ティベリウスその4

kotosys2005-10-21




引きこもり、そして老いたとはいえ、ティベリウスの統治者としての感覚は衰えていなかった。
セイアヌス粛清劇などは、タキトゥスに陰険だとののしられようが、鮮やかな手並みだった。
衰えがあったとすれば、それは彼の人間というものに対する寛容さだった。



彼は、セイアヌス一派と目された人間を次々に殺す。ゲルマニクスシンパへの扱いとは、明らかに違う。
セイアヌスの家族は皆殺しにされたといっていい。処女は刑死させてはならないという法があり、娘の一人がそれに抵触するとなった時には、強姦した上で刺殺するという残忍さも見せた。
皇帝の怒りに震え上がった元老院議員の中には、積極的に彼に加担して、同僚である元老院階級の中のセイアヌスのシンパを裁判にかけ処刑させるものまで現れた。恐怖政治、と彼の治世が呼ばれるのも、ここからだった。



彼がローマにいて、陣頭に立ってそれを行っていれば、帝政の秩序を保つための行動であると見られなくも無かっただろう。セイアヌスは間違いなくローマの民衆にまで憎まれていたし、支配者の顔が見えていれば、多少は恐怖も薄らぐ。直接顔を合わせる元老院階級はたまったものではないだろうが、姿が見えるものに対し、人間は無用な恐怖や疑いを持たないものだからだ。
だが彼はカプリ島から出ようとはしなかった。
カプリ島から指令を出して統治するティベリウス式の統治体制は磐石で、帝国の基礎はもはやちょっとやそっとで動じるものではなくなっていた。だから、統治者としての彼に落第点を与えることは誰にもできなかったかもしれない。
しかし、人間はシステムや顔の見えない人間に統治されることを好むだろうか。体制というものがシステマティックを極めた現代ですら、国家元首は支配体制の顔として毎日メディアに登場することが求められている。メディアが発達していない当時、支配者の顔を誰もが見るということは難しかったにせよ、誰が自分たちを支配しているか、その姿が多少なりとも見えていなければ、ただそれだけで不信感は募るのではないだろうか。



ティベリウスカプリ島からの統治は、彼の評価を著しく下げた。これは当然のことだっただろう。
それでも私は、ティベリウスに対する悲しみに似た感情を捨てる気にはなれない。
彼にとって、目の届く人間全てが、驚くほど堕落し裏切っているように見えていた。これで絶望せずにいられる人間がいたら、それは、人間という生き物を根本的な部分で全く信用していないか、あるいはただの能天気である。



まず、アグリッピーナの自分に対する暗殺計画。
事実であったかどうかは確認のしようもないが、アグリッピーナにその気が無かったとは誰にも言えない。
追い詰めたのはティベリウス本人だからお互い様といえばそれまでなのだが、先帝アウグストゥスの生涯をかけた大事業である帝政の維持を、実の孫娘であることを誇りにして生きてきたはずのアグリッピーナ自身が、無思慮に感情に走って崩そうとするかに見えたこと自体、ティベリウスには絶望的なことだっただろう。
帝政の全てが見えていたティベリウスにとって、アグリッピーナなど統治者としての資格云々をいうのも馬鹿馬鹿しい存在だった。
血など、帝位の正当性を証明する一つの方便に過ぎないにもかかわらず、それに固執して反皇帝派を身辺に築き上げようとするなど、神君アウグストゥスの孫娘の名が恥じるというものだった。
ゲルマニクスの生前から、司令官の妻として軍事行動にすら同行してでしゃばっていたというアグリッピーナだが、たかだか将軍の妻であるというだけの身分で軍団運営にまで口を出そうという時点で、つまり元老院が正規に承認するはずもない妻という身分で兵の生殺与奪の権を握ったような顔をしているという時点で、統治者から見れば笑止千万だ。
と、少なくともティベリウスは思っていたのではないだろうか。



また、側近セイアヌス粛清後に彼に突きつけられた事実があった。これも相当ショックだったに違いない。
それは、ティベリウスの亡き息子ドゥルースス(ティベリウスの弟とは別人)の未亡人で、一時セイアヌスとの再婚話も出ていたリヴィアが、実はドゥルーススの生前からセイアヌスとは愛人関係にあり、ドゥルーススの死因も二人が共謀しての毒殺であったということ。
ゲルマニクス亡き後、次の皇帝として考えていた候補の一人であり、最有力者でもあったのが、最初の妻ヴィプサニアとの間に生まれた子、ドゥルーススだった。
才能についてはよくわからないが、人材抜擢の才能にかけては歴代ローマ皇帝の中でも随一とされるティベリウスである。その彼が次の皇帝にと考えていたのだから、凡庸ではなかったはずだ。息子だからという理由で次の皇帝を決められるほど、ティベリウスは無責任でも無思慮でもない。



息子を、よりによってその嫁と自分の側近が語らって暗殺していたという事実。
事実、と書いたが、事実かどうかはわからない。セイアヌスが事前に離婚した妻が、離婚以前に生まれていたセイアヌスとの間の息子まで連座で処刑されたことに悲嘆し自殺したとき、遺書としてティベリウスに送った手紙に書かれていたことだからだ。
それは、あるいは、彼女が妄想的に作り出した「事実」だったかもしれない。
いずれにしろ、それはティベリウスにとっての「真実」になっただろう。
彼は、道具だと思っていたセイアヌスに後継者の命を奪われるという、稀に見る道化を演じていたわけだ。
セイアヌス一派の残酷な粛清は、このことを発端にしているのだろう。老いて気が短くなってもいただろうティベリウスが、理性を失うに充分な衝撃だったはずだ。



さらには、いうまでもない、元老院の退廃。
あるいはこれが一番彼をがっかりさせていただろうか。
最初の方にも書いたが、彼はスーパー名門貴族に生まれ、皇帝一家の長男として育ち、王制時代からの古く高き血筋と、カエサル以降の新時代の栄光と、その双方を受け継ぐという、考えてみれば古代ローマの歴史を一身に集約したような人間である。
そして、共和政時代のローマ史を担っていたのが元老院であり、ティベリウスは「自分は元老院階級の代表者である」という誇りも持っていたはずだ。
ローマで貴族といえば元老院階級のことであり、ティベリウスがその衣鉢を継ぐスーパー名門貴族クラウディウス一門といえば、元老院階級の代表選手というイメージが、確かにある。
であればこそ、ティベリウスが望む高度な政治判断を議論するべき元老院で瑣末な問題ばかりを討議し、肝心なことは全て皇帝に委任する元老院の堕落に腹も立っただろうし、当時退廃を極めつつあった首都の風俗に追随するばかりの元老院階級の骨の無さに愛想も尽かしただろう。
ティベリウスカプリ島にこもって政治をするのは、建前ではまだ元老院が政治の中心であるはずのローマにおいては、政治の壟断と批難され追及されても仕方のないことだった。だが、事実上元老院の介入を許さない体制をとって統治するティベリウスのやり方が、帝国の統治にこの時点では最も適していた。
ティベリウスもそれがわかっていたからそうしたのだろうが、元老院階級の旗手的存在だった自分の姿に誇りもプライドも感じていたはずの彼には、そのあたりの矛盾がやりきれない思いでもあったはずだ。
責任感の強い男には、愚かな女より、責任ある立場にいながら無責任な態度を取る男たちに対しての憤りが強くなる傾向があるのかもしれない。
極端な話、女のことは、別の生き物のことだという割り切りも可能だからだ。
同じ男のくせに、責任を分かち合うべき立場にいるくせに、という思いがあると、その期待が裏切られたときに感じる幻滅は、愚劣なことばかりをする女に詰め寄られるときのうんざり感よりよほど強いものなのだろうと思うが、いかがなものか。
などと書くと、攻撃を受けそうだが。



悪帝、恐怖政治の象徴、などと呼ばれ、悪印象ばかりが強い気難しい皇帝ティベリウスだが、こうした人間に対する絶望の中で、やるべきことは全て完璧なまでにやり遂げていた。
一人の人間としての責任はすべて投げ出してしまっていたかもしれない。だが、公人としての、政治家としての責務は一切放棄しなかった。
セイアヌス粛清の6年後、ティベリウスは病没する。ついに首都ローマには戻らず、カプリ島から程近いカンパーニアの保養地で77年の生涯を閉じた。
それまでの間、帝政の確立にティベリウスは全く手を抜いていない。
まず人材の発掘に力を注いだ。名前を挙げると煩雑になるし、長くなるから控えるが、この直後に訪れる狂帝カリグラの統治と、クラウディウス*1を挟んで訪れる「歌う皇帝」ネロの統治とで、ローマ社会が多少混乱したとはいえ、その体制にひびも入らずに済んだのは、ティベリウスが抜擢した人々が、頑強に帝国を支えたからだとされる。
また、金融政策においても、広大な帝国全域のマネーバランスを一極集中にしないよう、過激なインフレを抑制しつつ、慎重な舵取りを行った。デフレに近い緊縮財政下で首都ローマの市民には不人気だったようだが、地方へのマネーフローを積極的に進めることで国内の財政格差を是正した功績は大きい。
富の格差は、常に国内に緊張をもたらすものだからだ。
また、法の厳正なる施行もティベリウス治下の特徴である。
ローマ帝国とは何かを問うとき、まず最初に出てくるのが、多民族多宗教の世界帝国であるこの国の統治原理がローマ法にあったということだ。
ローマは、法によって立つ。
ティベリウスはその原則を充分に知っていたから、西は大西洋、北はラインからドナウ、西はユーフラテス川、南はサハラ砂漠に至る大帝国の各地に散らばる総督や長官たちに、徹底した厳正なる法の施行を求め、実行させた。そのことは、各地で発掘されている碑文等に詳しいそうだ。私は見ていないから直接は知らないが。



孤独の中で、ティベリウスは事実上カエサルから始まった帝政ローマを、五賢帝の世にまでつながる偉大な帝国に作り上げた。
手段として決して正しい道ばかりを選んだわけではないにしても、世界帝国ローマの全体像をきちんと把握した上で、アウグストゥスによって建設された帝国の礎を磐石のものにし、それを維持すべき機構を作り上げた。
治世後半は、恐怖政治といっても、首都ローマの貴族階級相手の話であり、広大な帝国の各地に暮らす人々にとっては関係のない話だった。地方の経済を安定させ、治安を維持し、法の厳正さを徹底させた功績は、計り知れない。
仮に彼が悪帝だというなら、五賢帝として著名なアントニヌス・ピウスのように、結果として後の帝国の威信低下につながる無策を呈してしまった皇帝の扱いはどう考えれば良いのだろうか。慈悲深い者、という意味の「ピウス」という称号を得ようが、後代に禍根を残すような統治者が良帝とされ、後代に更なる発展の可能性を広げた帝国を遺した統治者が悪帝と呼ばれることに、現代の私は疑問を抱かずにはいられない。
もちろん、彼が犯した陰惨な罪については、それを無視してはならないが。



私は、孤独そのものが彼にとって不幸であったとは思わない。
孤独は、決して淋しいものではない。人の中にいないからこそ心の平安を持てる人間は多いはずだし、人の中にいるとかえって孤独を感じてしまうのも人間の本質だと思う。隠棲し、世から隠れて孤独になっても、彼はそのことに寂しさを感じることは無かっただろう。
彼にとっての不幸は、彼自身の生来の性格から全てが発していたことと、そのことにおそらく彼自身が気付いていたことだと思う。
ティベリウスは生真面目すぎた。真摯すぎた。
アウグストゥスのような偽善も、カエサルのようなしらばっくれも、ティベリウスには無かった。そして、真摯に人間と向き合っていくには、彼は内向的すぎた。内向的な人間が真摯に人と向き合おうとしたとき、疑い、信じようとせずに、その裏を読み取ろうとするものである。気味悪がってしまう生き物である。
そしてそのことに気付いていながら、ティベリウスは朴訥なまでに自分を通し、帝政の確立にのみ心血を注ぎ続けた。
私は、その後姿に惹かれる。
共感を持つ、といったらおこがましいかもしれない。
たとえば、自分の親父があんな性格だったら、と考えると、少々うんざりしないでもない。
だが、彼のような生き方も、一つの男の理想ではないだろうか。人間としては哀しい人生かもしれないが、政治家として、人の賞賛を浴びるためでも自分を満足させるためでもなく、国を作り上げ、維持し、発展させるためだけに捧げる生涯。



悪帝と呼ばれ、死後市民から「ティベリウスをテヴェレに投げ込め!」というお定まりの悪罵を受け石を投げつけられようとも、自分の果たすべき仕事に誰も文句のつけようがない結果を残し、広大なローマ世界に平和をもたらした男。
同情や憐憫などというつまらない気持ちより、私は、ティベリウスに対し憧れのような感情を持っている。
彼は周囲の人々を幸せにする能力に欠けた男だったかもしれない。だが、その代償として、彼は数千万のローマ帝国領内の人々を幸せにした。
政治家とは、結果のみにより評価されるべきであるとするなら、彼は間違いなく偉大な皇帝だった。



カプリ島は、ナポリからすぐにも足を伸ばせるところにある。「青の洞窟」で有名な観光地で、現在でも世界中から観光客を集める風光明媚な土地だ。
海は青く、白い土地と緑のコントラストも美しい。気候は温暖で、少々風は強いようだが、冬でもなければその風も心地よいほどだという。
その岬の突端に広壮な屋敷を構え、ごく少数の友人や官僚組織の人間、世話役の奴隷たちにのみ囲まれながら、晩年のティベリウスはどのように過ごしていたのだろうか。
ロードス島に留学していたくらいだから、哲学や詩には通じていただろう。ギリシアの哲学や文学に触れながら、どこまでも青い海と空を見つめ、それでも決して晴れない胸にかすかな痛みでも感じていたのだろうか。
それとも、死に至る病に冒されるまでの日々を、ひたすら帝国全土から集まる情報に埋もれながらの仕事に捧げていたのだろうか。眉間に深いしわを刻み、威厳というには繊細すぎるものを感じさせる雰囲気をまといながら。
どちらも、ティベリウスらしいという気がする。
いずれにしろ、老いてなお大柄なその体は、側近たちに近寄りがたいものを感じさせていたに違いない。

*1:彼も悪帝といわれているが、ティベリウス同様、現代では再評価されている。