英雄引退

勤務表上では今週末の日程は完全オフ、奇跡の3連休のはずなのだが、昨日も今日もフルで仕事、祝日の明日も仕事、代休無しという不思議な事態に陥っている。もう少し社員をいたわってくれても良さそうなものだが、言っても仕方が無いので粛々と業務に励むことにする。



ちょっと古い話題だが、一応ファンなので軽く触れておくだけ。



これまでのF1史上、そして将来的にもたぶん不世出のチャンピオン・ドライバー、M.シューマッハが引退する。
とにかく彼の記録は破格であり、これを破るドライバーが出てくることを期待するのは間違っている気がする。今後どのようにF1というレース・シリーズが進んでいくかはわからないが、いくらドライバーデビューの若年化が進んで長期間の活躍も可能になっているとはいえ、この男のように10年以上にわたってチャンピオン争いを主導していける力を持った人間が、そうごろごろ出てくるとは思えない。
ドライバーとしての速さ、という点で、彼が天才「的」であることは間違いないが、天才と呼んでいいかどうかは議論が分かれる。というのも、カーレースは、特にF1は車の出来不出来が結果に直結するからだ。ドライバーがどんなに良くても、20年前ならともかく、技術的に非常にシビアな現代のF1では、車がクソでは勝てるわけがない。まぐれの1勝2勝でシーズンを制することが可能なほど甘い世界ではない。
ただ、このシューマッハという偉材は、レースに勝つために生まれたといってもいいほど、総合力で抜きん出ている。
レースは、機械としての車が力を持ち、車を作る人間たちが力を持ち、それを支える財政力があり、かつ最後にそれを操る人間が力を持っていなければ、よほどのつきが無い限り勝つことはできない。
シューマッハは、機械としての車を作るためにドライバーが出来る最大限の力を発揮するし、車を作る人間たちのやる気を出させるための気配りではF1界随一といわれているし、ドイツ人ドライバーの英雄としてスポンサーを引きつける力を持っているし、ドライビング能力にはデビュー時から定評がある。
サイボーグと呼ばれるほど、トレーニングによって作り上げられた身体能力は、他のドライバーたちの水準を超えている。その体力を基盤に、レース中に集中力を切らすことなく、要所を締めるドライビングでサーキットを支配するその力は、人間離れしてさえ見えた。
勝利への執念の強さは、彼の履歴を見てみれば一目瞭然。チャンピオン争いがかかっている一戦で、強引きわまりないドライビングでライバルに激突し、チャンピオン剥奪の憂き目にあったことするある。
そういった姿勢が傲慢不遜で危険な人物との評判につながり、悪役のイメージが定着した時期もあった。今でもそう見る人間は多いらしい。



私は初めからシューマッハ好きを公言していたが、これはどうも私の性格らしい。
たとえが相撲だと不適当な気もするが、たとえば、私は幕内昇進のころから朝青龍好きを公言していて、今でも変わらない。それは、朝青龍が、単に相撲に強さにとどまらない、勝負の場に立ったときの人間的な強さを持っているように見えるからだ。以前も書いたが、土俵上で見せる朝青龍のガン飛ばしがお気に入りというあたりに、私の好みが表れている。
なにも朝青龍と同じタイプの人間だなどという気は無いが、シューマッハからも同様の強さが感じられる。
速いドライバーならいくらでもいる。
当たり前である。どれだけのドライバーが、F1という世界最高の舞台に立つために努力し、報われずに消えていることか。それらを蹴落として勝ちあがってきたドライバーだけが(間違って入ってくる者も年に一人二人いるが)走っているのだから、トップドライバーと呼ばれる人種が速くない訳が無い。
最近でいえば、ライコネンは間違いなく速い。アロンソも速いし、なんだかんだいって速さだけならモントーヤだって速い。なかなか報われないが、バトンも速い。琢磨の速さは私は少々疑問符をつけているのだが、トップの一団から比べればという話で、トップカテゴリーで走る能力は間違いなく備えている。
少しさかのぼれば、シューマッハの唯一のライバルだったといえるミカ・ハッキネンも、乗れているときの速さは異常なほどだった。今のライコネンアロンソが想像の範囲内での速さと感じられるのに対し、年に数度だが、ハッキネンは車のスペックを越えているのではないかと思える恐ろしい速さを見せた。
だが、彼らにはシューマッハから感じられる強さが感じられない。アロンソには強さが垣間見えるが、シューマッハの前には完全にかすむ程度のものだ。なぜなら、シューマッハの強さはレース以外でも見られるのに対し、アロンソの強さは調子良く走っている時にしか感じられないからだ。
レース以外で感じる強さとは、たとえばプレシーズンでのテスト走行時の、シューマッハの姿勢だ。
車は、当たり前だがタイヤを履いている。地面に接しているのはタイヤだけで、車が加速しようがブレーキをかけようが、力はすべてタイヤを通じて路面に伝えられ、車を支配する。だからタイヤの性能というものは、他の要素を圧するほどに大きい。
フェラーリと組んでいるブリヂストンのスタッフが口をそろえていうのは、タイヤに対するシューマッハのこだわりの強さ、理解の深さ、開発への執念だ。彼ほどタイヤを知っているドライバーはいない、彼ほどタイヤのために力を注ぐドライバーはいない、彼ほどタイヤスタッフに語りかけてくるドライバーはいない、誰もがそう口をそろえる。
車とはタイヤだけで走るわけではないから、それ以外のスタッフがチームには腐るほどいるわけだが、これらスタッフたちもシューマッハに対し忠誠心といってもいいのではないかと思えるほどの好意を示す。
これは、彼が気配りに長けているからでもあるだろうが、それ以上に、レースに対する情熱や取り組み、レースで見せる速さや出してくる結果が、スタッフたちを鼓舞するからだろう。人間性だけで人が付いてくるような世界ではない。
シューマッハの強さとは、レース中だけでは無い、その準備期間や終了後の時間までも含めた、トータルでの総合力の高さである。とにかく、飛びぬけて、強い。



シューマッハのレースは時に汚い。
チームメイトを平気で犠牲にするし、ライバルからポイントを奪うためなら手段を選ばないこともある。そういった負の面を否定するつもりはさらさら無い。非難すべき部分は大いに非難しなければ、レースが死ぬ。
逆に、彼が人間的でないという見方を否定するために、たとえばセナのポールポジション記録を塗り替えたときに涙を見せたことなどを、取り立てて持ち出す気にもならない。人間的でない人間が、多くの人間と関わりを持っていかなければならないF1ドライバーを続けていけるはずがなく、まして10年以上トップドライバーとして君臨できるはずがない。
行為については非難もするし、弁護する気も無いが、彼のドライバーとしての不世出の強さだけは、どうにも愛してやまない私がいる。
シューマッハは意外にオーバーテイクが少ない、実はそれほど速くないんじゃないの」
というコメントを見たり聞いたりしても、それと強さとは別次元の問題だと思うから、「ああ、そうかもねえ」とうなずいてしまうだけ。そんなものはレース中の状況でいくらでも答えが変わるものでもある。



軽く触れるだけのつもりが長くなってしまったが、シューマッハのライバルは誰か、またはいたのかどうか、というよくある質問には、私はハッキネンだけだったと答えたい。
アロンソライコネンには申し訳ないが、彼らにまだまだシューマッハとタメをはるだけの力は無い。彼の強さに対抗するためには、上でも書いたが、ハッキネンのような、シューマッハに「今日の彼は手が付けられなかった」と言わしめるような、ちょっとありえない速さを見せ付けるという難事がどうしても必要になるのだが、彼らにはまだそういった限界を超えているかのような速さが見られない。まして、強さは無い。
懐古主義のように聞こえるかもしれないが、マクラーレンが絶対的な速さを見せ付けたシーズンの二人の対決は、見ていてわくわくした。速さと強さの対決に、私は問答無用で惹き付けられた。日本でのF1人気が低迷していた時期のほうが、どうも面白かった気がする。
ハッキネン引退後のフェラーリ全盛期はさすがにつまらなかったが。