鉄血宰相その1

ビスマルク




オットー・フォン・ビスマルク、という政治家のあだなが、タイトルの「鉄血宰相」。
お気に入りの物を書いていくという宣言のもと、さて、歴史上の人物なら誰を書こうかな、と考えた。
浮かんできた人々のうち、ローマ皇帝ティベリウスは既に書いた*1し、頼朝についても多少尻切れトンボの感はあったが書いた。大久保利通についてはいずれ書くかもしれないが、今書くという気分ではない。
他にも色々と浮かんできた中で、あえてビスマルクを書こうと思ったのは、たまたま見ていたウィキペディアで、9月22日がビスマルクプロイセン首相就任の日だったことを知ったからだ。



なぜ彼がお気に入りかというと、彼が歴史上稀に見る現実主義者だからだ。
彼は常に冷静に世界を見つめ、一切の幻想を排除したところから政策を立てた。正義の幻想や悪への恐怖より、秩序が乱れることから起こり得るあらゆる災厄や、秩序の維持の行き過ぎによって起こり得るあらゆる災厄を忌避した。つまり、彼が責任を持つべきドイツの安定のためには、一切の正義や悪の観念を顧慮しなかった。
そして、その結果として、ドイツに限らず、全ヨーロッパの安定を維持してのけたのだ。事実、彼が引退したとたんにドイツはたががゆるみ、ヨーロッパは第一次世界大戦への道をまっしぐらに突っ走っていくことになる。
理想主義から戦争を起こしたり、幻想的なまでの悪への忌避感から戦争を起こすばかげた国家が覇権を握る時代、このような政治家に対する憧れを持つことは、あるいは避けられないことなのではないかと思ったりもする。



古代ローマ崩壊以降のヨーロッパ世界で、最初に国家というものの形を近代的に捉え、外交を行った政治家が誰かといえば、フランスのリシュリューだろう。「三銃士」で大ボスとして出てくる、あのリシュリュー枢機卿だ。
彼は、「国家は国益のために動く」という、現代の人間にとっては当たり前の概念を、初めて国際政治の中に放り込んだ。
それまでは、宗教や権威が国家を動かしていると考えられていたし、それが国家の正当性であると考えられていた。リシュリューはそれを笑い飛ばし、「国家理性」という概念を持ち込んだ。国家を至上の価値とし、すべては国家の維持・安定に供するために存在するという考え方だ。国家とは、その安定や強化を目的とするものであり、教会や神聖ローマ皇帝の権威を守るためにあるのではない、と言い換えてもいい。



リシュリューが歴史から退場すると、後には強大なフランス王国が残された*2。その後フランスは革命が起きたり内乱が起きたりで大変な時代を過ごすが、その力の強大さは維持され、やがてナポレオンが登場する。
ナポレオンはヨーロッパ全土をフランスの統治下に置く大帝国を志向したが、事破れ、皇帝の地位を失うことになる。
その後のヨーロッパの体制のことを、ナポレオン以後の世界を話し合うために開かれた会議の開催地の名を取ってウィーン体制と呼ぶ。
ウィーン体制は、別名「バランス・オブ・パワー」ともいう。列強による勢力均衡状態を維持することで、緊張のある平和を保とうという考え方だ。
舵取り役はその時々で違ったが、ドイツ帝国成立以前の最大の功労者は「会議を躍らせた男」オーストリア外相メッテルニヒと、大陸に領土野心を持たないイギリスだった。
この体制は、たとえば現代のアメリカ人などは完全否定してしまう場合も多く、左派史観の輩からも反動政治だと揶揄されることが多いが、クリミア戦争を挟んでなんと1世紀もの間、おおまかには平和を維持した。あまりに上手くできていたため、この体制を崩すような国家が現れなかったからだ、と、現代アメリカを代表する政治学ヘンリー・キッシンジャー*3が述べていた。



そのウィーン体制が崩れ始めたとき、バランス・オブ・パワーを再建し、ヨーロッパに秩序ある平和をもたらしたのが、鉄血宰相ビスマルクだった。
彼は正義の味方でも平和の使徒でもなく、ただドイツという国についてのみ考え続け、実行し続けた男。間違っても世界平和のために戦った闘士と考えてはいけないが、結果としてはそうなってしまった。



彼が登場する以前、まだ、今日見るようなドイツという国は存在していない。単に地域名としてのドイツがあるだけで、神聖ローマ帝国という連合国家が実質を失って以後、小国が乱立する地域になってしまっていた。
当然、力はない。ただ、潜在的な力はどの国も警戒感を持たざるを得ないものがあった。
隣国のフランスなどは特に警戒感が強く、リシュリューの外交もドイツという国を決してまとまりのあるものにしないことに重点が置かれていた。リシュリュー以後の政治家もそうだ。
ビスマルクはそんなドイツの、プロイセンという国の下級貴族(ユンカー)に生まれた。プロイセンは小国ばかりのドイツ諸邦の中では大きな力を持つ国だった。「公国」などが乱立する中で、プロイセンは「王国」でもあった。格が上だったということだが、このあたりの事情は少々込み入っていて、詳しく書くと一日分を消費してしまうから措く。
ともかく、プロイセンのユンカー出身の彼は、大学まで行って学んだ後、官吏になったり実家を継いだりしていたが、30代になるとプロイセン国会の議員になり、政界に足を踏み入れる。
彼はすぐに頭角を現し、プロイセンを代表する政治家へと育っていく。とくに、フランスやロシアに大使として赴いた経験が彼を成長させた。
彼は、プロイセンの国王が代替わりすると、首相兼外相に抜擢される。そこで早速ぶち当たった問題が、議会による軍拡法案の否決問題だった。



当時のプロイセンは、ドイツ地域の小国が集まって作っていたドイツ連邦という緩やかな連合体の盟主的存在として、ドイツ地域の統一を悲願としていた。ドイツは統一されなければ決して世界の中で生き残って行くことはできない、という考え方だ。
だが、他のヨーロッパ諸国は強大な統一ドイツの誕生など望んではいなかったし、プロイセンがもし統一という動きに出るのならば実力を持って阻止する、という国もいくつか存在した。
それらは、ナポレオン以後のウィーン体制が作り出したものとも言える。主導的に動いたオーストリア外相メッテルニヒは、同じドイツ語圏の国家であるオーストリアこそがゲルマン民族の宗主であり、ドイツ地域の統一国家が格上になることはあってはならない、と考えていた。だから、強大なドイツ国家が生まれることなど望まず、小国乱立が維持されるような体制を成立させてしまっていた。
だが時代は変わり、人も変わった。
もはやウィーン体制は揺らいでいたし、科学技術と産業社会の振興は留め様もない奔流となっていた。
ドイツ地域に、三世代にわたる混乱と混迷をもたらしてきた統一の問題は、もはやだらたらと続けていられる余裕など許されない時期に来ていた、と、少なくともビスマルクは思っただろう。



ビスマルクは議会で、後世有名になる演説をした。
「現在の大問題(ドイツ統一)は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決されるものである」
彼が鉄血宰相とのあだ名を奉られるのは、この演説のおかげだ。
彼は議会を軽視し、国王の庇護のもと独裁的に政策を進めて行くが、その発端となったこの演説で議会は軍拡予算案を可決、ドイツ統一への道を切り開く決断をすることになる。



ちょっと長くなりそうなので、以下、次項。

*1:ただし別のブログで。

*2:というより、フランスの中欧における周辺国家が細分されてしまい、相対的にフランスが強大になったといった方が正確かもしれない。

*3:国務長官も務めていた。