日本史の天才

 つい先日まで頼朝を書いていたが、少し中座して別のことを書きたくなった。
 天才、というもののことだ。



 塩野七生という作家と高校生の頃に出会い、その辺りから西洋史の方に流れっぱなしだった私だが、一方で、司馬遼太郎にも惹かれ、その小説はほとんど読んだ。
 司馬遼太郎の小説を歴史そのままであると考えるのは愚の骨頂だが、単純に面白いのは事実。
 歴史に生きた男たちの熱い生き方を描く作家はたくさんいるが、その歴史的な立ち位置や意味まで掘り下げ、独自の史論を展開できる作家となるとそう多くはない。さらに、その史論が人文科学的で、独断での切り口というよりは該博な知識と俯瞰的な推論の積み上げから出てくる史論、となると、人数は限られてくる。
 俯瞰的な物の見方がいい、といっているのではない。俯瞰性は一方で細やかな人情の描写というものがおろそかになりがちだからだ。天下国家を扱っている小説で、隣家の年寄りがどうしたの、横丁の後家がどうしたのという話題が出るはずもなく、人情物語を語れるはずがない。
 たいていの場合、若い男性読者というのは、人情物語よりは天下国家の話のほうを好む。私も例外ではなく、司馬遼太郎が広げた大風呂敷の方が好きだった。今でもそうだ。



 大風呂敷、というが、司馬遼太郎が大風呂敷を広げているというより、歴史に名を残したような男共を描こうとすると、日常に生きる我々にとっては大風呂敷に見えてしまう。
 特に、時代がわりと近い幕末維新のあたり、その歴史に登場してくる男たちの生き様を見ていると、無理に盛り上げたりフィクションを挟まなくても、充分に楽しい。鎌倉時代より昔になると、あまりにも感覚が現代と違いすぎたり、上流階級の人間しか記録に残っていなかったりして少し現実感に乏しくなる嫌いがあるが、商業の高度化や識字率の向上がもたらした文献資料の多様化は、あるいは封建制の爛熟に苦しんだりその矛盾に怒りを表したりする若者たちの心情の発露、あるいは困難な状況を前にして懊悩するばかりで一向に前進しようとしない権力に反発する青年たちの熱さ、というものが、戦国なり維新なりという時代には見えてくる。
 特に、幕末維新の時期にはそう感じる。
 戦国時代が訪れたのも、幕末が訪れたのも、歴史の必然ではある。だが、その幕の引き方は大きく違っていた。
 戦国時代に幕を引いたのは、明らかにたった一人の人物の天才による。織田信長だ。
 戦国後期に彗星のごとく現れたこの天才は、後の歴史を導いた。豊臣秀吉は信長が敷いたレールの上を忠実に歩んだだけにすぎず、徳川家康はそのレールに乗って行き着いた歴史の果実をもぎ取っただけ。格が違う。
 幕末維新期に、このような天才は現れなかった。政治的に重要な役割を果たした者たちはたくさんいたし、その中には明治期の歴史を紡いでいく者たちもいたが、信長のような破天荒な天才はいない。
 これは、維新期の若者たちの格が下がるとか、信長が偉大すぎたということではなく(もちろん信長は偉大だが)、歴史段階として維新期にはそのような天才が生まれ出てくる余地がなかったということだろう。少なくとも近代社会を作ろうとするとき、信長のように既成の価値観を破壊しまくる人物が頭となっては、まとまるものもまとまらない。独裁国家でも作ろうというならともかく、曲がりなりにも天皇中心の立憲国家を作ろうとしているのだから、天才の存在は逆に邪魔になる。
 天才はいないが、だからこそ、青年たちの苦闘が鮮やかに描き出せるともいえる。
 なまじ天才がいると、その天才の光芒に隠れ、他の青年たちのことが見えにくくなる。もしくは、他の青年たちの活躍の場が失われてしまう。



 日本史に現れた人物で、歴史を転換させた天才の名を上げるとなると、人数はそれほど多くない。
 頼朝のことをずらずらと書いていたが、私は彼が天才であるとは思っていない。確かに彼が成した功績は巨大だったが、それは彼が天才だったからというより、歴史が彼に一方的に肩入れしていたからだ、と思っている。義経は天才と呼ぶにふさわしい軍事の才の持ち主だったが、その天才と、私がいう歴史を転換させた天才というのは全く違う。義経の天才とは、歴史をも動かしうる者の道具、としての才能だった。軍事とは、つまるところ政治の道具に過ぎない。
 歴史に必要とされ、それを成した人物を天才と呼ぶのには私には少し抵抗がある。天才とは、歴史の首根っこを引っつかんで自分の理想の元にひざまずかせる存在のことだと思っている。
 そのような強い個性は、信長くらいしか思い当たらない。モムゼンカエサルのことを、ローマ史上ただひとりの天才と呼んだが、日本史上ただ一人の天才が信長だった。
 他に候補を探すとなると、難しい。大化の改新を成し遂げた中大兄皇子、後の天智天皇、あるいはその側近である藤原鎌足も、天才といっていい存在かどうかは疑問がある。彼らは確かに日本史の大転換を行ったが、当時の日本に必要な改革を行ったとは言いがたい。唐土律令制を取り入れることで日本の豪族たちを押さえ、国内を天皇の存在の元に統一しようとしたのだが、その改革が実行力をもち始めるまでには天智一代では足りず、天武帝や持統帝を経て完成された*1。その天武にしても、兄である天智の改革路線に多大な影響を受けて育ったからこそできたことだった。
 その後の日本に、歴史の転換を行ったといえるような人間がいたかどうか。鎌倉幕府は先述の通りとして、室町幕府の開闢は、所詮武家政権内の内部抗争に過ぎない。その尻馬にのって後醍醐帝が暴れたりしたが、歴史にとっては些事。徳川幕府の開設は信長の天才の成果を換骨奪胎したものに過ぎない。



 日本の歴史が大転換を遂げたのは、結局のところ、貴族から武家に実権が渡った鎌倉幕府開設の時代と、応仁の乱以降の混乱と国内生産力の沸騰がもたらした割拠を治めなければならなかった戦国期、それに武士の時代の終わりと近代化への道へ踏み出した幕末維新。
 鎌倉の武家政治を確立するのに、天才の力は必要ではなかった。天才よりも、時代というものをきっちり見通せて血筋も良い、つまり統治の正当性を主張できる人間が必要とされていた。そのパズルのピースを埋めたのが頼朝であり、それを支えたのが北条氏ら豪族連合と大江広元ら官僚群。
 戦国の終幕にも、あるいは天才の力は必要ではなかったかもしれないが、信長は問答無用で出現し、一気に統一を成し遂げ、それを完成させる寸前に消えてしまった。
 幕末維新期に、天才は出現しなかった。そのかわり、よってたかって国難を憂い、新しい時代を希求する若者たちが群がり出た。その群像劇を楽しめるのも、彼らが作り上げた歴史の上に乗っかっているからこそだが、なまじ天才など現れないほうが、後世の無責任な人間たちにとっては、歴史は面白い。
 別に織田信長の紡いだ歴史が面白くないという気は無いが、あの手の人物は歴史に一人いれば十分だ。一人だから楽しめるようなもので、二人も三人も出現しては、一国の歴史にとっては重すぎる。
 歴史は、天才のみによってつむがれるものでは無い。幾多の忘れ去られた人々の生き方、その積み重ねが歴史なのだから、一部の天才たちに歴史の転換すべてを由来付けるのは、歴史を見つめるものとして情けない限りだ。人々の中で悪戦苦闘しながら理想を追い、現実に押し潰されながらも仕事を成し遂げて行く普通の人々。その生き様を見つめる方が、天才の業績を口をあけて見つめているより、ずっとおもしろい。

*1:もっとも、あっという間に骨抜きにされてしまうわけだが。墾田永年私財法がその端緒であり、そこから鎌倉幕府の樹立まで、延々土地問題が日本史の争点になって行く。