チューリングその4

コロッサス




連合国軍にとって、暗号解読の必要性の重要度は上がる一方だった。
それは、ヨーロッパ戦線に限ったことではない。
ヨーロッパ戦線にも、また対日戦にも手を出さざるを得なかったアメリカは、イギリスが誇る暗号解読技術を欲しがった。
ブレッチレーの暗号解読班から、上級暗号解読者がアメリカに派遣されることになり、チューリングに白羽の矢が立てられた。



プリンストン大学留学以来の渡米となったチューリングだが、特に見送りされるでもなく、ごく寂しい船出だったようだ。なにしろトップシークレット中のトップシークレットである「ウルトラ」指定の人物である。目立つわけにはいかなかった。
1942年の秋にアメリカに渡ったチューリングは、アメリカで暗号解読に携わる「ウルトラ」のスタッフに、イギリス流の暗号解読術とその論理を説明し、同時にアメリカ流の暗号解読システムを学んだ。
さらに、ベル研究所というアメリカの通信技術を扱う高等研究所に入り、先進的な音声情報の暗号化技術についての研究も行ったらしい。
そこでどのような研究が行われたかは定かではないが、ひとつの出会いがチューリングのさらなる活躍を後押しすることになる。
出会ったのは人ではなく、ひとつの道具だった。
真空管だ。



もちろん、この時期、イギリスにだって真空管はあった。チューリングも触れた事はあったにちがいない。
真空管は、文字通り中が真空になっているガラス管のこと。電流を整流したり、増幅したりできることから、通信装置には欠かせないものだった。一般の家庭にもラジオなどで普及していたはずだから、珍しい物ではない。
チューリングが着目したのは、真空管のそういった部分での能力ではなかった。
それまでのボンブは、リレーという仕組みで電気的な処理をしていた。電磁石の力でカチカチとオン・オフをくり返すことで処理をするという物で、速度の限界が低かった。
一方、真空管機械的に動作せずに、電子的にオン・オフできるという特徴があった。小型化が難しく、大量の熱を発生させるという厄介な性質もあったが、機械式のオン・オフとでは、速度に雲泥の差がある。
これをボンブに使うことができれば、解析速度は劇的に向上する。
着想は単純なものだったが、これは現代のコンピュータが生まれる最初の一歩といっていい。
といっても、類似の発想はある。のちに人類初のコンピュータといわれることになるENIACの開発者たちは、すでに真空管を使ってコンピュータを作るという発想に達していたし、機械式と電子式の折衷という言い方ができるABCというコンピュータは、すでに試作機が完成している。
ただ、チューリングはどちらも知らなかったし、知る機会もなかった。
暗号解読という戦争の場は、新たな局面を迎えつつあった。



1943年初頭、ドイツ軍の動きは少しずつ息切れの様相を呈していたが、イギリスにとっては何の慰めにもならなかった。
イギリスはなんといっても大陸から離れた島国だから、海上交通が途絶してしまえば孤立する。
イギリスにとって頭が痛かったのは、ドイツ海軍の潜水艦による無差別攻撃。第一次世界大戦でも散々な目に合わされたが、この時代遅れなはずのUボートに、イギリスは首を絞められ続けていた。
ドイツ軍は、全体で同じ暗号を使っているわけではない。海軍は、陸軍のように有線による通信というものに代替できない特徴があるから、無線通信に対し神経をとがらせていて、陸軍のものよりさらに一歩進んだエニグマシステムを使うのがもっぱらだった。
1942年の2月に、ブレッチレーではトリトン、連合国軍ではシャークという暗号名で呼ばれる、新型のエニグマ暗号機がドイツ海軍で採用された。これが曲者だった。
それまでの設備では、まったく解読できなかったのだ。
ボンブの性能により、3連式エニグマ暗号機の解読は可能になった。ドイツの暗号はこれでほぼ筒抜けという状況で、これを活かしての作戦が続けられていた。
だが、新型はエニグマ内部のローターが4連式になっていて、肝心なことは、そのことにブレッチレーが気付かなかったということだった。つまり、エニグマ暗号の一部がまったく解読できなくなったが、その原因がわからないから対策の立てようが無かったのだ。内部構造が変わってしまっては、その構造の変化がわからない限り、暗号解読機であるボンブの改良もできない。



書きながら調べていて、このシャーク暗号を解読するためにチューリングが史上初のコンピュータともいわれる機械を開発したのだ、とする記述があって、混乱させられた。
よく調べてみると、その記述は間違っている。確かにシャーク暗号のためにブレッチレーは1年も切りきり舞いさせられ、大変な苦労をしたが、それを解決したのはチューリングではない。撃沈したUボートからエニグマ暗号機を手に入れ、内部を解析することでようやく4連式ローターであることに気付いたブレッチレーは、大急ぎでそれに対応する新たなボンブを設計し、作り上げることで対処に成功した。
それに、新型の機械を完成させたのはチューリングではなく、別人である。
さらにいえば、チューリングが解き明かした暗号解読の論理は、仕組みが変わっても破れない。根本的な部分でエニグマ暗号を解き明かしていたからだ。仕組みが変わって対応できなくなっても、どう変わったかがわかりさえすれば、あとは機械の改良で済む問題だった。



チューリングが1943年3月にイギリスに帰ったとき、だから待っていたのは別の暗号に対する問題だった。
フィッシュ暗号という。
フィッシュ暗号は、一種のデジタル通信技術を使った暗号で、ボーコード暗号ともいう。
アルファベットを、5桁の0と1で表すのが特徴。電信符号としては紙テープを媒体として使い、5箇所の穴の有無によって成立する。この穴の有無を電線や電波で送り、受信先で印刷し、解読して使う。
これが、ブレッチレーではまったく解読できなかった。ボーコードという考え方はあったが、それを暗号化されてしまうと、とてもではないがボンブでは対応できなかった。
ボンブは、くり返すようだが、エニグマ暗号機のシミュレートをして、暗号の鍵を探り出して解読するための機械である。そのために作られた機械だから、別の演算用途には一切使えなかった。フィッシュ暗号の前には、ただのでかい機械の塊でしかなかった。
フィッシュ暗号はすべての暗号通信に使われたわけではなかったが、ドイツ軍中枢部やヒトラーなどの最高幹部からの通信によく使われていた。これがわからないと、他の通信からは類推できない重要機密を逃す恐れが高かった。
チューリングらブレッチレーのスタッフは、このフィッシュ暗号と戦うための道具を考え出す必要に迫られた。



0と1で表されている暗号を解く。
これは、二進数の暗号を解くと言い換えられる。
ブレッチレーの暗号解読者たちに課されたのは、二進数との戦いだった。
帰国したチューリングは早速その仕事にとりかかり、革命的な道具を投入する。真空管だ。
0と1、オンとオフ、チューリング真空管の特性である電子的な回路の開閉性を、新たなボンブの心臓とする。エンジン、と言い換えてもいい。
電磁式リレーでは到底対応できないとされた計算速度の限界をぶち壊す、真空管式の、電子式の演算装置である。
これがボンブと根本的に異なっていたのは、ボンブがエニグマ暗号解読のためにしか使いようがない機械であったのに対し、この新しい機械では、二進数を使うあらゆる計算が可能であった点だ。これは、単に数を操作するということではなく、0を偽、1を真とする論理計算が可能である、ということでもあった。
単純な計算機でもなく、暗号に対応するだけの機械でもなく、論理計算が可能な機械。これは、後にコンピュータと定義される機械の、もっとも原始的なものだったのだ。
戦前、チューリングは論文の中で「チューリングマシン」という仮想の機械を作った。これは、論理的に可能であればどんな計算でもできるという万能マシンだった。
不完全ながらも、暗号解読者たちはこの「チューリングマシン」を作り出そうとしていた。



主導的な役割を果たしたのは、チューリングではない。ニューマンという数学者と、フラワーズという技術者だった。
ティルトマン、タットという二人のスタッフがフィッシュ暗号の弱点を発見すると、ニューマンがそれを利用して解読するための機械を設計することになった。
ニューマンは、チューリング同様数学者であり、同じケンブリッジ大学にいた同僚でもあった。チューリングの人となりを知り、かつチューリングの理論もよく知る人物だ。彼はチューリングアメリカに行くと、その代わりとして招聘されている。
彼はフィッシュ暗号解読にあたり、まずはボンブの改造で対処する方法を探ったが、それが無理らしいとわかると、「チューリングマシン」の概念を思い出し、プログラム可能コンピュータの設計に取り組み始めた。当然、帰国したチューリングもそれに協力しただろうし、電子回路の概念を先進国アメリカから吸収してきた彼はアイディアも提供しただろうが、この時期のチューリングは自分が設計した対エニグマ暗号機用のボンブの改良や他の暗号解読作業に忙しく、大きく関わってはいなかったようだ。もちろん、基礎理論を提示した彼の功績がそれで霞むことは全く無い。
設計図はやがて完成したが、ブレッチレーの上層部はそれがとうてい製作できるものでは無いとして退けた。真空管の扱いの難しさは周知のことだったし、それを千本以上使うような機械など、作れるはずがない、というのだ。
そこに現れたのが、郵政省の通信技術研究者だったフラワーズという男。彼は技術者として会議に参加していたが、上層部の却下に取り合わず、自分の職場である郵政省の研究所に設計図を持ち帰ると、自分のチームで製作に取り掛かった。



コロッサス、と名付けられることになるこの機械が、史上初のコンピュータであるかどうかは、意見が分かれる。というのも、コロッサスはハードウェアの改変によってしかプログラムを改変できない、つまりソフトウェアの概念が無いからであり、それがコンピュータの概念から外れる、というのだ。
その論争についてはこの項とは関わりが薄いから省くが、少なくとも、独力でコロッサスを完成させたニューマンたちブレッチレーのスタッフと、フラワーズら郵政省の技術者の才能と努力は評価されていい。海を越えたアメリカでも同じように軍事目的でコンピュータが開発されていたし、ドイツでもコンピュータが作られていたとする話があるが、いずれにせよ、コンピュータの黎明はまさにこの時期であるといっていい。
そのコロッサス、試作一号機は見事な失敗。
試作二号機も失敗。
三号機もだめだったらしい。
原因は、論理回路に不正があったからだとされている。つまり、論理的におかしいところがあって、回路内で信号がグルグルと回ってしまう現象が起きた結果、機械としてのコロッサス内部で異常発熱がおきて、真空管が爆発してしまった。昔からのパソコンユーザーなら誰もが経験したことがあるはずの、プログラム内部の不正によりアルゴリズムの無限ループが発生したのと同じ状況。いわゆる「暴走」だ。
パソコンならハングアップする程度で済むが、相手は真空管。異常発熱で割れる程度ならいいが、最悪の場合、その熱が可燃物の引火を招き、延焼しかねない。しばらくするとトランジスタ、つまり半導体による論理素子という物が発明され、そこからいよいよ情報技術革命が燎原の火のごとく世界を覆うことになるのだが、この時点ではまだ形も存在していない。
コロッサス開発は、論理の闘いであると同時に、真空管が発する熱との闘いでもあった。



コロッサスの開発が成功したのは1943年の終わりごろ。1500本の真空管が発する熱で、真冬でも建物の周囲はずいぶん暖かかっただろう。
この完成により、ドイツ軍の最重要暗号であるフィッシュ暗号は、ついに破られた。コロッサスの演算能力が、フィッシュ暗号を超えたのである。
コロッサスは改良を受け、また数台とはいえ量産もされた。暗号解読能力は日増しに上昇していった。
時期的にも、これは非常に重要な成果だった。
第二次世界大戦は、いよいよ連合国軍側の反転攻勢の時期に差しかかろうとしていた。



ヨーロッパの戦いでは、ドイツ軍がソ連に兵力を振り向けて以降、東部戦線と呼ばれる独ソ戦が中心になっていた。その間、ソ連をのぞく連合国は、主に地中海を舞台に戦いを進め、また大西洋での戦いを続けていた。
大西洋、地中海での戦いにある程度めどがつくと、次はいよいよヨーロッパ本土に対する作戦の必要が出てくる。
東部戦線では、すでにソ連が凄まじい人的損害を出していた。ソ連第二次世界大戦で払った犠牲は、なんと2000万人。桁がひとつ違うのではないかと目を疑うほどの犠牲者が出ている*1
その犠牲の上に、ドイツ軍は東部戦線の縮小に移った。前年冬のスターリングラードの戦いに破れ、戦線を維持できなくなったのだ。
といって、東部戦線がなくなったわけではなく、スターリンはイギリスやアメリカに、いい加減西部戦線もどうにかしろとねじ込んでいた。
当初作戦案でもめていた連合国だが、1943年に「ラウンドアップ作戦」が実施されることになった。チューリングがコロッサスの開発に懸命になっていた頃だ。
だが、この作戦は様々な問題から翌年に持ち越され、作戦名も「オーヴァーロード作戦」に切り替えられた。英仏海峡を越えてフランスに連合国軍を上陸させ、正面からドイツ軍に対抗しようという作戦。
史上名高い、「ノルマンディー上陸作戦」である。



連合国は1943年12月、総司令官にアメリカ軍のアイゼンハワー将軍を指名した。コロッサス完成とほぼ同時期。
作戦に動員する兵力が次々に決まり、前年から進められていた作戦立案も大詰めとなった段階で、アイゼンハワー率いる連合国軍の最大の懸案は、どこを上陸地点に定めるかだった。
だいたいの上陸地点は、フランスのノルマンディー半島に決まっていた。ドイツ軍を混乱させ分断できると踏んでいたからだ。だが、ドイツ軍の陣地の陣容、あるいは兵力配置の動きなどがはっきりとわからないままでは上陸地点を決めかねるし、そのために偵察機を飛ばしては、わざわざドイツ軍に「これからここに上陸しますよ」と大声でふれて回るようなもの。
ここで大いに威力を発揮したのが、やはり「ウルトラ情報」、つまりブレッチレーの暗号解読班からの情報だった。
エニグマ暗号の情報だけではわからなかったドイツ軍の上層部の情報が、1944年初頭、ついにフィッシュ暗号の解読に成功したことにより、ヒトラーの動静に至るまで詳細にわかるようになっていた。コロッサスの成し遂げた快挙だった。
陽動のために、ノルマンディーとともに上陸地点の候補に上がっていたパ・ド・カレーへの上陸作戦があるかのような偽情報を流しつつ、慎重にノルマンディー半島の情勢を探った連合国軍は、5つの管区に分けての上陸作戦を決定した。
対するドイツ軍は、上層部の意見対立によって防衛策に混乱が見られていた。もちろん連合国はそのことをコロッサスが解読する暗号文で把握していて、その間隙をついての上陸作戦となった。



そんな状況も、ブレッチレーの人々には知らされていない。彼らはただ敵の暗号を解くためだけに存在していて、軍の作戦行動など知らされる立場には無かったからだ。ドイツ軍の暗号文から、過去の戦況については世界中の誰よりも正確に把握していた彼らだが、これから起きることについては知る由もない。
1944年6月4日、ブレッチレーではダンスパーティーが計画されていた。「Dデイ」として知られることになる、ノルマンディー上陸作戦の開始は、実はこの翌日、6月5日の予定だったのにも関わらず、である。
多忙を極め、日々暗号と戦っていた人々にとって、たまの息抜きとしてのダンスパーティーは唯一といっていい楽しみであり、その幹事たちは張り切っていた。もちろん、他の人々も楽しみにしていて、唯一Dデイのことを知っていた暗号解読班の責任者トラヴィス中佐は、ずいぶんといらいらさせられたに違いない。
何もよりによってこんな日に開かなくても、と思いつつ、やめさせることはできなかった。士気に影響するから、ではない。無理にやめさせたら、何か味方がとんでもない作戦でもおっぱじめる気だな、と悟られてしまうからだ。ブレッチレーは最高度の機密機関だったが、敵の情報については無制限に得られる場ではあっても、味方の情報についてはごく限られた情報しか得られない場でもあった。
結局、ダンスパーティーは開かれたが、Dデイに誰もが二日酔いや疲労困憊の体で仕事に就く、という不祥事は避けられた。天候が原因で、Dデイ自体が次の日の6月6日に延期されたからだった。
Dデイの前にダンスパーティーが開けたのは、偶然ながら幸いだったといえるだろう。連合国軍にとっても幸いだったが、ブレッチレーの人々にとっても幸いだった。
フランスでは、レジスタンスたちが連合国軍の動きに合わせてドイツ軍の有線通信網の破壊工作を活発化させたため、ドイツ軍は無線頼みの通信状況になってしまったからだ。ドイツ軍が無線頼みになれば、ブレッチレーが傍受して解読する暗号の量も増加する。
Dデイ以降、ブレッチレーの人々は、以前以上のてんてこ舞いだったに違いない。とてもダンスパーティーなどとはいっていられなかったはずだ。



その後、大戦の戦況は大きく変わった。連合国軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、ヨーロッパ大陸に橋頭堡を築き上げると、8月25日にはパリを解放する。
西部戦線と呼応してソ連軍が行ったバグラチオン作戦により、東部戦線でもドイツ軍が敗北を重ねると、戦争は一気に連合国軍有利に傾き始める。ドイツには、すでに攻勢に出るほどの余力は残されていなかった。



戦争は、1945年5月8日にドイツの降伏により終結する。
ブレッチレー・パークの暗号解読班も解散し、最盛期には7000人にも及んだというスタッフも、社会に戻った。
前線から帰った兵士や将校は、自分たちの功績を語り、名誉を誇ることができたが、大戦の帰趨を握ったとすら言えるブレッチレーの人々には、その自由はなかった。
彼らには、重大な軍事機密情報を持つ者としての、最大級の緘口令が布かれていたからである。
当然、エニグマ暗号の解読理論を完成させ、ボンブやコロッサスを開発したチューリングらの功績も、機密情報として歴史の表に出ることはなかった。彼らは、何の賞賛を受けるでもなく、ただの数学者や技術者として社会に復帰せざるを得なかった。
戦勝に沸く社会で、ブレッチレーのスタッフの中には、戦争に何の寄与もしなかったとして「君はわが校出身者の恥さらしだ」という手紙を母校の校長から受け取った者もいたという。チューリングも母親に情けないと嘆かれたという。



暗号解読者たちは、その功績の重大さの報いとして、社会的に功績を抹消され、賞賛どころか罵倒や冷笑を与えられることになった。


次回、最終回。
それから、次回を掲載後、しばらく休載します。さすがに疲れたので。

*1:もっとも、それ以前のスターリンの粛清や経済政策の失敗により同程度の犠牲がすでに出ていたとされているから恐ろしい。