初代高橋竹山

kotosys2005-10-16




特に三味線などの和楽器に興味があるわけでも、民謡を聞く趣味があるわけでも、身近にそういった嗜好を持っている人間がいるわけでもないのだが、津軽三味線奏者の初代高橋竹山の音だけは、好んで聞く。



きっかけは、いつだったか、深夜、つけっぱなしにしていたNHKで彼のドキュメントを再放送していたのを偶然見たことだった。
当時の私はまだクラシックすらまともに聞いてはいなかった頃で、お世辞にも耳が肥えているとはいいがたかった。好んで聞くものといえばテクノ系の音楽ばかりで、聞く音楽の範囲もずいぶん狭かった。
亡くなったのが1998年だから、その頃はまだ存命だったはずだが、映像は古かった。昭和50年代に放映されたものではなかったろうか。白黒の映像まで混じっていた。
確かコタツに入っていたから、季節は冬。私は地元の山形県にいたから、外は雪景色だったかもしれない。あるいはその時も強い風とともに雪が吹き付けていただろうか。
さほど大きくもないブラウン管の中で、右頬に大きなほくろをつけた巌のような顔の大柄な老人が、やけに太い竿の三味線をかき鳴らしていた。
その時に私が何をしていたのか記憶にはないが、何気なく聞き流しているうちに耳が音を捉え、画面に目が動き、やがて心ごと三味線の奏でる音と竹山の姿とに魅入られていた。



当時は引きこもりの真っ最中であり、今のようにネットなどというものはないから、私にはその音を手に入れる手段が無かった。無いままに時は過ぎ、上京して専門学校に入り、就職した。いつか、高橋竹山の音も忘れ、その衝撃も遠くなり、クラシックや現代音楽を聴くようになり音楽の素養が増えていっても、竹山のことを思い出すことはなくなっていた。
たまに思い出すのは、若手の津軽三味線奏者がテレビに出てきて弾いているのを見る時で、「あのときのような衝撃は感じない」という程度のもの。それがなぜかは考えなかったし、少し考えることがあっても、あの当時はまだ耳が肥えていなかったし、簡単なことで衝撃を受ける年頃だったのかもしれないし、と軽く流してしまっていた。



実は、名前だけは幼い頃から知っていた。
伊奈かっぺい、という人がいる。青森の放送会社に勤務する傍ら、詩人、歌手、イラストレーターなどとしても活動し、現在もその活動を続けている。
この伊奈かっぺい氏、津軽弁などを武器に笑いが取れる講演をしたり、詩を書いたりしているのだが、それを吹き込んだテープを持っている友人がいた。借りて聞くと、これが面白く、父なども一緒になって聞いては大笑いしていた。小学生の頃の話だ。
そのネタの中に、高橋竹山の話があった。地元の有名人ということでネタになったのだろうが、残念ながらそのネタの内容は覚えていない。ただ、「たかはしちくじゃんでごじぇえます」という物マネをしていて、それだけが変に耳に残っていた。



最近になって、高橋竹山と再会した。
きっかけは些細なことで、要はネットめぐりをしているうちに偶然その名前を見つけ、評伝のようなものが書かれているページを見て、以前感じた衝撃を生々しく思い出したというものだったが、早速取り寄せることにした。
届いたDVDはNHKの番組がそのまま収録されているものだった。私が見たものとは違っていると思うが、関係ない話だった。
聞いて、見て、戦慄した。再び圧倒された。
自分で楽器を弾けるわけでもなければ、音楽を学んだ経験もない私だが、そのような人間でも戦慄させてしまう何物かが、竹山の音には宿っている。


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高橋竹山の生涯は、調べようと思えば意外に簡単に調べられる。津軽三味線を全国区のものとし、唄いの伴奏楽器に過ぎなかった三味線を独奏楽器として純邦楽でも屈指の存在に高めた最大の功労者、とされているから、それも当然のことかもしれない。
また、彼が艱難辛苦を嘗め尽くした人生を歩んでいたということも、それに寄与している。苦労は買ってでもしろ、という警句など消し飛んでしまうほど、彼の苦労は凄まじいものだったようだ。



幼児期に麻疹(はしか)にかかった彼は、視力を失う。といっても光はある程度感じたようだが、彼が生まれたのは明治末期の津軽。東北の農村部の生活は、現在の都市と地方の差など比較にならないほど都市から隔絶し、まともな医療技術を持った医師など、そういるものではない。麻疹で死ぬなどということは日常茶飯事、彼と同じように光を失う者も珍しくは無かったと、彼自身が語っている。
「たいへんなもんであったな、むかしは。腹三日痛(や)んでコロッと死んでしまう人もいた、あれ、いま思うと盲腸せ、それ。盲腸手術する法わからねえんだもの、なにして眼治せるって。入れ歯する法もこのごろできたんだもの、なしに」
障害者教育が進んだ世の中などはるか先の時代の話で、彼は文字を持たず、学も持たされずに成長する。それでも、もちろん食っていかなければならないから、彼は両親の勧めもあり、三味線を習うことになる。
当時の北東北では、唄会などの芸能が盛んに行われていた。三味線はその唄会の伴奏楽器として欠かせないものだったが、唄い手はまだしも、三味線奏者などというものの地位は無いに等しいものだった。乞食扱いが関の山で、「門付け」という、家々の軒先で三味線を弾いては幾ばくかの米や銭をもらって糊口をしのぐ、という生活を強いられた。



彼はいう。
「門付けして歩いて三味線がうまくなれるもんでねえ。競争相手もなし、だいいち生活のために困って歩いているんだもの、上手も下手もあったもんでねえ」
三味線という楽器は湿気に非常に弱い。木でできた胴に、津軽三味線の場合は犬の皮を張るのだが、この接着剤にでんぷんのりを使うためだ。水が染みてしまえば、簡単にはがれてしまうから、雨に濡らすなど言語道断。時代劇などで、そぼ降る雨の中に三味の音を響かせて一人歩く後姿、などというシーンが出てきたりすることがあるが、実際にそんな事をする馬鹿はいない。
竹山が二十歳過ぎの頃、盛岡で一週間も雨に降られてしまったことがあった。
雨が降っているから門付けなど到底できず、といって当時の竹山青年に金もなく、木賃宿の宿賃も怪しくなってきてしまった。
竹山は困り果てたあげく、吹けもしない尺八をなけなしの金で買い、「門に立って、ただ『なにかくれ』といえば乞食だ。なにも曲にならなくても吹いて音さえ出せば下手でも芸だ」と尺八で門付けに回った。
本当に曲にもならない、音がようやく出る程度のことで門付けに回ったようで、それでも雨降りのおかげで家々には人がこもっている場合が多く、案外稼ぎになったらしい。いつもより商売が良かった、という。「せっぱつまって買った尺八だが、その時は雨降りもいいもんだナと思った」と後にぬけぬけと語るが、少し深読みをすれば、門付けをしている限りはそんな世界でしかない、という事だろう。
上手も下手もあったもんでねえ、である。
その日の糧を得るためにのみ三味線を弾き、尺八を吹く生活。どう手を抜けばいいか、どう弾けば聞き手から金をせびれるか、それが正義という世界である。そこに向上心は生まれない。
「二文三文のジェンコ(銭こ)が欲しいから歩くんだ」



19の時に結婚した妻は唄ができるということで、二人で門付けをしたりもしたようだが、結局生活苦のために早々に別れている。
時代が下って、次第に戦争の陰が日本を覆うようになると、門付け稼業もいよいよ苦しい時代になっていった。
30代も間近になったとき、彼は再婚している。
塗炭の苦しみの中でも、霊能者であり心理カウンセラーでもあるイタコのナヨは、礼として大八車いっぱいの野菜をもらったりして、それなりの稼ぎを持っていたようで、竹山を大いに支えている。
彼は障害者だったから、徴兵されたりすることは無かったにしても、時代が暗すぎた。津軽三味線どころか、浪花節を耳で覚え、満洲に旅一座の三味線方として渡ったこともあったが、その内に戦争が激化して、三味線ではどうにも生活が成り立たなくなってしまった。
当時、まだ三味線はあくまで唄の伴奏楽器である。三味線だけを芸能として聞くという習慣は、無いに等しい。本人の腕も、後に日本中にブームを起こすことになる神技の域には、到底達してはいなかったらしい。
妻ナヨの強い勧めもあり、彼は手に職をつけるべく盲唖学校に入る。鍼灸マッサージを身につけるための学校だが、あまり成績はいい方ではなかったようだ。学資は妻のナヨがイタコで稼いだ。30代後半という年齢で入学したことから、生徒たちばかりでなく教師たちにも様々に頼られたりもしたようだが、都合6年もいて、結局さほど身にはつかなかったようで、鍼灸師として食っていく事はできなかった。
もちろん、食っていけなかったことが、彼を三味線の名匠にしたのだから、何が幸いするかわからない。



彼は、学は無いが、音に対する向上心は並外れた物を持っていた。ただ、それを表に出すにはまだ時代が熟していなかったというべきだろう。
戦争が終わり、鍼灸師としても食っていけないままにぶらぶらしていた頃、以前からの知り合いで津軽民謡の大家である成田雲竹と再会、彼の伴奏者として三味線を再び弾くようになる。これが重大な転機だった。
成田雲竹は、津軽の古い民謡や自作の唄を唄っていたが、竹山は伴奏者として三味線の手をつけたり、編曲のようなこともするようになった。
このときになってもまだまだ三味線弾きは格下もいいところの身分で、師でもある雲竹とはだいぶ収入でも差があり、差別も受けていたようで、この当時のことを彼は時に憤慨するように話していたという。
「ウデコ(唄い手)が十円とすれば三味線弾きが貰うのは三円だ」
そんな中でも、雲竹から「唄い」という物を仕込まれた彼は、津軽民謡の核ともいうべき物を体得し、自らの三味線でそれを表現するようになって行く。また、門付け時代よりはましになった暮らしの中、ようやく自分の三味線を追求して行くだけの余裕が生まれるようにもなった。40も過ぎてからの話である。



50代になったあたりから、単なる民謡の伴奏楽器ではなく、三味線という独自の楽器としての価値がようやく世間に認められるようになっていく。彼ひとりの功績ではないにしても、彼が最大の功績者であったことは異論が無い。
54歳にしてようやく独立した彼は、以後、三味線一本で生きて行くことになる。



彼にはもちろん、三味線弾きとしてのプライドがあっただろう。
日本には、たとえ相手が乞食、ホイトと呼ばれるような人々であっても、一芸を持っていればそれなりに尊敬もするし一目も置くという文化があった。今はどうか疑問であるにしても、だ。
彼は若い頃、門付けをして回ったり三味線方として各地を回っている中で、散々に差別を受け、この世の地獄を見てきたはずだが、その芸については一目置かれているところもあったようだ。でなければ、名人といわれた成田雲竹が声をかけてくることも無かっただろうし、新聞社が主催する大会から招かれて三味線を弾いた、というエピソードも生まれようが無い。
そして、そのプライドは、プロ根性ともいうべきものともつながっている。三味線弾きとして、芸を極めればその芸で食っていけるはずだ、というものだ。
差別され、蔑まれていても、彼の三味線には確かに人々を黙らせてしまう何物かがあった。食べるためにやむなく手に取った三味線だが、「どうでも努力すればいいというものではない」という彼自身の言葉どおり、日々を過ごすために弾く中でも考え、他の音に触れては律儀なほどに研究し、同じ曲を何百回も弾いていく中で音色を磨いていく。
自分を高めて行く、などという、言葉の上っ面に精神性が流れていくような代物ではなく、三味線ひとつで食って行くためにはどうすればいいか、というプロ根性である。いかに飯を食うか、だ。差別されず、三味線で一人の人間として食っていくという、生きるか死ぬかの戦いだ。



津軽三味線だけを収録した史上初のレコードを出したのが、彼が55歳のとき、昭和39年のこと。このレコードが非常に高い評価を受け、日本人は津軽三味線の深遠な音の世界を初めて知ることになった。
民謡の伴奏でない、楽器としての津軽三味線が注目されるようになったのは、この時からである。



津軽三味線は、他の三味線と異なる部分が多い。
まず、皮が犬皮。三味線といえば猫の皮を使うものというイメージがあるが、津軽三味線では「叩き」という、バチを皮にたたきつけるようにして弾く奏法が一般的なため、より丈夫な犬皮を使う。
ギターでいうネックの部分を「棹」というが、津軽三味線は他の三味線より太い「太棹」。
先に日本に伝来していた琵琶にならい、バチを使って弾くようになったのが三味線の特徴だが、津軽三味線では琵琶のバチなどよりもずっと小ぶりな物を使う。
これらの道具立てで、打楽器的な弾き方をして拍子をとり、普通の三味線糸ではすぐに切れてしまうような激しい奏法で音を紡いでいく。
メロディラインを弾いていく他の三味線とは違い、津軽三味線はリズムを基本とする。皮にバチをたたきつけてリズムをとり、細かく装飾音をつけて行くことで音楽を構成していく。
あまり適当なたとえではないかもしれないが、私には、サイモン&ガーファンクルあたりのフォークギターにも共通点があるように思えた。歌声の方にばかり注目がいきがちだが、彼らのギターテクニックはメジャーなフォークソングの中でも秀逸な部類に入る。そして、メロディラインを追うのではなく、神経質なほどリズムに気を配り、我を主張しすぎない装飾音をたくみに表現してくるあたり、どこか津軽三味線に共通点を感じてしまうのだが、これは私の感じすぎかもしれない。



いずれにしろ、竹山の手によって津軽三味線は独奏楽器としての地位を手にした。
そして、そんな中でも、やはり竹山の音は、いわば別格として人々の中に受け入れられていく。
要因のひとつとして、彼の音の紡ぎ方というものもあるだろう。
津軽三味線はその奏法から打楽器的な要素性が強く、かき鳴らす、という響きになる。竹山の音は、それだけではない、琴のような音色を織り交ぜるのが特徴。
津軽という土地が持つ情念、泥臭さのようなものがこもっていない、などという的外れな批判が出てくるほどに、竹山の音には独特な清澄感がある。
構造的に三味線にはギターやヴァイオリンのような共鳴がなく、発音から消え入るように響いていく感覚という物はあまり存在しない。また、早弾きや技巧性ばかりが強調されがちであることからも、音の余韻をたどって楽しむという要素はあまり見られない。
にもかかわらず、竹山の音には確かに余韻があり、響きがある。
彼が作曲した「即興曲岩木」という名曲があるが、バチの柄の部分を使って三つの弦を同時にかき鳴らす場面などは、叩きの音がしないからそれがよくわかる。棹を取る左手で弦を細かく弾き、同時にバチをさらさらと滑らせて響かせるその音は、尋常ではない技巧性と音の広がりを感じさせてくれる。



独奏楽器としての津軽三味線奏者になった彼は、世界中の音を聞いたという。ごく当たり前のクラシックから、フラメンコギター、ゴスペルやブルースまで、ありとあらゆる音楽を聞いては、自分の中の「津軽」の音を研究していく糧にしていたという。
津軽だけしか知らないままでは津軽はわからない。目の見えない彼は、それを「匂い」と表現した。上っ面だけの津軽のイメージではない、泥臭さや陰鬱さ、哀感だけが強調されがちな津軽ではなく、風も吹けば鳥も鳴き、静かに雪を照らす月の夜もある津軽の「匂い」というものを表現すべく、彼は研鑽し研究を重ねた。
塗炭の苦しみや、技巧を追い求める経験だけでは絶対に到達し得ない境地に、竹山は立っている。



77歳の時、彼はアメリカ講演を行った。その際に、ニューヨーク・タイムズが評したという。
「まるで魂の探知器ででもあるかのように、聴衆の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」