チューリングその5

kotosys2005-10-28



戦争が終わると、チューリングには次の職場が待っていた。
彼がケンブリッジ大学に戻る気でいたかどうかは不明だが、国家は彼に物理学研究所に入るよう指示し、そこで新たなコンピュータ開発計画に携わることになった。
彼が戦前にコンピュータの基礎理論を発表していたことは周知の事実だったから、特に不審な人事ではないが、国立の研究所に入れたというあたりにきな臭い意図を感じないでもない。
意外かもしれないが、イギリスが世界に誇るケンブリッジ大学やオックスフォード大学は、国立ではない。日本では旧帝大系が最高学府としてそびえたっているから、どうしても世界の主要大学は国立だというイメージを持ちやすいが、チューリングの母校ケンブリッジは国立ではない。
これまた解説し始めると長くなるから省くが、カレッジと呼ばれるものを単位とする自治体で、独立性が高い。
国は、チューリングを野放しにするつもりがなかったのだろう。
彼は、戦争が終わって以降も、最大級の国家機密が服を着て歩いているような存在だった。その才能を惜しんだというより、あまりにも機密情報を知りすぎ、また機密情報を産んだ理論などに精通しすぎていたから、戦後の社会に自由に解き放つには危険すぎる存在だったのだ。



チューリングの思索の、ひとつの結晶ともいうべき存在であるコロッサスは、その存在そのものが重大機密とされ、設計図は焼かれ、機械は撤去されたまま行方知れずになった。
当然、彼にはコロッサスについて語る権利がかけらも存在しなかった。
その相手がたとえニューマンやフラワーズだとしても、そのことに関する話をしてはならなかった。緘口令とは、そういうものだ。もちろんニューマンやフラワーズも同様で、彼らはその後、一切このことについて語ってはいない。
チューリングは、研究所入りするにあたり、自分の功績を口外できない立場にあった。それは、自分がすでにチューリングマシンを原形としたプログラム内蔵式コンピュータの量産型まで知っているということを、一言も口にできないことを意味した。



そんな中で、アメリカからの報せが届いた。アメリカが誇る頭脳、フォン・ノイマン博士の名で出された、一本の論文だった。
この理論はフォン・ノイマンの考案ではないことが後に判明しているが、現代のコンピュータの基礎理論といっていい論文で、おかげでこの論文の執筆者として名が上げられたノイマンの名が、そのまま現在主流のコンピュータの名前になっている。「ノイマン型コンピュータ」というのがそれだ。
フォン・ノイマンの論文で触れられているコンピュータは、煎じ詰めればチューリングマシンの論理に突き当たる。基本概念はすでに提示されていたということだが、重要なのは、それが実用段階にまで達しつつあるということ。
つまり、コロッサスという存在が歴史の闇に沈められた今、世界初の実用コンピュータの称号が、アメリカの研究チームに与えられようとしているということだった。



チューリングは、物理学研究所時代、イギリス独自のコンピュータ開発計画に従事するが、時期が悪かったといえる。
フォン・ノイマンらの論文が発表され、またそのコンピュータ「ENIAC」が発表されると、その方式とは異なる理論を提示したチューリングの計画は、周囲のアメリカ型への追随志向に引きずられるような形で頓挫する。
それはコロッサスの考え方とはまた違う、チューリングが自らの理論に基づいて方向付けしたシステムだったが、実現可能性が低いとされた。なにしろ、成功した現物がアメリカにあり、成功した実績が無いチューリングの計画が突拍子もなく見えたのも無理はなかった。
まさか戦時中の功績を揚言するわけにもいかず、チューリングの計画は縮小され、しかも無残なほど修正された。
チューリングはその完成を見ることなく、1947年に研究所を去っている。



彼が失意のどん底にいたか、というと、そうでもない気がする。。
というのも、彼はハードウェアについてはすでに興味を失っていたようだからだ。
ハードウェアについては、ノイマン型もしょせんはチューリングが理論的に導き出した仮想機械の枠組みを一歩も出ない。後に出現する非ノイマン型コンピュータでも、それは変わらなかった。むしろ問題になるのは、ハードウェアよりも、それを動かすプログラムの方にあるとチューリングは考えていた。もう少し具体的にいうと、処理の手順、つまりアルゴリズムだ。
プログラムを内蔵し、そのブログラムに沿って演算する機械は完成した。これから進化して行くだろうが、基本的な論理は変わらない。とすれば、そのプログラム、そのアルゴリズムの方が今後問題になっていくはずだった。
ある大学に招かれたチューリングは、研究室をもらうとそのことについて考え始める。というより、すでに研究所時代から考え始めていたのだろう。
研究開始早々に、彼は世間の耳目を驚かすある概念を生み出すに至る。
人工知能だった。



彼は、コンピュータと人間の知能との最大の違いはなんだろうと考えた。それが、自らアルゴリズムを生み出せるかそうで無いかだと考えた彼は、ひとつのテストを考え出した。
チューリングテスト、と呼ばれるそのテストは、別に難しい物ではない。
まず判定員を定め、次に人工知能を備えたとする機械と人間とをそれぞれ隔離し、判定員と機械、人間で会話をしてもらう。声ではなんだから、キーボードでチャットのようなことをしてもらえばいい。そして判定員はどんな質問をしてもよく、機械や人間はどんな返事をしてもいいとする。
判定員をうまくだまし、機械が「自分は人間です」と判定員に納得させることができれば、その機械は人工知能であると認定できる。
この概念はすぐに広まり、現在でも人工知能開発の現場で使われるという、人工知能情報科学の基礎的な概念になった。
「計算機械と知能」という論文を発表したり、それに基づいた実験をしたり、チューリングはごく初期の人工知能研究で、数々の先駆的業績を残している。
ただ、この人工知能という概念は、たとえば神学からは「神から与えられた人間の知恵を冒涜するものだ」という批難を受け、世間からは「いずれ機械が人間を支配するようになるのではないか」という批難を受けるものだった。現代でもそう主張する者が多いくらいだから、当時はセンセーショナルだっただろう。
イギリスに限らず、ヨーロッパは日本よりはるかに学者や科学というものを身近に捉える社会だから、かえってそういった批難や批判は強かったかもしれない。
ただ、チューリングの業績を理解する学者も当然ながら多くいて、彼は1951年、30代最後の年に、英国学士院会員に選ばれる。英国学士院は別名王立協会、イギリス最古の自然科学協会で、イギリスの科学者にとって、ひとつの到達点ともいうべき名誉だった。



チューリングが残した業績は、情報科学の分野に留まらない。
彼は本来、情報科学の専門家ではなく、数学者である。数学者としての彼は、全く分野違いの方向にも興味を向けていて、形態発生学の分野でも顕著な業績を挙げている。
生物学の分野に、数学を持ち込んだのだ。
詳しく説明することは私の頭では不可能。いくつかそれに関する文章を読んだが、やはり数学の分野は素人の文系人間が首を突っ込んで理解できるという代物ではなかった。
ただ、生物学の分野でもチューリングの名前を冠する用語が存在している。チューリングの反応拡散理論、そこから導き出されるチューリング波、などだ。「化学反応の組み合わせが波を発生させ、それが模様のもとになる」という仮説のもと、チューリングが展開した数学的理論は、現代の分子生物学などでも常に引用されるものだという。というより、分子生物学などが進展するにしたがって生じてきた疑問を解決するのに必要な道具として使われているという。
私が読んだ限りでは、複雑系にもつながる、カオスの縁などという話などともつながる話ではないかと思えた。京大の上田薭亮や気象学者だったエドワード・ローレンツらが、カオス理論の先駆けとなる研究を始める10年も前の話だ。



イギリスが産んだこの天才にも、落とし穴があった。
暗号解読者として、また数学者として、人類に多大な貢献を果たし、今でも大きな影響力を持ち続ける理論をいくつも提示したこの男にとって、最大の陥穽は、彼自身の性向にあった。
少年時代、たった一人の親友に向けた思いから始まる、同性愛者という事実だった。



現在では婚姻まで認められる地域が出てきた同性愛だが、それでも社会の偏見は厳しいし、カミングアウトすれば社会から弾き出される恐れは払拭されていない。宗教的に禁じられている国も多いし、先進各国でもその立場はけっして守られているとはいいがたい。
彼が生きた時代は、生き難いなどというものではなかった。なんと、罪に問われたのだ。
自治の伝統がある大学の中では、それでも大人しくさえしていれば咎められることはなかった。同性愛者抜きに人類の科学進歩は語れないことは、多少歴史を学んでいれば自明のことだし、優れた知性に対する敬意が先に立てば、同性愛の性行も黙認できるという雰囲気があった。
だが一歩大学を出れば、同性愛は罪だった。
「風俗紊乱罪」という罪があり、それは1967年まで続く。同性愛はこの罪に抵触し、それまでイギリスでは非合法だったのだ。
さらに、大戦終結後すぐに顕在化し、激化の一途をたどっていた冷戦が追い討ちをかける。
どうしてそうなるのかは私には理解できないが、当時、同性愛者は共産主義者と同義語であるとされていた。アメリカで吹き荒れる赤狩りの風潮はイギリスでも同様であり、同性愛の発覚はただちにレッドパージの暴力的な排撃対象になりかねなかった。



1952年、チューリングの家に泥棒が入った。チューリングは当然ながら警察に届け、彼はそこで余計なことをした。警官の事情聴取で、自分が同性愛者であることに触れてしまったのだ。
警察はチューリングを逮捕する。
チューリングは、人工知能研究などで名が売れてしまっていたから、そのことはスキャンダルになった。
新聞各紙がそれを大きく取り上げ、彼の同性愛嗜好は国中に知られた。彼は気鋭の数学者から一気に国家の恥に成り下がり、侮辱された。
政府は彼が保持していた人物証明を取り消し、国家的な事業に携わることを禁じた。それは、彼がコンピュータに触れることすらできないということを示していた。当時、コンピュータはまだ国家による占有物だったのだ。
仮に、この時点で、彼が救国の英雄ともいうべき存在であると公表されていたら、チューリングの名誉は多少は救われていたかもしれない。バトル・オブ・ブリテン以降の連合国軍の活動は、チューリング無しには考えられないものであり、チューリングら暗号解読班の活躍がなければ、少なくとも数千万人の人命が余分に損なわれていただろう。ノルマンディー上陸作戦は少なくとも1年は先になり、ドイツが原爆を完成させる猶予が与えられていた可能性が高いからだ。
だが、当然ながら、国家はチューリングを見捨てた。
チューリングがブレッチレーのスタッフだったことも、そもそもブレッチレーという存在自体が闇に葬られていたから、明かされることはなかった。



人間としてのチューリングは、社会的に抹殺されたも同然だった。
裁判の様子がマスコミによって流され、チューリングは汚らしい同性愛者、売国奴と罵られた。現在の感覚ではちょっと信じられないが、正気の人間がこういうことをしたのだ。たった50年ほど前に。
さらに彼は時代に叩き潰される。
裁判では、彼に二つの選択支が与えられた。犯罪者として刑務所に服役するか、保釈と引き換えに精神的肉体的な病患者として一年間のエストロゲン注射治療を受け入れるか、という屈辱の二択だった。
彼は病人になる道を選ぶ。
彼はエストロゲン注射を受け、精神病者としての扱いを受けることになった。
同性愛を病気にカテゴライズするのも暴挙なら、その治療にホルモン注射をするというのもばかげているが、これが時代というものの怖さだろう。下手をすれば、この天才の前頭葉にメスを入れるという、イギリス国民が恥じても恥じ切れないような暴挙をする可能性だってあったのだ。まあ、行ったのは似たような行為だったが。
ホルモン治療という名の拷問によって、チューリングは内分泌系のバランスを大きく崩し、性的不能になり、また肥満に悩まされるようになった。
走るのが好きで、自転車が好きで、風を感じながら思索するのが好きだったチューリングは、それすらできない体になっていく。
たぶん内分泌系の異常もあってのことだろうが、チューリングはすべてを失った上に重い鬱の症状を呈するようになる。



1954年6月7日、彼は青酸カリをひたした林檎を口にした。
42歳の誕生日を迎える直前、アラン・マシスン・チューリングは、偉大な業績と、それに反比例するかのような汚名を背負って、自ら死を選んだ。



地に落ちた彼の名誉を、最初に拾い上げたのは、外国の科学者たちだった。
1966年というから、イギリスで同性愛がようやく罪に問われなくなる1年前に、彼の業績をたたえる賞が設立された。アメリカ計算機学会、略称のACMの方が通りがいいらしいが、この組織が、コンピュータ科学の基礎理論を築き上げた彼の名を冠して、コンピュータ科学の発展に貢献した科学者に与える賞を作ったのだ。
IEEEとともに、コンピュータの分野で最も強い影響力を持つ学会が作った賞であり、また10万ドルの賞金がつくということからも、ノーベル賞、数学のフィールズ賞と並ぶ、科学の最も権威ある賞として知られるようになった。
チューリング自身が汚名を背負って死のうとも、チューリングの功績は永遠のものだ。科学者たちにとって彼の死は痛ましいものだったが、彼が残した理論や概念は、現在に至っても色褪せない。



本国で名誉回復がなされるのは、さらに先のことになる。
1974年、チューリングの死後20年近くもたって、あるいは終戦から30年近くもたって、ようやく一冊の本が世に出る。
「The Ultra Secret」
というタイトルの本は、著者ウィンターボサム大佐、ブレッチレーを含めたウルトラ情報の責任者だった軍人が書いたものだった。
内容は文字通り、ウルトラに関するもの。つまり、ブレッチレー関係者がブレッチレーに関することを、国の許可の下に本にして出版したということだ。
これは、ブレッチレー関係者に課せられていた緘口令が、ついに終わったことを意味していた。彼らは終戦30年にして、ようやく自分たちが戦時中に何をしていたか、家族に喋ることができるようになったのだ。



世界は衝撃を受けた。
ドイツのエニグマ暗号が破られていたことも驚きなら、そのことが今まで一切漏れもせずに秘密として守られていた事実にもぶっ飛んだ。
科学者たちも、アメリカより先に、不完全とはいえコンピュータといえるだけのものを開発していた事実に驚く。
彼らはようやく、国家に多大な貢献をした影の英雄であることを認知された。
チャーチルが「金の卵を産む鳴かないガチョウたち」と呼び、連合国の最上層部が祈るような気持ちですがったブレッチレーのスタッフたちは、戦時中国家に貢献もせずにいたという汚名を晴らし、名誉を回復した。



チューリングは、間に合わなかった。
彼はブレッチレーのスタッフの中でも最大級の汚名を着て死んでいった。ブレッチレー最大の功労者が誰かと尋ねられたら、最も名が上がる人物であるだろうにも関わらず。
情報技術の関係者と純粋数学を学ぶ者くらいにしか、チューリングの名は覚えられていなかった。仮に一般の人々が覚えていたとしても、それはあの恥ずべき裁判の記憶だけだっただろう。一般人には遠い存在になってしまっていたのだ。
今では極東の島国の文系人間にすらその名を知られるようになったチューリングだが、その名誉回復は遅すぎた。



こうしてパソコンを前にブログを書いていて、その基礎理論を作った科学者の一人が、こうも劇的な人生を歩み、屈辱と絶望の中で死んでいったことに、なにやら感慨を覚えずにはいられない。