頼朝その2 氏も育ちも特別な人


 頼朝の特異性は、まず、その出自と育ち方にある。
 彼の家は、いわずとしれた源氏の棟梁。
 もう少し詳しくいうと、彼が生まれた源家とは、天皇の子供が賜姓、つまり皇室から離れて一貴族となったときに生まれた。天皇の子供といえど、母親の身分が低くて皇位継承の目も無く、かといって新たに天皇家の分家を作っても仕方の無い話で、たまに一介の貴族の身分を与えて皇室から出してしまうことがあった。そういう成り立ちの家。
 これは、実は平氏にも言えること。彼ら、武士団の発祥は、賜姓を受けて臣籍降下したもと皇族の一部が、地方の農場主たちの上に乗っかるようにしてその棟梁になったところから始まる。
 源、平という姓は、臣籍降下の際に天皇から与えられた姓で、何人もの親王がこの姓を与えられている。一口に源氏平氏といっても、じつは発祥は違ったりする。だから、どの天皇の時代に臣籍降下したかをはっきりさせるために、天皇のおくり名を姓の前につけたりする。清和源氏桓武平氏、など。
 発祥が異なる源氏、平氏もあれば、同じ発祥の源氏でも分家をしてしまえば家は増える。
 頼朝が生まれた家は、たくさんある源氏の中でも、清和源氏と呼ばれる流れの中にあった。
 清和源氏清和天皇から発した源氏で、その中にもいくつか系統があり、頼朝の実家は特に河内源氏と呼ばれる一門。
 その名前から分かるとおり、もともとは河内国、今でいう大阪のあたりを本拠地としていた一族だった。摂津源氏大和源氏という他の清和源氏と比べて、武家の棟梁としての性格が濃い一族だった。つまり、他の清和源氏より荒っぽい家だった。
 血統が、少なくとも現代よりは遥かに重要視されていた当時、清和源氏でトップといえば摂津源氏だった。嫡流、というやつで、血筋が良い。河内源氏などは傍流、つまり血統が悪い。
 それでも、頼朝が生まれる前後の清和源氏といえば、河内源氏がトップであると考えられていた。血統の悪さをくつがえすほど、武士団としての河内源氏が隆盛を誇っていたからだ。
 平忠常の乱、前九年の役後三年の役などで、現在の関東地方周辺の武士団を傘下に置いたことが大きい。河内国に本拠を置いていた河内源氏だが、坂東と呼ばれた関東地方のほうが、武士団の本拠地としてはむしろふさわしい。京からは遠かったが、坂東は馬の産地ということもあり、また中央から離れている分、統制が甘いために、地生えの武士たちの戦力も大きかった。その武士たちを取り込んだ結果、河内源氏は戦力的に図抜けた存在になっていた。
 頼朝は、そんな中、河内源氏の棟梁である父の三男として、そして正室(本妻)の長男として生まれた。将来、河内源氏のトップに立つべき人間として生まれたのだ。



 頼朝が河内源氏の嫡子として、京の貴族の生き方が出来るように教育され育っている頃、だが、源氏の力は弱体化しつつあった。
 原因はいくつかあるが、最大の原因は平氏の興隆である。
 保元の乱、という乱が起きた。頼朝がまだ幼い頃の話だが、この戦いの中で、源氏は真っ二つに別れて争う羽目になった。
 保元の乱とは、先代の天皇と先々代の天皇、名目上の親子である二人の上皇が骨肉の争いを繰り広げた末の戦という、救いがたい馬鹿馬鹿しさの戦いだったが、源氏はこの戦で勢いを失う。一族が分裂して戦い、いわば同士討ちで戦力を減らしてしまったのだが、この時期に源氏の勢いをくつがえして武家の頂点に立ったのが平氏、特に平清盛だった。
 後白河天皇の信頼を得て宮廷に深く入り込んだ平清盛は、源氏たちの嫉妬を寄せ付けもせず地歩を固めていく。源氏の棟梁として、頼朝の父たちはそれを黙って見ているわけにはいかなかった。
 頼朝が12歳の時、平治の乱が起きる。
 これは、平氏やその後ろ盾となっていた貴族、譲位して上皇になっていた後白河上皇らに対し、頼朝の父である源義朝ら源氏の一族と、後白河上皇に対立する貴族たちとが手を結び、反乱を起こしたというもの。
 その結果、源氏は敗れ、義朝は逃亡中に家来によって殺害され、河内源氏の一統は京の政治舞台から追放されることになった。
 その一統の嫡流である頼朝は、その場で殺されても文句の言えない立場だったが、池禅尼という平清盛の義理の母親に命を助けられ、伊豆に配流されることになった。
 京都、あるいは母の実家がある尾張(愛知県)などで武家貴族としての教育を受けていたはずの頼朝は、一転して、坂東の外れの大田舎に突然幽閉される身の上となった。



 現在の静岡県韮山町にあたる地域を坂東の外れといっていいかどうかは少し不安だが、京から見れば大田舎もいいところ。地名が「蛭ヶ小島」というくらいだから、じめじめとした湿地の中に浮かぶように小さな丘があるような地形だったのだろう。
 そのあたりを治めていたのは、小さな地方豪族たち。平家とつながりが深い武士たちである。
 源氏が坂東で勢力を伸ばしたとはいえ、それは上述のように戦争がらみでたまたま坂東武者たちを傘下におくチャンスがあったからで、京都から見て東側の地域、東国に関しては、もともと平氏の地盤。とくに関東地方周辺はそもそも平氏の地盤といっていい。神田明神などで有名な平将門も、千葉や茨城のあたりを本拠地とした平氏
 源氏が強い時期ならば、自分たちの土地を守るためにも源氏についたが、今や平氏が権力を握る時代になっている。もとが平氏出身だったり、平安朝で強勢を誇った藤原氏の末流が土着した豪族などは、源氏をとっとと見捨てて平氏になびいたりした。
 京からは離しておきたい、だがあまり離すと監視が行き届かずに妙な動きをされても困る、というわけで、頼朝の配流先として選ばれたのが、京都からはずいぶん遠く、周囲は平氏の息がかかった豪族で占められている蛭ヶ小島だった。
 頼朝はここで、ずいぶん長い時間を過ごしている。なにしろ、彼が平氏打倒を旗印に立ち上がるのが1180年。流されたのが1159年だから、20年余りもこの土地やその周辺で過ごしていたことになる。
 流されてきたのが12歳の頃だから、頼朝は、青春時代をすべて伊豆の片田舎で過ごしたといっていい。
 自分は戦争犯罪人の子。
 たった一人で敵のただ中に流され、孤立無援のまま、特別やることもなくただ生きて行く日々。
 彼は、ただでさえ血がたぎるような、頭が爆発しそうなほどに精神が高揚する思春期から青年期にかけて、ただおとなしく過ごしていなければいつ殺されるかわからない、という生活を続けていた。
 貴族の子として礼儀作法や立ち居振る舞いをしつけられてきた上流階級の子が、一転して、読経や写経でもして日がな一日過ごすしかないようなつまらないにもほどがある生活を強要されていた。命の不安という強烈すぎるおまけつきで。



 もっとも、ただ引きこもることを余儀なくされていたわけでもない。
 後年の彼は、正妻となった北条氏の女、政子の尻にしかれていたというイメージばかりが強いが、実は相当なプレーボーイだったらしい。



 ちょっと話がそれるようだが、この当時の貴族階級は、まだ基本的に通い婚という形式をとっていた。
 紫式部源氏物語の中で描かれる恋愛を見てみればわかるが、平安時代の貴族はまず男が女の許に通い、それを経てから同居するという形が一般的だった。もちろん、すべてがそのパターンだったわけではないが、男女が、恋愛の場面では対等だったからだといわれる。
 子供が生まれれば男が全額負担で女の家で養育する、らしい。そのあたりは私は良く知らない。
 もちろん、家を維持しなければならないから、結婚はする。それでも、べつに一夫一婦制にこだわるという思想は全く無かったようだ。
 それがどうだという気は私には無いから深く追求しないが、貴族のお坊ちゃん出身の頼朝にとって、これはごく自然になじんでしまった考え方のようだ。彼の正妻になる政子という女性は徹底した一夫一婦制論者で、彼とはまるで逆の考え方をしていた。
 それでは、政子が意地になって通した一夫一婦制が、現代に繋がるこの制度が、当時の日本に無かったかといえば、それは違う。通い婚という形は確かに一般にもあったが、こと武士という階級にとっては、一夫一婦制の方が都合が良いから一般化していたに違いない。
 中央の貴族化した武士がどうかはともかく、地方の武士は、前項でも述べたとおり、もとは農場主。自分たちで土地を切り拓いて農地とし、そこをせっせと耕すことで食っている人間たちだ。彼らにとっては女も重要極まりない労働力であり、武士の妻とは、現代の農家の妻でもそうであるように、言ってみれば農場の共同経営者だった。男を迎えて入れて恋ばかりしていられるような優雅な身分ではないし、男たちにとっても、そんな女たちに愛想をつかされては生活が成り立たない。運命共同体だったのだ。
 それに、通い婚であちこちに子供を作っていたら、財産が分散してしまう。
 都の貴族たちならば、地方の領地から上がってくる収入を振り分ければ済む話かもしれないが、地方の武士たちにとって、財産とは土地である。土地が無ければ耕作が出来ず、食い上げてしまう。むやみに子供を作って土地を分散させても仕方が無い。
 農場主が発祥という武士たちにとって、通い婚というのは、モラルが無いから許せないというより、そんな事をしていたら生きていけないという危機感を誘発する代物。政子が一夫一婦制を守らせるべく、頼朝の愛人を暗殺したりするという凄惨なことをしてのけたのは、なにも彼女の嫉妬ばかりが原因では無い。彼女が武士の娘として育ち、武士の妻として生きようとしていたという、なによりの証拠である。



 本題に戻すと、青年期の頼朝には、どうもまだ武士としての心得よりも、京で学んだ通い婚の風習のほうが身近だったようで、あちこちの女に手を出していた形跡がある。
 有名なのは、彼を監視する役目を平清盛から命じられていた伊東祐親、つまり自分の見張り役をしていた男の娘に手を出し、子供を産ませてしまったという一件。
 これがばれると、伊東祐親は平氏の怒りを恐れた。当然だろう。よりによって、平氏の敵の中の敵である源氏の嫡男が、自分の娘に子供を産ませてしまったというのだから。監視役である彼の立場が無い。
 伊東はまず生まれたその子供を殺し、さらに頼朝まで暗殺しようとする。
 頼朝はさすがにこの危機を察した。思春期に配流され、人の顔を伺うようにして生き抜いてこざるをえなかった男だから、危機を察するのは難しいことではなかっただろう。
 とっとと逃げ出した彼は、伊東とともに彼の監視役を命じられつつも頼朝にわりあい悪意を持たずにいた北条時政の屋敷に逃げ込んで、とりあえず身の安全を得た。
 ちなみにこの北条時政の娘が、政子である。
 当時政子には婚約者がいたのだが、その婚約を破棄してまで頼朝との結婚を望んだというエピソードをこの後に作っていく訳だが、これなども、あるいは、京風に洗練された頼朝の高貴な恋愛術に政子がめろめろになった結果、と考えると面白い気がする。
 少なくとも結婚する段階で政子が頼朝に将来の征夷大将軍の姿を重ね合わせていたとは思えないし(それが出来たらもはや人間の領域を超えている)、相手はなにしろ配流の身。大した身代があるわけでも無い。下手をすれば一生飼い殺しの男。そんな男にわざわざついて行こうというのだから、酔狂とすらいえる。
 女にそんな決断をさせてしまった、そのきっかけというのはなんなのだろう。
 少なくとも、それだけの決断をさせた恋の、その始まりくらいには、頼朝が都会の空気を持っていたということが関係しているように思える。田舎の女が、都会から来た憂いを帯びた瞳の男に憧れてしまう……というのは、30年前のドラマにはよくあった設定だ。
 後に政子がやったことを考えると、この女性は驚くほどの現実主義者であり、かつ、高々とした理想を見据えることが出来た歴史上まれといえるほどの偉大な女性政治家だ。その彼女が、一時の情熱だけで婚約者を捨てて、根も無ければ土地も持たない男の許に走るものだろうか。
 あるいは、そんな彼女だからこそ、情熱が走り出すと止まらずに頼朝の許に飛び込んでいったのかもしれないが、彼女の中に息づいていた政治家としての魂を揺さぶるような才質が、その手には何も持たずにいる頼朝の中にしっかりと存在していて、それが政子に一大決心をさせたのかもしれない。
 いずれにしろ、頼朝の青春は、明日をも知れない不安定さに囲まれた陰鬱なものだった事は間違いない。
 その陰鬱な青春と、生まれの特殊さが、そのうち日本の歴史を動かす原動力になっていく。