイセンが領有することにしたり、フランクフルトなどの諸都市の領有権を得たりしたが、当時の戦後処理の常識だった莫大な戦費の要求などはせず、オーストリアから決定的な恨みを買わないよう腐心した。
ビスマルクにとって、オーストリアは敵ではない。ドイツが統一する過程で、余計な口さえ出さずにいてくれさえすれば、平和に共存することが充分可能な国だったし、であれば無理に敵に回す必要はない。
先は長いのだ。



オーストリアがぼこぼこにやられて焦ったのが、フランスのナポレオン三世だった。
フランスにとって、強大な隣国が登場するのは迷惑以外の何物でもない。プロイセンオーストリアに勝ちすぎることは、ナポレオン三世にとって都合が悪かった。
そのため、彼は戦争の後期になると、介入することになる。ひとつにはプロイセンが勝ちすぎないようにするため、ひとつにはオーストリアを牽制しイタリア半島内の領土を放棄させるため。ただし、彼は逡巡し、少しもそれらしい行動を起こすことができず、実に中途半端に一個軍団を動かしたに過ぎない。
結果としてプロイセンオーストリアに決定的なダメージを与えることなく戦争を終え、ナポレオン三世の目的は達成されたかに見えるが、もちろんこれは錯覚であり、そもそもビスマルクにはオーストリアを必要以上に叩く気がなかった。
オーストリアとの戦争で国力を削ぐようなことをする気がなかったのだ。
彼の目標はあくまでドイツ統一であり、そのための最大の敵はフランス。
ビスマルクにしてみれば、この時期にフランスと本気で戦う気はなく、介入してきても「好きにしろよ」という心境だっただろう。「どうせもう終わるから、心配すんな」というところだ。



ビスマルクは、この戦勝を利用して、ドイツ北部の諸国を糾合して「北ドイツ連邦」を作る。きたるべき統一ドイツ誕生への布石である。
ナポレオン三世はもちろんこれを阻止しなければならなかったから、様々な手を打ってくる。
プロイセンとフランスの関係は、もともと良くは無かったが、さらに悪化して行く。
ビスマルクはこの間、参謀本部と外務省などを使って、徹底的な対フランス戦略構築を行っている。参謀総長モルトケが提唱する分散進撃戦略、つまり兵力を効率よく展開し火力と包囲戦術により敵に大打撃を与えるという戦略を軸に、着々と戦備が整えられていった。



ついにフランスとプロイセンが戦争状態に入ったのは、電報がきっかけだった。
スペインの王位が空く、という事態がたまたま起きた。
そのとき、プロイセン国王が一族の者をその王位につけるべく運動したりしたのだが、フランスは当然それを邪魔しようとした。フランス大使は、プロイセン国王に会ってスペイン王位を諦めさせようとし、国王側はそれを断った。
挑発的なフランス外交筋に対し、国王は怒らず、事の次第を宰相ビスマルクに伝える。
ビスマルクはこの好機を逃さなかった。
ビスマルクは一本の電報をメディアに流すという、それまで誰も考え付かなかった方法でフランスを宣戦布告にまで追い込んでしまう。
「エムス電報」として世界史に名を残すこの電報は、国王が礼儀正しくかつ忍耐強く大使に応対した、という事実をわざと隠蔽し、フランス人が読んだら「プロイセンはわが国をなめているのか」と思い込むこと間違い無しという電報だった。
ビスマルクの思惑通り、フランス人社会は激高した。
侮辱には戦勝を持って報いるべし。
フランス国民の要求に、ナポレオン三世は速やかに応じた。



そして速やかに惨敗を喫した。


以下、次項。

*1:それまでは銃の内部に線条=ライフリングが施されていなかった。ライフリングにより銃の性能は一気に跳ね上がり、火縄銃に毛が生えたような既存の銃では太刀打ちできなくなっていった。日本の幕末維新期、戊辰戦争でも、ライフルを持っていなかった幕兵とライフル武装の新政府軍との差が戦況を大きく左右した。