頼朝その3 身内の幸運


 歴史が頼朝という存在を作ったようだ、と私が感じるのは、彼が未曾有の幸運に恵まれていたと思うからだ。
 彼の生い立ちは、先述の通り決して幸運に恵まれたものではなかったが、打倒平氏の旗を掲げて以降の彼は、少なくとも公人としては奇跡といってもいい幸運に恵まれ続ける。



 最初の奇跡は、ごく身近なところで起きる。
 彼が兵を挙げる時に、まず真っ先に味方についた者たちがいた。妻の政子の一族、北条家だ。
 後の時代から見ている私たちは、源氏が勝つ戦いに肩入れするのは当然のように思えてしまうが、当時の状況を考えたら、頼朝に全面的に従おうという北条一族の決断は、気でも触れたかと思われるのが関の山というものだった。
 平氏の勢いは絶頂期にある。まだ平清盛は生きていて、娘に産ませた安徳天皇を擁して栄華の絶頂を極めていた。
 武士団の悲願である土地の保証という問題は全く手が付けられず、貴族化した平氏海上通商の利益と瀬戸内海周辺諸国の陸海兵力を基に、律令体制から一歩も抜け出さない権力体制を築き上げていた。つまり、天皇を中心とした貴族政治。そこに、武士たちの居場所はなかった。
 そんな中で、平氏に正面から楯突こうとしている頼朝に助力するなど、多くの武士たちにとって理解しがたい行動だった。
 北条家はもともと平氏で、伊豆地方の小豪族だった。勢力として決して大きな方ではないが、平氏から源氏の御曹司の監視役を命じられるだけの勢力はあった。中央で活躍が期待されるような名族ではない、という言い方も出来る。
 平氏なのに源氏の頼朝に味方したのか、という考え方は、この際無視していい。平氏だろうが源氏だろうが、貴族化した平氏本流に対し、武士たちが反感を抱いていたのは間違いが無いことで、後に頼朝が本格的に平氏と対立できる兵力がそろったとき、その戦力の中には多くの平氏が混じっていた。
 源平合戦などというから誤解が生じるが、頼朝と平氏の争いは、源氏対平氏の争いというより、東国の農場主武士団VS西国の公家武士団という構図だった。
 その構図がはっきりと見えてくる前から頼朝に一族の命運をかけた、北条時政の先見性は、現代でも高く評価されている。
 なぜ彼が、当時の権力集団にとっての敵の中の敵である頼朝に従ったのか。
 もちろん、娘の婿だからという理由は考えられるが、それは本末転倒だろう。源氏の御曹司を娘婿にしている段階で、時政の度胸は大したものである。
 もっとも、政子が押しかけ女房になったあげく、頼朝と二人で武士たちも手が及ばないお寺に逃げ込んでしまったということもある。駆け落ち寸前というわけで、時政が許すも許さないもなかった、という考え方も出来るが、時政はその寺に「二人を帰してくれ」と頼むこともなかったというから、これは世間体を保つための芝居だった可能性が高い。「わたしゃ許しちゃいませんがね、若い二人がああも強情ではどうにもならんのですわ」というわけだ。
 時政は頼朝と娘の政子が連れ添うことを黙認した。この時点で、時政には頼朝に対し、ある種の期待を持っていたのだろうか。今のこの平氏の世は、そう長く続くものではない。その後に必ず権力の交代が起きる。その時が、武士の悲願である武家政権を樹立する好機であり、その中心にいるべきなのが源氏の嫡流である頼朝なのだ、と。
 当時にしても、またずっと時は流れて再び乱世が訪れた戦国時代にしても、一族の生き残りを図ろうとするとき、たいていの場合、一族を二つ以上に分けて、いずれかが勝者側の陣営につくことで生きながらえようとする。戦国期で有名なところを挙げれば、真田一門か。関が原の合戦に際し、真田家では長男が徳川方、父と次男が石田方について戦い、家を守ろうとした。次男というのがかの有名な真田幸村
 北条家は、だが一族を分けずに頼朝につく。保身策を図らなかったのはなぜだろう。
 その必要が無いと判断したのだろうか。必ず頼朝が勝つ、と。それとも、乾坤一擲の勝負をするときに人が陥りやすい、視野狭窄にでもなっていたのか。勝たせるためには全員が命をかけなければならない、と。確かに、平氏に反旗を翻そうとするとき、河内源氏嫡流である頼朝は、血筋的に最高の存在だった。血筋が最高であるという事は、この当時、最高の正統性を持っていたということだ。それにしたって、この決断は常軌を逸している。
 あるいは、平氏が自壊する、と踏んでいたのかもしれない。盛者必衰、という平家物語の決め文句は、すべてが終わってからできたものだから、この当時の日本人の知ったことではないのだが、栄華に驕る平家が高転びに転ぶ、その光景が時政には見えていたのかもしれない。洋の東西を問わず、時代というものは、ごく少数の見える人間にははっきりと見えているものだ。仮に見えていたとしたら、源氏の長者たる頼朝という存在は、北条時政にとって信じられないほどの幸運を運んでくる宝玉のように思えていたかもしれない。
 どちらにせよ、北条氏は一族を挙げて頼朝に味方した。
 頼朝にとっての幸運は、北条一族の兵力を手に入れたことではない。兵力的には、北条一族をすべて駆り集めたところで大したものではない。大したものだったのは、この一族がもつ政治的才能だった。
 北条時政、その娘政子、息子で政子の弟に当たる義時など、武将としての能力はともかく、政治家として、あるいは官僚として優れた能力を発揮する人間がそろっていた。周囲の武士たちの意見をまとめ、出来たばかりの武家政権の基礎を固めるために働ける有為の才が、この一族から続々と発する。



 人材の奇跡といえば、なんといっても、弟の義経の存在。
 頼朝が得た人材の中で、もっとも奇跡的なのが義経だろう。
 彼は、まるで頼朝の武家政権を実現させるために現れた、戦いの天使の様な青年だった。騎兵の集団運用による機動戦術という、日本史では稀に見る戦い方を駆使して、当時だれも想像しなかった著しい戦果を挙げて平氏を滅ぼした。
 一方で、後世から見ても馬鹿かと思えるほどに政治的なセンスに欠け、そのために若い命を悲劇の中で散らしていくのだが、彼が登場しなければ歴史がどうなっていたか、予測がつかない。劇的なまでの武家政権確立への流れを作り出したのは、過半が彼の天才的戦術能力に由来する。
 仮に義経がいなかったとして、頼朝率いる東国武士団が滅亡したとは思わない。東国武士団の戦力は当時日本最強の陸戦兵力だった事は間違いがなく、東日本に覇権を築き上げる事は可能だっただろう。
 だが、平氏は西日本に根を下し、頑強に抵抗したはずだ。海軍戦力では東国武士団の遥か上を行く平氏だから、瀬戸内海の制海権を簡単に手放すはずもなく、制海権を握っていれば通商によって利を上げ兵を養える。大量の物資を運搬できるという海上交通の利点を生かして、東国武士団の侵攻を食い止める事は不可能ではなかった。
 東北にいる奥州藤原氏と結び、東国武士政権を挟撃するという大戦略も描けた。実際、その動きはあった。容易に東国武士政権が破れるはずも無いが、国内に三つの勢力が割拠する事態になり、戦乱が長い期間世を覆っていたとしても不思議は無い。
 その混乱の時代を未然に封じたのが、義経の戦術的天才だった。
 彼の戦いは有名すぎるほど有名だから、あえてここで解説する気にはならないが、ひとつ指摘しておきたいのは、彼が用いた戦術はすべて、当時の兵の倫理というものを完全に無視したものだったということ。
 この時代の戦いは(この後の元寇の頃になってもそうだったが)、まず互いに名乗りを上げて出自を明らかにし、正々堂々一騎打ちをするというものだった。戦国時代を描いたドラマなどで見られるような、兵士同士の乱戦というのは、鎌倉時代から南北朝、室町と時代が変わって行くにつれ出現した「足軽」という存在が、戦場で重きを為すようになってからの話。もっと言えば、戦国時代に突入して、個人戦闘よりも遥かに破壊力に勝る集団戦術が戦いの主流になってからの話だ。
 頼朝が戦った時代の武士は、土地を守るために戦っている。自分がどのように戦ったかをきっちり宣伝し、そのことで主将の高い評価を得て、土地を安堵してもらったり増封してもらったりするのが目的。同時に、華々しい戦いの美学を完成させるには様式美も必要だという理由もあった。武士道はまだ確立されていないが、貴族の伝統に端を発する美学というものは、形を変えて確かに武士たちの戦いの中に存在していた。
 義経は、貴族の中で育っていない。それどころか、様々な伝説の中に隠れてしまってはいるものの、地方の小農家の奴隷労働をして食いつなぐような悲壮な時期もあったらしい。生まれはともかく、貴族どころか武士としての教養や倫理すら身につけることなく、己の才覚だけで生き延びてきた青年だった。
 この男にとって、当時の武士たちの戦い方は、むしろ不思議に映ったのではないか。なぜこんなに不細工な戦い方をするんだろう、なぜこんなに鈍重な戦い方をするのだろう、と。
 義経は奥州の藤原氏を頼っていた時期があったが、奥州は関東と同じ馬の産地。関東以上、といってもいいかもしれない。奥州の馬を扱う市といえば、名馬が出てきて当然という評判が後世にまであったくらいだ。奥州藤原氏の通商上の武器でもある馬、その藤原氏に起居していた義経は馬とともに過ごした時期があったに違いなく、その中で馬の習性や馬に乗ることの利点を身体に叩き込んでいたはずだ。
 馬は、速い。
 当時の武士は、馬を肉弾戦用の道具としてしか見ていない。移動手段として認識するのは戦場へ移動するときだけで、それも重い具足を引きずって歩く徒歩の郎党を率いてのことだから、せっかくの馬の速さは全く生かされない。
 そのことに疑問も抱かなかったのが当時の常識だったのだが、義経はこの障壁をやすやすと乗り越えた。
 馬の速さを生かすには、いちいち名乗りなど挙げる愚を犯してはならない。馬の破壊力は、助走距離をとって勢いに乗ったまま突撃してこそ生きる。また、その機動力を生かすには、歩兵をつけて一緒に走らせるなどという馬鹿なことをやめ、騎兵を独立した戦術兵種として運用すべき。
 義経は、現代人ならすぐに思いつくこの発想を、当時だれも思いつくことすらしなかったこの発想を、見事に実現して見せた。彼の勝因はこのことに尽きる。
 同時代人に先駆けて新発想の戦術を編み出す軍人のことを、天才という。カルタゴとローマが地中海の覇権をかけて戦ったポエニ戦争当時のカルタゴ軍を率いた天才ハンニバルも、騎兵力で戦場を支配し敵の主戦力を丸裸にする戦術で、当時最強の名をほしいままにしていたローマ軍を相手に無敵を誇った。彼を破るために、ローマ人は彼の戦術を丸ごと採用したほどだ。
 いってみればローマ人の立場にあった平氏は、残念ながら義経の戦術を学ぶ暇も無く敗亡してしまったが、それは他の同時代人も同じ事。義経が滅んだ後、義経の戦術も滅んでしまい、騎兵を用いた機動戦術は、その後織田信長桶狭間まで一切見られる事はなかった。
 そんな天才が、突然、頼朝の目の前に飛び込んできた。
 他の武将でも、ある程度長い時間と武士たちの大量の血を用いて平氏を追い落とす事は可能だったかもしれない。だが、政治的な状況は瞬く間に変わる。いつまでも頼朝が源氏の棟梁として権力を維持できたという保証はなかったし、自前の戦力など持っていない流刑人の頼朝だから、権力基盤の整備に追われる内に、源氏と平氏の東西割拠が定着してしまっていたかもしれない。そうなれば、不安定な政治状況が続き、どれほど国内が乱れたかわからない。
 頼朝は、義経という史上最強とすらいえる飛び道具を得て、一気に平氏に対し勝利を収め、武家政権を確立できるという幸運に恵まれた。
 その代償として、政治的には痴呆というしか無い大たわけのしでかした検非違使任官騒動など、武家政権の屋台骨を揺るがしかねない愚劣な事件に巻き込まれたりしたのだが。



 寄る辺の無い流罪人だったはずの頼朝だが、必要な時に必要な人材が身内として現れる幸運に恵まれたのもまた確かなこと。このあたりの幸運ぶりが、私にとって、頼朝が、歴史が自分の姿を変えるためにこの世に生み出した存在に思える大きなひとつの原因になっている。