科学と懐疑心

現代社会は科学技術により豊かになりましたが、地球環境や核などの問題がでてきています。多くの問題の中で一貫してわれわれは今後どのように科学技術と接していけばいいのでしょうか?


科学技術は、人間がより良く生きていくために生まれたものです。
楽に生きて行くため、と言い換えてもいいでしょう。
その科学技術がかえって人間の首を絞めるような結果を生んでいるのは、作用の大きさにばかり目を向けて反作用の存在に気付かなかった愚かさの結果ともいえますし、あえて反作用に目を向けずに突っ走らせてしまう、経済や政治の要請の結果ともいえます。


幾多の哲学者や科学史家がその問題に取り組んでいますが、社会的コンセンサスを得られるすっきりした結論を提示できた人はいません。
節度を持って付き合う、などという曖昧模糊とした表現くらいしか出てこないのは、科学技術が多岐に渡り、個別論に陥ってしまっているせいでもあるでしょう。


ただ、小難しい理屈ではなく、技術は刃物と同じものである、という程度の認識を誰もが持つことは重要でしょう。
切れれば切れるほど便利だが、その分、使い方を誤れば生まれる被害も大きくなる、どんな技術でも必ずその二面性をはらんでいるのだという、考えてみればごく当然の理解を、経済活動や政治活動のために技術を利用している人々も含めて誰もが持つこと、とりあえずはそこがスタートになるでしょう。
利便性ばかりを訴える商業主義や、安全保障を声高に叫ぶ政治指導層の欺瞞を、一般の市民たちがごく簡単な理屈で懐疑的に見て行くことが必要です。
懐疑こそ科学の出発点でもあるわけですし。


その上で、自分たちにとって便利な技術と、反作用の大きさとのバランスとを、社会全体で監視できる体制を作ること。
技術者たちと一般人とが、互いを理解するために議論する場を作ること。
それができていけば、次第に科学技術との接し方の社会的コンセンサスも生まれてくるでしょう。
と、個人的に期待しています。

時々、熱でも出していたのかと思えるほど、内容があるようで実は無い文章を書くことがある。
これなどはそう。
ベストアンサーに選んでいただいた方には非常に申し訳ないのだが、書いた私自身が、いざ読み返してみると、「だから何がいいてーんだよ」と突っ込みたくなる。
科学技術とどう接していけばいいのか、という問に対し、懐疑心を持て、というだけのことにこれだけの言葉を費やしてしまっているから、焦点がぼけてしまっている。詳しく書けばいいというものでは無い、といういい例だ。
と書きながら、さらに蛇足を加えようというのだから、我ながらいい神経をしている。



科学は懐疑心から生まれる。
まずは常識を疑い、事実の底に秘められた真実、「法則」を見つけ出すのが科学。
技術がもたらす利益に対して、科学的な目をもって検証していく事が大切だ、などということは誰でもわかっていることだが、これも言い換えれば、懐疑心で技術の産物を丸裸になるまで見つめ続けろ、ということ。
科学技術はけっして利益ばかり産むものでは無い、ということを、産業革命以後、人類は学んできた。現在もまだその途中であり、かなり先の未来まで続きそうだ。なんとも情けない話だが。
残念ながらリスクの無い科学技術というものは存在しない。何かしらの反作用が合って初めて作用が生まれる、という初歩の力学が示すとおりだ。作用と反作用はベクトルの向きが違っているだけで、切り離すことができないもの。どちらが先というものでもない。
商業主義や政治は容易に反作用を切り捨てた科学技術の姿を見せようとするが、見る側は常に懐疑心を持っていないと、これまた容易に見逃してしまい、後で泣く事になる。



といって、残念ながら、今さら科学技術を捨てて生きることは不可能だ。人間には社会が必要で、現代の社会は科学技術を基盤としている。無くなったら、人間は生存すらおぼつかない。
昔の人間は科学技術無しで生きていたじゃないか、という意見もあるだろうが、現代の人口を支えるだけの資源は、科学技術無しでは決して生まれてこないものだ。人口が爆発している後進国も、その原因は先進国から流れ込む科学技術にある。
灌漑技術や農薬の発達、作物の品種改良や大型土木機械の普及、化石燃料の使用によるエネルギー革命、これらは既に前世紀前半には存在していたもので、それが半世紀も続けば人類は何倍にも増えてしまう。
増えた人口を維持するために環境に与える負荷は、既に地球全体の規模で明確に害を与えるレベルに達し、しかも引き返すことが出来そうにない。
それでも人類は、今の自分たちを幸せにするために努力し、その努力と引き換えにさらに環境を痛めつけ、あるいは戦争という形でお互いを痛めつけあっている。
大きな戦争が無いから目立たないが、たとえばアフリカの紛争地域では、現在イスラエルレバノンで起きている紛争の数千倍の規模で死者が出続けている。
科学技術を倫理の面にまで高めて考えて行く力が付く前に科学技術を与えられた悲劇、ともいえる。



懐疑心が無いところ、思考停止があるのみである。
技術力を持った集団が思考停止に陥ったときほど恐ろしいものは、ちょっと考え付かない。
自分たちが扱うものの危険性に対する認識がある時点から消え、思考停止に陥り、ただ日々の操業を大過なく過ごせばそれでいい、そう考えるようになった先に起きたのはメルトダウンだった、というのがチェルノブイリ
自分たちが生み出すものが確実に利益になり、しかも社会に有益であるという事実に安住し、その反作用として生まれ出る廃物に目を向けなくなったがゆえに起こるのが公害。
いまや資源枯渇の問題よりも二酸化炭素排出源としての問題の方が大きくなってしまった化石燃料
宗教の名の下に思考停止こそ正義とされた技術者集団が、倫理の彼岸を歩んだ末に起きたサリン事件。
懐疑心という名の良心が捨てられると、思考停止に陥った技術者集団は、社会を破滅に追い込むようなことを容易にやってのけるのだ。



何度でもいうが、科学とは懐疑心である。
扱うものも、利益に供する者も、懐疑心だけは決して失ってはならない。