水野蓉子


私は作品名よりも、その作品の登場人物を重点的に取り上げるということをしたことがない。そこまで入れ込めるキャラクターが無かったということなのか、行為自体が気に入らなかったのかは微妙なところだが、とにかくした記憶が無い。
いや、ひとつだけあった。「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」の登場人物、ナナイ・ミゲルを取り上げたことがある。もっともこのブログではなく、ログも残ってはいないが。
今回もその系譜に連なるものと考えていい。



作品名は「マリア様がみてる」。集英社コバルト文庫の大ヒットシリーズであり、数々の同人サイトを生み現在もその命脈が断たれていない、人気作。
むくつけき30代直前の男が本屋で手に取るには、かなりの勇気を要する本でもある。


マリア様がみてる 1 (コバルト文庫)

マリア様がみてる 1 (コバルト文庫)


マリア様がみてる」は「お嬢様の純粋培養機関」である女子校、私立リリアン女学園を舞台にした学園ドラマで、百合未満の女の園の物語である。
高等部には独特の「姉妹(スール)」制度があり、個人的に強く結びついた先輩後輩が姉妹の契りを結び、先輩が後輩を指導することで伝統を引き継いでいく。物語はこのスール制度を軸に、生徒会執行部である「山百合会」の個性的な面々の日常と心模様を描き出していく。
高等部の生徒会は「山百合会」を中心としていて、そのトップである三人の役員のことを「薔薇さま」とよぶ。
薔薇さまにはそれぞれ薔薇の名前がつけられ、「紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)」「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)」「黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)」とよばれ、全校生徒の憧れの視線を一身に受けている。彼女たちには当然ながら妹がいて、その妹たちは「薔薇のつぼみ(ブゥトン)」とよばれ、姉の指導を受け、また実務の経験を積むことで次期薔薇さまとしての力を養っていく。



物語の主人公になる新入生、福沢祐巳(ゆみ)は、幼等部以来のリリアン女学園生で、「勉強も身長も体重も容姿も、すべてにおいて平均点」という平凡な生徒だった。筋金入りのお嬢様学校純正とはいえ、家は設計事務所だから、それほど飛びぬけて裕福ということもない。リリアンでは出自的にもごく平均的といったところの生徒。
ある日、そんな彼女が、偶然から学園一ともいわれる究極のお嬢様、祐巳自身が唯一憧れていた二年生、「紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)」の小笠原祥子(さちこ)に突然の「姉妹宣言」をされてしまうところから、学園大河ドラマの幕が上がる。
物語自体はありがちといってしまえばありがちな展開が多いともいえるが、なにしろキャラクターの個性の配置が良い。造形のばらつき具合、というべきか。それほど型破りな人間がぞろぞろと出てくるわけではないのだが、物語のバランスを崩さない枠内での造形が巧みで、群像物語としても充分に楽しめる。
主人公祐巳に成り行きで姉妹宣言する小笠原祥子にしても、究極のお嬢様らしいわがままっぷりと、その裏腹の可愛らしさとがうまく表現されていて、設定上作品中最高の美女とされている(はずの)事実とともに、祐巳に強烈な憧れを与えたり、喜びを与えたり、苦しみを与えたりして物語を盛り上げてくれる。



タイトルの「水野蓉子(ようこ)」とは、その小笠原祥子の姉にしてリリアン女学園高等部生徒会「山百合会」のトップ、「紅薔薇さま」と呼ばれて全校生徒から慕われる「高等部のお姉さま(グラン・スール)」。
扱いづらさでは全校トップレベルにある小笠原祥子を思うがままに御し、個性の強さではやはり飛びぬけている他の「薔薇さま」二人をまとめ上げ、生徒会を事実上取り仕切っている最強の優等生である。
ファンサイトなどでは「エロ・ギガンティア」などと称され、気さくで陽気な態度で繊細な性格を韜晦し、過去のエピソードや祐巳とのつながりなどで絶大な支持を受けている「白薔薇さま佐藤聖も、「何もしなくとも一番になれる」がゆえに、「面白い」ことを至上の価値として振舞う天才「黄薔薇さま鳥居江利子も、彼女には一目置いている。
当然他の山百合会関係者も彼女には頭が上がるはずがなく、彼女も愛情あふれる態度で後輩たちを見つめ、支えている。
容姿は、艶々の黒髪をあごのラインで切りそろえ、知的な微笑を浮かべる「大人受けする美人」だとされている。世話焼きで成績優秀、中学入学組ながらすぐにクラスのまとめ役になり、山百合会のメンバーになってからは教師も含めた学園中から信頼され尊敬される存在になった。リリアン女学園の顔、ともいうべき存在だ。



ヴァレンタインのイベントで学内が騒がしくなっている一日、彼女は運悪く生理と風邪とにぶち当たりながら受験に挑むという、最悪の状況の中にいた。受験が終わり、微熱と生理痛と薬のトリプルパンチでぼんやりする頭で学校に立ち寄った蓉子は、ふとしたときに、自分のファンであるという下級生たちに囲まれる。
「私はいつも、少しでもお近づきになりたい、って思っていたんです。でも、完璧で隙がないんですもの、紅薔薇さま
その言葉に蓉子は目を細める。
『自分では気がつかなかった。無理に紅薔薇さまの威厳を保っていたわけではなくて、それがありのままの姿だった。優等生になりたかったわけではない。そんな風にしか、生きられなかっただけだ。』
また、このような記述もある。学校への入り口を間違えて遠回りをしてしまった後のこと。
『今日の蓉子は頭の回転がかなり悪くなっているので、少しくらいの失敗は仕方ないと諦めるのが肝要だ。
これでも彼女、いつもは頭脳明晰、すぐれた判断力とリーダーシップ、おまけに美しくてやさしい、完璧なお姉さまとして通っている。こんなピントのずれた姿を後輩たちに見せようものなら、紅薔薇さまの名が泣くというものだ。』
彼女の人物像は、これで概ね理解できるだろう。



ナナイ・ミゲルといい、この水野蓉子といい、私はお姉さまキャラ、というものに弱いらしい。
私が一族の同世代中の年頭であり、近所に慕えるお姉さんもいなかったせいもあるのかもしれない。あるいは曲がりなりにも長男として育ち、年長者としての振る舞いをある程度強制されてきた中で、共感できる部分があるのかもしれない。
いずれにしろ、私はこの「紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)」*1として学園内の生徒たちすべてのお姉さま的役割を務め、それを務めきった、高校生離れした人格者である彼女が、どうにも好きになってしまっている。
もちろん彼女も完璧な人格者であるはずがなく、親友である「白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)」佐藤聖との間には、踏み込み過ぎたがゆえの相克なども以前はあったのだが、それも世話焼きの性分と親友を思う気持ちゆえの距離感の見誤りが原因で、手前勝手なものでは無かった。



ガジェットや世界観、トリックなどの特殊性より、キャラクターの魅力が小説の根幹だと考えている私にとり、「マリみて」は魅力的な小説である。キャラクターが設定上だけの存在ではなく、小説の中で一人ひとり息づいているからだ。
近頃、と括る気はないが、少なくとも最近私が手にしたライトノベルとかヤングアダルトとか呼ばれる小説群では、特徴的ではあっても、読み手に息遣いまで感じさせることがないキャラクターが氾濫している気がしていた。私がライトノベルを積極的に読む気がしないのも、この人物描写力の希薄化が原因といえる。
そんな中で、この小説のキャラは突出して面白い。
そのことは、ファンサイトの多さが証明しているだろう。
アニメ化されたことを契機に爆発的に増えたファンサイトは、現在ではだいぶ減ったのだが、それでも定期更新しているサイトがざっと見渡したところで30を下らない。1998年に刊行開始されたシリーズとしては、その人気は大した息の長さといっていい。
こういったファンサイトは、まず間違いなくキャラクターのパロディである。つまり、小説の舞台、あるいは世界観を利用してのオマージュ作品というものはまず見られない。なにも「マリみて」に限った話ではなく、小説やまんが、アニメを題材としたファンサイトは押しなべてそのようなものだ。
多くをキャラの魅力に依存するファンサイトがそれだけ多く存在し、続いているという事実は、ある程度客観的にその小説のキャラクター的魅力の大きさを証明している。
人は、なかなか世界観や舞台設定には惚れこまない。人は人に惚れるものなのだ。それが架空であっても、歴史であっても、また実世界であっても、それは変わらない。たとえばサッカーを見てボールに惚れたりグラウンドに惚れたりルールに惚れたりはしないだろう。プレーを、そしてそのプレーをする選手に、人は惚れる。



個性豊かに息づいている「マリみて」の世界で、凛としたまなざしで少女たちを見つめながら、しっとりとした優しさときめ細やかな気配りで彼女たちを包み込む、「紅薔薇さま水野蓉子
その生活環境のおかげで扱いにくい激しい気性の持ち主になっている「妹」の小笠原祥子を、ある時は手の平で易々と転がし、ある時は厳しく叱咤し、ある時は慈愛の微笑で受け止め、導いていく姿などは、まさしく「完璧にお姉さま」である。
一方で、シリーズ3作目の「いばらの森」で明かされる過去の話で見せる、親友を思って嫌われ役に回り、先輩から「蓉子ちゃんったら、あなたのこと心配しすぎて馬鹿になっちゃったみたいね」とからかわれるような姿を考えると、彼女が単なる優等生などではないこともわかる。
黄薔薇さま鳥居江利子は、中等部で出会った頃の蓉子を見て、こう感じている。
『今でも覚えている。蓉子には敵わないと、自覚したあの日のことを。(中略)
努力する姿を隠さないこととか、ある程度までいけばそれでよしと満足する姿勢とか、江利子には考えられないことを蓉子は威とも簡単にやってしまうのだった。それも決して苦労ではなく、いっそ楽しげに。
努力できることも才能のひとつだ、と江利子は悟った。何をしていいかわからない、しかし誰にも負けない何かを求めてやまない人間には、広く浅く、コツコツと積み重ねる作業など、無駄な労力を注ぐ上に苦痛としか思えないのだから。』
蓉子は、努力をいいわけにしない、といって卑下もしない、その結果としての「生まれながらの優等生」でもあったわけだ。
ただ頭がいいとか、真面目であるとか、そういった紋切り型の優等生ではなく、こういった懐の深い人間性を持った優等生を主人公と関わりの深い位置に持ってくるあたり、作者の人物造形と配置は、計算が深くて興味深い。

*1:作中ではとっくに卒業して前薔薇さまだが。