幼い命の拠り所

Firefoxユーザーなのだが、glowyblue ver.2.3.2 というテーマがツボった。しばらくこれでいこうと思っている。
どうでもいいが、日本語化するエクステンションがどうとかいう前に、テーマのページを日本語化してくれ。わかんないっすよ。

消費税を上げるとかいう議論の前に、当たらない天気予報を行う組織や、家庭内暴力を見抜けない児童相談所など、無用の組織を解体解雇すべきなのではないですか?

結果を出せない組織は、民営化の上解体すべきではないですか。

あなたが例として挙げている組織は、
結果を出せない組織、ではなく、
結果が出せなかったときに目立ってしまっている組織です。
天気予報がどれほどの経済効果を生んでいるか、
また児童相談所の存在がどれだけ幼い命を救っているか、
マスコミがその部分を報道しないからといって、無視していいものではありません。
他にいくらでも指弾されるべき無用の組織があります。


例の挙げ方には賛同できませんが、
無用の組織を解体すべきというのは同感です。
ただ、なんでもかんでも民営化すればいいというものではありません。
民営化に結び付けて行く中でかかるコストを考えたら、
手っ取り早く潰してしまった方がいい場合もありますし、
抱えている借金を処理するために結局税金が投入される事だって考えられますから。
また、消費税増税論と行政改革論とは、切り離して考えるべきです。
税金を上げるとか上げないとかいう以前に、無駄な税金の出先を潰していくこと、
コストの概念を行政組織にしっかり植えつけて行くことは、
税制論議の一部でしかない消費税増税論よりもよほど重要で、
しかも急を要する議論では無いかと思います。


ちなみに私は消費税増税は反対です。


この手の議論を見ていると、論者の頭からごっそり抜け落ちている部分があることに気付く。
気付いていない人が多いのだろうか。それとも、気付いていてもあえて触れないでいるのだろうか。
実は、他の回答の中に、

私は、消費税を無駄遣いにして借金をした政治家たちの行為が許せません。
おそらく、これさえなかったら消費税を上げる必要は一切なかったと思います。
だから消費税を上げるとか考える前に、まずは政治家たちが自分で消費税を無駄遣いにした結果の借金をどうにかして無くすべきだと思います。
(抜粋)

というものがあって、それを見て考えてしまったのだが。


この回答者は多分そこまで考えて書いてはいないだろうし、これから私が書こうとしている内容など百も承知かもしれないので、この方の名誉のために付言しておくと、私がこれから書く内容は、別の議論を見ていて感じたことであり、この回答はあくまで書くきっかけに過ぎない。


確かに政治家たちはそうすべきだろう。借金を返すべきだし、その道を作るべきだ。そうするべく頑張っているのが近年の行政改革であり、歳出入の見直し。
だが、この手の議論をしている際に、一切見えてこない言葉があって気になっている。



「その政治家を選んだのは有権者だ」



絶対に有権者は忘れてはならない。
政治家がどうこうと文句をいうのは自由だし、政治家を断罪するのも自由だが、最終的な責任は政治家が負うものではない。
憲法の規定を思い出して欲しい。日本の主権者は誰であるか。
政治家? 首相? 天皇
いうまでもなく国民であり、主権者とは国に対し責任を持つ者のことでもある。
国民が各種の義務を果たすことと各種の権利を享受することで成り立っているのが国家だが、国民全てが三権に関与していたら非効率甚だしい、ということで専門家を置いているのがこの国のシステムである。そしてその専門家集団を選ぶ権利が、国民にはある。
政治家を選ぶ権利は国民に保障された権利であり、当然ながらその代償として、選んだ責任を果たす義務がある。
政治家たちが決定したことに従う義務だ。


その覚悟があって投票し、政治家を選んでいるのなら、誇りを持って政治家を断罪すればいい。言論によって政治家の姿勢を正すのも民主主義社会の市民の神聖な義務だ。
「自分は投票していないから選んでない、そんな責任は負えない」
というのは逃げである。はっきりというが、卑怯以外の何物でもない。政治に文句をいう資格などありはしない。
「過去の政治家たちの過ちまで現在の我々が負うわけにはいかない」
というのも逃げである。
過去の政治家たちだってさらにその過去の政治家たちの遺産を継いでやってきているのだし、当然有権者もさらに過去の政治家たちが決定してきた歴史を踏まえて政治家たちを選んできた。今を生きる我々だけが不条理な過去を押し付けられているわけではない。
現実を現実として認めた上で、ではどうしたらいいのか、どういう理想を掲げればいいのか、それを考え、自分たちが望む未来に一番近い理想像を持っている政治家を選ぶのが、市民の権利であり義務。
そんな当たり前のことに気付いていないとしたら、市民社会の一員を名乗る資格はない。ただそこにいるだけの置物だ。



政治家を擁護する気はない。だが、政治家も市民の一員であるということを忘れてはいけない。
ダメな政治家がいたら落とせばいいのだし、いい政治家がいないというのであればいい政治家を生み出せばいい。
何も今いる政治家たちだけで政治をやる必要などない。政治家も市民の一員なのだから、市民も政治家になれる。当たり前だ。
現行の政党に支持したいところが無い、というのなら、新党を起こせばいい。それができないなら、ベストはなくともベターならあるという考え方で選んで行くほかない。
いずれにしろ、投票をしないなどというのは政治に関して文句をいう権利を一切放棄する行為であることは間違いない。
政治家を生み出すのも育てるのも、腐らせるのも堕落させるのも、市民の責任である。その程度の覚悟も決めずに、よく政治家に自分たちの未来を託せるものだと、投票に行かないと断言したり、行くだけ無駄でしょと斜に構えてみたりする人間のアホ面を見るたびに、感心すらする。



実はここまでは前置き。
本当は児童相談所について書きたかった。



社会には、どうしたって利益があがりようも無い、だが必要というものがある。
そういう物を運営して行くために、税金を取って運営資金を作り、役人がついて運用して行く。
インフラ整備もそうだし、治安維持もそう。経済活動の監督監視も大事なもの。
政治家に託しているのはこれらの運用をどうすればいいかという方針の部分なのだが、それはまあ措いておく。



そういったものの中に児童相談所があったり、各種教育機関があるわけだが、特に児童相談所などの場合、本来地域社会が行うべきところを肩代わりしている組織なのではなかったか。
子供を保護するのは周囲の大人の当然の役目だが、それは理想論。子供一人保護するのにどれだけ負担がかかるか、またその保護者と渡り合っていくのがどれほど大変か、さほど考えなくとも想像がつく。
まして地域社会のつながりが希薄化している中で、周囲の支えも期待できないのに子供を保護しようとする酔狂者は、かえって地域社会のつまはじきになりかねない。何か下心や思惑があるのではないか、と、自分が無責任だから他人のことも無責任だと考える恥知らずが、この世には溢れているからだ。
私だって、突然近所の子供が助けを求めてきたとして、それを保護できる力はない。経済的にもないし、精神的にもないし、住居的にも無理がある。
そうなれば、児童相談所に頼る以外にない。



ここで考えたいのは、じゃあ地域社会はそれで安心してていいのかということだ。
任せる場所があれば全部任せる、というのは、無責任に過ぎやしないか、ということだ。
確かに税金を払って維持運営を任せているのだから、義務は果たしている。
だが、人間のやることである。児童相談所の仕事も、児童虐待も。
児童相談所がどんなに頑張ったって、子供の普段の様子を観察しようとしたら、近所の人々の目に勝つことはできない。近所の目があれば、の話だが。
また、親の監視もそうだ。
監視というと言葉が悪すぎるが、親だって人間だし、近所の歴戦のおばちゃんたちに比べれば、若い父母などはガキでしかなく、子供が子供を育てているように見えるだろう。
少なくとも昔はそうだったから、よく近所のおばちゃんやおっちゃんたちが若い親を叱ったり励ましたりする光景が見られた。
私が幼少期を過ごしたアパートは若い親が多かったのだが、中学生くらいの子供を持つ親たちが、保育園に通う子供をもてあます親を支えたり叱ったりする光景を日常的に見てきた。
20年前の田舎ではそういう光景も実際に見られていたということだ。



個人主義が広がっているから、とか、家庭それぞれの教育論によって子供を育てる風潮があるとか、そんなエセ文化人が金のために書いたり言ったりしている言葉に意味があるのか。
子供は社会の宝ではなかったのか。
親だって成長しなければ立派な親になどなれないのに、親を育てる仕組みが社会にあるのだろうか。
子供が子供を育てているとしか見えない家庭を放置するのが、個の尊重なのだろうか。
疑問は次々湧いてくるが、結論はない。
私には子供がいないし、家庭もない。そういう人間が何をいっても空論でしかないのだろう。
そう考えるとどうにもやりきれなくなってくる。



いずれにしろ、児童相談所がやれることには、法的にも、マンパワー的にも、人間の感情の部分でも、限界がある。
そんな事は誰にだってわかる事のはずで、ではその限界を補い、児童相談所にしかやれない仕事をサポートすることで地域社会の子供を守っていくという仕組みは、現代の日本では作れないのだろうか。
肉体的な暴力だけが子供への虐待ではない。無関心、という名の虐待(ネグレクト)だってある。
その全てを社会がフォローするのは無理だし、最後は親子関係の中で解決していくしかないことでもあるが、そう考えて干渉を放棄したら、孤立した子供はどこへ行けばいいのだろう。
泣くことすら許されない子供たちは、児童相談所が自分を見つけてくれるまで、希望の光も見えない闇の中でじっと膝を抱えているしかないのだろうか。
親という、子供にとっては世界そのものである存在が自分を否定している、その闇の中で。