眠い


要するに、新しいキーボードに手を慣れさせるための訓練として、更新を無理やり続けているわけだが、今日はおかげでえらく眠かった。
このところ、我が社は特に関東圏内で傍目にも明らかな人員不足を来たしていて、社員たちが過重労働にさらされている。会社が人員不足を放置しているわけではなく、募集はかけているのだが、なかなか応募がないらしい。確かに、私が所属している事務所に、履歴書や業務経歴書が届いたという話は聞かない。
そのため、一日の仕事量が多く、帰宅が11時前になることが少ない状況が続いている。
にもかかわらず、たまの休みに衝動買いしたキーボードのために寝不足を助長させ自爆するのも、なんとも芸の無い話だ。
特に昼時を過ぎたあたり、2時から4時の間が地獄。電話などしている間はいいのだが、地味な書類チェックなどをしていると、ふと意識が飛んでいる。まあ、前職ではそれを運転中にやっていたのだから、それに比べれば平和な話だといえなくもない。
その地獄の時間を過ぎると、今度は頭痛に襲われる。これも定番だから、慣れはあるものの、不快感がそれで減るわけではない。今日はコーヒーで無理やり意識を保とうとしていたから、途中からは胃が反乱を起こして吐き気にまで襲われるようになった。



私はどうも寝るのが下手で、いつも夜更かしの誘惑に負けて、翌日後悔と眠気の高波に翻弄されることになる。
といって寝つきが悪い方ではない。
ベッドに入ればすぐ眠ってしまうし、特定の場所では無敵の速さを誇る。
電車内だ。
普通に片手でつり革につかまっただけの状態で郊外線の5駅くらいは寝て過ごせるし、座ってしまえば一駅過ぎる間には完全に意識を失っている。
それでいて、酒が入らない限りは、寝過ごすことも無い。
ただ、初めて乗る路線だったりすると危険。以前一度だけ、初めて乗る朝の西武池袋線でやらかした記憶がある。気付いたら快速の一駅を乗り過ごしていた。
酒が入ると乗り過ごしをよくやる。一駅乗り過ごす程度ならかわいいものだからいいが、都心まで出たあたりで気づき、少しの間呆然としてから乗り換えることがままある。終電間近でこれをやると非常に危険なので、そういう場合は空いていても立つようにしている。



今日は別に結論は無い。
仕事中、やたら眠かったなあ、という、それだけの話。


休日は、10時間たたずに起きることはまず無い。14時間くらいは当たり前の世界。平日の3倍近く眠れることになる。
毎週末泊まりに来てくれるような彼女がいた時期は、向こうが起きれば自分も起きるようにしていたからそうでもなかったが、そんな色気が完全に消え去って久しい現在、私の睡眠を妨げるのは、無粋にも休日を平気で踏み潰してかかってくる仕事の電話だけ。
それだけ眠るとかえって眠くなるものらしく、起きて数時間もすると強烈な眠気に襲われ、うっかりそれに身を委ねると、夜になって意識が戻り、焦ることになる。家事労働が終わる前に眠ってしまえば、貴重な休日の家事時間を放棄してしまったことになるし、翌日の仕事のことを考えると、まずいつもの就寝時間になっても眠れなくなっているだろうことが、かなりの重圧になってくる。ああ、明日の仕事時間は地獄だ、と。
さらにいえば、そういう日の翌日は案外乗り切れてしまう場合が多く、そのさらに次の日が真の地獄になる場合が多い。なぜか、睡眠不足はタイムラグをもって体を襲ってくる。



などと書いている時間があったら眠ってしまえばいいわけで。
というわけで、そうすることにする。

談合


前の職場はアパートから歩いて6分という立地だった。
職を変えても住所は変えていないから……というより金が無くて引っ越せないから、うろうろしているとうっかり元同僚と行き会うことがある。
つい先日も、地元の駅に着いて駅前のラーメン屋で腹を満たした帰り道、塾帰りの息子を迎えに来たという元上司と行き会った。
「うちは相変わらずだよ」
恬淡としているその元上司は、以前某東南アジアへ海外旅行に行った際に、現地人から現地人に間違われたという伝説を持つ顔を崩すこともなく言った。


測量設計業界という、土木業界の中に含まれるあまり広くもない業界で働いていた当時、私は技術職から営業職に転属を命じられ、不本意ながらも職務遂行のため談合に加わっていた。
福島県知事とその実弟が主導した汚職事件で、未だに談合体質が改善されていない実態をさらけ出した土木業界だが、これでも私が営業職に回った当時から比べれば、ものの数年でだいぶ風景が変わっている。
以前のこの業界では、まずほぼ全てといっていい物件が談合で業者に配分されていた。競争原理が無いわけではなく、いうほど談合でぼろもうけができていたわけでもなく、そのあたりは社員たちの給料の安さを見ればすぐわかるのだが、それでも談合体質があればこそ生き残っていけた業界であるという現実があった。
公共事業への支出が抑制されるようになったバブル崩壊以後、業界はひたすら縮小傾向にある。民間需要がある建築業界ならともかく、社会基盤整備という、目先の採算では計れない利益を追求するために行われる事業では、公共の資金が投入されなければ、投入される資金が増加する見込みは皆無に近い。
そういった中でパイの奪い合いをしていれば、当然ながら過当競争がおき、ダンピング、つまり不当廉売的な低価格受注が行われ、品質の低下が避けられなくなってくる。


役所の人間が主導して業者間の調整を行い、入札価格を低下させずに受発注が行われる談合を「官製談合」というが、この官製談合の多くは、地元企業を、ダンピング覚悟で攻勢をかけてくる他地域の企業から守ろうという意思の現れだったり、品質低下を恐れ、あえて違法行為を行ってでも確実な技術力を持つ企業を使おうとする意思の現われだったりする。あるいは、数年にわたって行われる工事などで、役所独特の予算制度が邪魔をして単年度契約しか結べない場合に、同一の企業あるいは技術者に業務を担当させるために行われる場合も多い。
この場合、今回の福島県の事件のように、行政トップたちに多額の金が渡ったりする事はなく、業界の規模が小さい分野だと、談合を主導した役所の担当者でさえコーヒー一杯おごってもらえなかったりする。つまり、仕事の質を維持するために行っている必要悪という考え方だから、談合が社会悪だと覚悟しての行為だけに、あえて贈収賄という罪状を自ら付け加えるようなことはしない場合が多い。
自らの良心をそれでわずかでも慰めているという考え方も出来るし、薄給である下っ端の地方公務員ですら哀れみを感じるほど安い給料でこき使われている、各業会の技術者たちへの憐憫の情や同族意識が働いた結果という面も無いわけでは無いだろう。


談合というものを、私は社会悪として断罪するのは当然だと思うし、後世に引き継いでいくべき財産だなどと考えているわけではない。正当な競争が働かないような業界は潰れてしまえばいい、と談合に加わっていた当時から思っていたし、今でもその考えは変わらない。
だからこそ、なのだが、談合に変わるシステムをきちんと作らなければ、業界ががたがたになり、社会基盤整備に致命的欠陥を生み出すことになる。
談合が起きるのは、談合を防ぐ仕組みが出来ていないからだという考え方は、もちろん正しいのだが、それだけだと考えるのは愚劣である。
犯罪が起きるのは警察力が足りないからだと考えるのに似て、その大元を潰していくためにはどうすればいいかという、犯罪予防の考え方が欠けてしまっている。
談合に対する罰を強化し、取締りの仕組みを作ることで談合の消滅を目指すのは正しいことだが、談合を続けていくメリットより、談合をしないでいるメリットの方が大きければ、自然に談合は減少していくだろう。談合のデメリットが罰則以外には無いという現状が、談合の撲滅を目指す社会の流れを阻害している。
罰則を強化すれば談合は縮小するだろうと考えるのは、罰則を強化すれば少年犯罪が減少するだろうと考えているのと同じ事のように、私には思える。いくら罰則が厳しくなろうと、その分陰にこもり潜在化していくだけのことで、少年犯罪が消滅していくことはないだろうし、社会全体が少年犯罪阻止のために教育の根本から見直していかない限り、どんなに取り締まったところで、悪事を犯すガキは罪を犯し続けるのだ。


それでも、罰則の強化などが意味のない行為かといえば、そんな事は無い。実際、談合の数はじりじりと減り続けている。ダンピングが横行しひどい状態になっているところも散見されるが、たとえば指名業者を公表しない、また入札会場無しで入札が行えるため業者間での横の連絡が取りにくい (連絡網を使って取れないこともないが) 電子入札制度を導入するなどの対策が、少しずつ業界を変えている面も、確かにある。
また、業界関係者がいうほど、ダンピングの横行による技術単価の低下で品質低下が起こる、という現象も、起こってはいない。しょせん、だれた仕事をする奴は、金があろうがなかろうがだれた仕事をするものだし、逆もまた然りということなのだろう。もちろん、素晴らしい仕事をするにはそれなりの資金というものが必要で、それを無視した低価格受発注をしていれば、いずれ間違いなく総合的な技術力の低下は避けられなくなるだろうが、それも経営努力や新技術の開発という知恵の部分で補いうる可能性が、いつの時代でも見出せるものだろう。
肝心なのは、価格とそれに見合った技術を提供できるという一定の評価基準を作ることが重要なのであって、闇雲に低価格化を推し進めればいいというものでもないし、逆に低価格化を抑えればそれでいいというものでも無い。
常識的に考えて妥当な線というものがあるだろうし、その線引きが出来る評価体系を作っていけばいい話で、その上でなお談合を行うというのであれば、社会悪として切り捨ててもいいが、それが出来ないうちにぎゃあぎゃあ喚いても、社会は不利益をこうむるばかりである。
臭いものに蓋をするばかりではなく、評価体系作りという面倒で難しい問題にきちんと立ち向かっていく度量と努力が、社会に求められている。
もちろん、社会は今回の福島県での問題などは論外の事件として断罪すべきであり、私もこの事件に同情すべき面は一切見出せない。
ただ、業界の談合体質をただ叩いていればいいというものでは無いということだけは、はっきりといえる。

キーボードお買い上げ


意味もなくキーボードを買い換えた。
いわゆる衝動買い、というものだ。
そもそも電気屋に足を踏み入れたのは、シェーバーの外刃が欠けてしまったためだった。欠けたままだと確実にあごの皮膚をそぎとってくれるため、消耗品だと割り切って買い換えるしかないのがシェーバーの外刃というもの。
それだけにしておけばいいのに、久々に入った電気屋の店内をふらふらしているうち、マウスパッドがよれよれになっていたことを思い出し、どうせ安い買い物だからとPCの売り場に踏み入れてしまった。
最近のノートパソコンはやたら画像がきれいだねえ、まあ、んなの買う金ないけどねえ、などと思いながら売り場を探索しているうち、売り場の片隅、本当に片隅に追いやられているキーボードたちを発見してしまった。
別に今使っているキーボードに不満は無い。パソコンの前で飲み食いをする癖があるため、非常に汚れやすい環境下なのだが、その逆境の中でもめげずに働き続け、未だに購入当時から買い替え無しでキーのひとつも壊れずにいるその健気さには、愛情すら感じている。
ごめん、いい過ぎ。
だが、コーヒー責めにあったりココアの粉がぶちまけられたりしても、キーの動作不良ひとつ起こしていないのは事実。文句をいうほうが罰当たりというものだろう。
たったひとつ、わがままが言えるとすれば、キータッチか。
昔ながらのキーボードだから、ノートパソコンで一般的なパンタグラフ構造ではない。キーが厚く、キータッチが深い。
仕事で使っているのは、前職で技術職から営業職に回されて以来ノートパソコン。職場が変わった今も会社支給のノートパソコンを使っていて、手がノートのキータッチに慣れてしまっている。どちらのキーボードが使いやすいかといわれれば、ノートのキーボードの方がキータッチ的には良い。
ただ、10キーが無いキーボードは入力性が悪く、その点は完全にノートが劣っている。



キーボードコーナーにある何種類かのキーボードを見比べ、最終的に候補をふたつに絞った。
どちらもパンタグラフ構造の薄型キーを採用していて、もちん10キー搭載。変な特殊機能は必要ないので、やたらボタンが多かったりワイヤレスだったりするものではない。
片方は機能性が非常に良さそうで、エンターキーの大きさやキー配置なども優れている。もう一方は若干キー配置に難があるが、デザイン性に優れている。
ここで迷ってしまった。
普段の私なら間違いなくデザイン性を捨て、実用性に走っているはず。
だが今日の私はなぜかデザイン性に走ってしまった。
しかも、デザイン性の高さの代償か、そちらの方が1500円は高かったというのに。


ELPK106SV


シルバーの製品。しかし重いなこのページ。時間帯のせいもあるんだろうか。


早速使ってみての感想だが、今まで使っていたキーボードとは配置が異なるためか、単純な誤入力の回数が多い。こればかりは慣れの問題だから、製品の責任では無いだろうが。
特に、DELキーが思わぬところにある。スペースキーの右、3つ先。下側にINS、DELキーがあるという配置にちょっと戸惑ったりしている。
さらに、今時かな入力という希少種の人間にとって少々問題なのが、「ろ」のキーが、最下段の列に紛れ込んでいること。左スクロールとDELキーに挟まれているという絶好の立地にあるから、誤入力花盛り。滅多に使わない文字だからそこに配置されているわけだが、思わず右手の小指や薬指がふらふらと踊ってしまったりする。
一番の問題はエンターキーの小ささ。普通のキー2つ分の大きさしか無いため、右小指がずれて別のキーを叩いていたりする。


そういう問題があるということを店頭で確認していても、つい買ってしまった。
デザインに惹かれたといいたいところだが、製造元がいうほど造形に惹かれるものは感じていない。要はパンタグラフ構造のキーであれば良かったので、別の物を買ってきても何ら問題は無かった。
それでもこれを選んだのは、たぶん、もう一方の候補が、あまりに無個性だったからだろう。「私を選んで」という訴えかけがなかった、というところ。
キーボードを選ぶなどという行為が選択肢に無かった10数年前を考えれば隔世の感があるが、いまやパソコン市場も成熟市場になってしまい、少年期の私にはとうてい想像もできなかった、PCサプライ製品がコンビニやスーパーで買える時代になってしまった。マウスやキーボードもファッション感覚で選べるようになって久しいし、商品も多様化している。
ささやかながらその中に飛び込む機会になったわけだが、こういう市場になってくると、今回の私のように、ろくに考えもせずに「こっちの方が惹かれるやー」と買ってしまう消費者が増加してくるわけで、パソコンにそれほど思い入れもないライトユーザー相手に商売するには、機能面以外での付加価値を商品に盛り込む必要性が高くなってくる。
昔々、PC-8801というパソコンを見て、フロッピーディスクの差込口にあるレバーにときめいたという少年期を過ごした私にとって、近所の家電量販店でキーボードを選べる時代が来たというだけで(もちろん数年前からとっくにその時代だが)、ちょっと感慨深くなったりもするのだった。

わずかな誇り


世に様々な問題があり、語るべきことはいくらでもあるのに、それを語れないのは、間違いなく自分のことで手一杯になっているからだろう。
自分自身をすら持て余している状況では、外に目を向けることなどできない。外界の事象を目に入れて行こうという気力が、そもそも湧かない。内にこもり、閉ざし、光の差さない風景の中でじっと膝を抱いているような状況が続いていた。
今もそれが続いているが、ちょっと気分転換になるような仕事が先週の水曜日と今日、転がってきたせいか、少し気分が晴れている。
誰かと話がしたい、などという、年に何回も湧かない欲求に捉われるのはこんな時だ。生来の引きこもり体質ゆえに、別に一人でいることが寂しいとは思わないのだが、気の置けない友人などと無駄話に興じたり、深刻な顔をしながら陰険で凶悪な冗談を交わし「おぬしも悪よのう」などとバカ話で盛り上がったりするのもいいかな、と思える時がある。
もっとも、気の置けない友人関係というものをバキバキとへし折って歩いてきた人生のおかげで、そんな気を起こしたところで、話す相手がいるわけでも無い。なかなか難儀な体質である。



仕事の一環で、300名を前に舞台上で歌うという奇天烈な行為を行った。最近のことだ。
準備期間を3日しか置かないという暴挙は、舞台上で頭が真っ白になって歌詞が全て飛ぶという無様を呼ぶ結果にはなったが、予定通り馬鹿をさらけ出すことは出来たので、ぎりぎり成功というところ。もう少しまともな準備をしていればなお良かったが、まあ、自業自得なので、次回への反省点としておく。
わりと大人数の前で歌うといったことは平気な方で、むしろ中途半端な人数の前で喋らされる方が緊張する。アドリブが利かない=頭の回転が良くない人間なので、何か質問などを振られると一気に崩れてしまう。
だいたいにして、引きこもりの人間が人前で喋るということ自体が無茶なわけで、コミュニケーション不全であるがゆえに一人を好んでいる人間なのだから、対人関係の構築や折衝能力、弁論力を求められても困る。
それでいて営業職になど就いているのだから呆れた話だが、手に職があるわけでもない無能な人間には、無理でも口と足で稼いでいくほか道が無い。



などと愚痴を書いてみたりしたが、匿名性の高いネットでの愚痴というもの、非常にありがたい。書き捨て、されど誰が読むともしれない、という曖昧さが、愚痴の掃き捨て場として貴重である。
もちろん、知り合いが時々目を通していたりするのだが、知り合いといってもネット上での知り合いばかりであり、明日明後日会うという人間が見ているわけではない。誰に迷惑をかけるでもなく、家族や友人が見たら心配のあまり電話でもかけてきかねないようなことを書いても、どこからか反応が返って来るわけでも無いという気安さがありがたい。
なるほど、ブログの効用ここにありだな、という気がする。
誰も目に出来ないところに書いても気が晴れない駄文をそ知らぬ顔でネットの片隅で垂れ流し、そのことで誰かに怒られたりするわけでもなく、日に数百億のログの中に静かに埋もれていくという希薄な存在感がなんとも好ましい。
ゼロではないが限りなくゼロに近い存在感。
完全な匿名ではないが限りなく匿名に近い自我。
私のような中途半端な引きこもりにはたまらないぬるま湯なのだが、残念ながら、ここには私が生きる術を見出すことはできない。生きるためには、食っていくためには、リアルで働き、痛めつけられても立ち上がり、存在を否定されてもしがみついていかなければならない。
大半の人間はそういう苦しみを抱えながら、それでもなんとか踏みとどまって戦っているわけだが、自分もそうして何とか生きているという事実に、少しだけ誇りを見出してもいいのかな、という気がしている。

世はなべて事も無く

kotosys2006-10-05




画像は、我がアパートの角部屋にある出窓からのぞく怪奇現象。
どうも美容師見習いがお住まいのようなのだが、階段に張り出した出窓からこれがどーんと私を見つめていたので、衝撃で階段を踏み外しそうになった。
勘弁してくれ、こっちは慣れてないんだから、そういうのには。

タイ政変


タイの軍事クーデターが話題になっている。
自国の首相が変わる時期に他国のネタを引っ張ってきてもしかたがないのだが、安倍晋三のことなどこれからいくらでも触れる機会があるだろうから、二度と書くこともないだろう、タイの政変について少し考えてみる方が、やっていて楽しい。
楽しがる事件でもないわけだが。
ただ、以前チャットなどをやっていた時期、日本語を学んでいるタイ人と親しくなったことがあり、その影響で多少タイについて調べたりもしたから、もともとタイには親近感がある。
すくなくとも、選挙前の資金集めのパーティに会社の営業付き合いで借り出され、その時に流れで握手してしまった安倍晋三より、毎日のようにあいさつを交わしていた友人がいる国の事件の方が、今のところ私にとって興味深いのは事実だ。



今回の軍事クーデターはほぼ無血で終結しそうである。
いつの頃だったか、軍の力を背景に強権に走る首相と、対峙する民主化指導者らとの抗争が激化したとき、双方が国王の不興を買って結局土下座して泣きを入れたという事件もあったが、タイという国、実はクーデターはそれほど珍しくも無い。
東南アジアでは最も民主主義が成熟した国のひとつとされているタイだが、つい15年ほど前までは事実上の軍政下にあった国でもある。軍政の国で、立憲君主制で、という特異な国だったのだが、国王の権威が日本では想像もつかないほど高いため、軍政もそれほど苛烈なものではなかったようだ。隣国ミャンマー軍事独裁政権とは異なり、民衆の尊崇を集める国王の意向を無視して独裁政権を維持できる勢力は少なく、そういったものが現れても、その内に別勢力が国王の示唆を受けてクーデータを起こし、打倒してしまうこともあった。



ラーマ9世プミポン・アドゥンヤデート王、というこの人物が非常に興味深い。
立憲君主制の国のタイでは国王に統治権は無いのだが、そのわりに、国を揺るがす大事件を起こしている二大勢力のリーダーたちを玉座の前にひざまずかせ、一晩説教して事態を収めてしまうという偉業を成し遂げたりしている。
ついさっきまで血で血を洗うような抗争を繰り広げていた両陣営のリーダーを御前に呼びつける、それが出来るだけでも大したものだが、あまつさえ、いい大人を玉座の前に正座させて夜を徹しての大説教、食らった連中も泣きに泣いての詫び入れ騒動、というこの図の滑稽さ、凄み、楽しさはどうだろう。
立場や歴史の持つ権威だけで、それが出来るはずもない。僧歴も持つ穏やかな人物像で知られる王だが、穏やかなだけの人物が、一人で国内の騒乱を収めてしまうほどの権威を発揮できるはずも無い。ある種の人格的な威力、迫力というものが、プミポン国王には備わっているのだろう。



今回の騒動で喜劇の主役になってしまっているタクシン首相は、不正資金疑惑で一気に政治不信を増大させたことで下院の解散を余儀なくされたが、その選挙で大勝を収めた。この4月のことだ。
それは野党が選挙そのものに反発して白票が積み上げられた結果であり、国民の信を問うた選挙としてはあまり意義があるものとはいえなかったが、勝ちは勝ちであり、タクシン首相も勝利を宣言すると、そのまま首相の座に居座ろうとした。
が、勝利の余韻にひたったままで国王に謁見した彼は、その日の内に退陣を表明。
何が起きたかは推測でしか語れないそうだが、まあ、タクシンがこのまま首相に座に固執していては、治まるものも治まるまいと考えた国王が、国内政治の安定化のために彼に自主的な退陣を求めたのだろう、という辺りが正解らしい。
退陣表明周辺で流された彼の映像は、いかにも憔悴しきっていて、選挙時の彼の剛腹な態度とはうって変わっていた。調子に乗って暴れていた小僧が、親父に怒鳴られてしょげ返っているようだ、などと書くといくらなんでも酷いたとえではあるが、そんな感じに見えて私は笑ってしまった覚えがある。



ただ、退陣後の彼のやり方は良くなかった。
副首相が首相権限を代行し、次期政権までのつなぎ役を果たすという建前の元、退陣したはずのタクシンが院政をしいたのだ。
院政、というのは語弊があるかもしれない。実質的にはタクシンが以前同様の権力を握り、国政を動かしていたからだ。であればこそ、今回のようなことも起きた。タクシンが首相として外遊に出たからこそ、その隙をついてのクーデターが起きたといえる。
どう好意的に見ても、タクシンのやられっぷりは見事というほかなく、その間抜けっぷりは歴史的なものに思える。



タクシンがいない隙にクーデターを起こす、という絵を描いたのが誰かはわからないが、それが最も国内を乱さずに政治の正常化をもたらす手段だ、とタイ国民自身が考えているからこそ、この穏やかな軍事クーデターが成立しているのは間違いない。
このクーデターの素案が国王に提示され、国王がそれを承認したのではないか、という推測も諸外国筋では流れているようだが、タイの人々はそういうことはあまり考えないようだ。不敬に当たる考えだから、あえて考えないようにしているのだろう。
国内の安定を望む現実主義のマキアヴェッリズムから考えれば、今回のクーデターは、軍部の独走を排除できさえすれば非常に効率がいい。機能不全に陥っている政界を、一時的な強権発動で一極化し、混乱を収束させた上で民主政治に速やかに移行する、その手段としては効率がいい。
もちろん法に基づかない行為だから弾劾されて然るべきではあるが、政治とは結果である。目的が正しく達成され、結果として国民の福祉につながるのであれば、あらゆる手段は正当化されるのが政治だ。
ただ、軍によるクーデターという手段はあまりにも強すぎる劇薬であり、たいていの場合上手くいかない。結果に結びつかない場合が多いから、手段としては忌避される。
ただし、その軍を抑えられる力を持つ権威がある場合は、その限りでは無い。今回のタイの政変では、その権威は厳然として存在する。プミポン国王だ。
高齢になり、現在では公務を減らして半ば隠退生活を送っている国王だが、その絶大な権威は、軍の独走を決して許さない。軍部もそれを充分すぎるほど知っているから、国王に対する絶対的な尊崇を表明するため、銃に国王のシンボルカラーである黄色のリボンをつけたり、幹部連も事あるごとに国王への敬意と速やかな民主体制への移行を表明している。



国王が亡くなったら、国王個人のカリスマと、デリケートな政治姿勢とが生み出している絶妙なバランスで成り立つこの不思議な体制は、確実に崩れるだろう。
そうなったときに、タイという国がどう変化していくのか、外から見ていられる日本人としては非常に興味深いが、これも不敬に当たる考え方だろうか。
とりあえずは現在の軍事政権がどれだけ速やかに権限の移譲を達成できるか、その受け皿となる民主勢力がどれだけ上手く政権運営できるか、それを見ていくことになるが、国内の混乱にいい加減うんざりしている国民たちは、どのように事態を眺めているのだろうか。
久しぶりにタイの友人に連絡を取ってみようか、と思ったりもする夜だった。

英雄引退

勤務表上では今週末の日程は完全オフ、奇跡の3連休のはずなのだが、昨日も今日もフルで仕事、祝日の明日も仕事、代休無しという不思議な事態に陥っている。もう少し社員をいたわってくれても良さそうなものだが、言っても仕方が無いので粛々と業務に励むことにする。



ちょっと古い話題だが、一応ファンなので軽く触れておくだけ。



これまでのF1史上、そして将来的にもたぶん不世出のチャンピオン・ドライバー、M.シューマッハが引退する。
とにかく彼の記録は破格であり、これを破るドライバーが出てくることを期待するのは間違っている気がする。今後どのようにF1というレース・シリーズが進んでいくかはわからないが、いくらドライバーデビューの若年化が進んで長期間の活躍も可能になっているとはいえ、この男のように10年以上にわたってチャンピオン争いを主導していける力を持った人間が、そうごろごろ出てくるとは思えない。
ドライバーとしての速さ、という点で、彼が天才「的」であることは間違いないが、天才と呼んでいいかどうかは議論が分かれる。というのも、カーレースは、特にF1は車の出来不出来が結果に直結するからだ。ドライバーがどんなに良くても、20年前ならともかく、技術的に非常にシビアな現代のF1では、車がクソでは勝てるわけがない。まぐれの1勝2勝でシーズンを制することが可能なほど甘い世界ではない。
ただ、このシューマッハという偉材は、レースに勝つために生まれたといってもいいほど、総合力で抜きん出ている。
レースは、機械としての車が力を持ち、車を作る人間たちが力を持ち、それを支える財政力があり、かつ最後にそれを操る人間が力を持っていなければ、よほどのつきが無い限り勝つことはできない。
シューマッハは、機械としての車を作るためにドライバーが出来る最大限の力を発揮するし、車を作る人間たちのやる気を出させるための気配りではF1界随一といわれているし、ドイツ人ドライバーの英雄としてスポンサーを引きつける力を持っているし、ドライビング能力にはデビュー時から定評がある。
サイボーグと呼ばれるほど、トレーニングによって作り上げられた身体能力は、他のドライバーたちの水準を超えている。その体力を基盤に、レース中に集中力を切らすことなく、要所を締めるドライビングでサーキットを支配するその力は、人間離れしてさえ見えた。
勝利への執念の強さは、彼の履歴を見てみれば一目瞭然。チャンピオン争いがかかっている一戦で、強引きわまりないドライビングでライバルに激突し、チャンピオン剥奪の憂き目にあったことするある。
そういった姿勢が傲慢不遜で危険な人物との評判につながり、悪役のイメージが定着した時期もあった。今でもそう見る人間は多いらしい。



私は初めからシューマッハ好きを公言していたが、これはどうも私の性格らしい。
たとえが相撲だと不適当な気もするが、たとえば、私は幕内昇進のころから朝青龍好きを公言していて、今でも変わらない。それは、朝青龍が、単に相撲に強さにとどまらない、勝負の場に立ったときの人間的な強さを持っているように見えるからだ。以前も書いたが、土俵上で見せる朝青龍のガン飛ばしがお気に入りというあたりに、私の好みが表れている。
なにも朝青龍と同じタイプの人間だなどという気は無いが、シューマッハからも同様の強さが感じられる。
速いドライバーならいくらでもいる。
当たり前である。どれだけのドライバーが、F1という世界最高の舞台に立つために努力し、報われずに消えていることか。それらを蹴落として勝ちあがってきたドライバーだけが(間違って入ってくる者も年に一人二人いるが)走っているのだから、トップドライバーと呼ばれる人種が速くない訳が無い。
最近でいえば、ライコネンは間違いなく速い。アロンソも速いし、なんだかんだいって速さだけならモントーヤだって速い。なかなか報われないが、バトンも速い。琢磨の速さは私は少々疑問符をつけているのだが、トップの一団から比べればという話で、トップカテゴリーで走る能力は間違いなく備えている。
少しさかのぼれば、シューマッハの唯一のライバルだったといえるミカ・ハッキネンも、乗れているときの速さは異常なほどだった。今のライコネンアロンソが想像の範囲内での速さと感じられるのに対し、年に数度だが、ハッキネンは車のスペックを越えているのではないかと思える恐ろしい速さを見せた。
だが、彼らにはシューマッハから感じられる強さが感じられない。アロンソには強さが垣間見えるが、シューマッハの前には完全にかすむ程度のものだ。なぜなら、シューマッハの強さはレース以外でも見られるのに対し、アロンソの強さは調子良く走っている時にしか感じられないからだ。
レース以外で感じる強さとは、たとえばプレシーズンでのテスト走行時の、シューマッハの姿勢だ。
車は、当たり前だがタイヤを履いている。地面に接しているのはタイヤだけで、車が加速しようがブレーキをかけようが、力はすべてタイヤを通じて路面に伝えられ、車を支配する。だからタイヤの性能というものは、他の要素を圧するほどに大きい。
フェラーリと組んでいるブリヂストンのスタッフが口をそろえていうのは、タイヤに対するシューマッハのこだわりの強さ、理解の深さ、開発への執念だ。彼ほどタイヤを知っているドライバーはいない、彼ほどタイヤのために力を注ぐドライバーはいない、彼ほどタイヤスタッフに語りかけてくるドライバーはいない、誰もがそう口をそろえる。
車とはタイヤだけで走るわけではないから、それ以外のスタッフがチームには腐るほどいるわけだが、これらスタッフたちもシューマッハに対し忠誠心といってもいいのではないかと思えるほどの好意を示す。
これは、彼が気配りに長けているからでもあるだろうが、それ以上に、レースに対する情熱や取り組み、レースで見せる速さや出してくる結果が、スタッフたちを鼓舞するからだろう。人間性だけで人が付いてくるような世界ではない。
シューマッハの強さとは、レース中だけでは無い、その準備期間や終了後の時間までも含めた、トータルでの総合力の高さである。とにかく、飛びぬけて、強い。



シューマッハのレースは時に汚い。
チームメイトを平気で犠牲にするし、ライバルからポイントを奪うためなら手段を選ばないこともある。そういった負の面を否定するつもりはさらさら無い。非難すべき部分は大いに非難しなければ、レースが死ぬ。
逆に、彼が人間的でないという見方を否定するために、たとえばセナのポールポジション記録を塗り替えたときに涙を見せたことなどを、取り立てて持ち出す気にもならない。人間的でない人間が、多くの人間と関わりを持っていかなければならないF1ドライバーを続けていけるはずがなく、まして10年以上トップドライバーとして君臨できるはずがない。
行為については非難もするし、弁護する気も無いが、彼のドライバーとしての不世出の強さだけは、どうにも愛してやまない私がいる。
シューマッハは意外にオーバーテイクが少ない、実はそれほど速くないんじゃないの」
というコメントを見たり聞いたりしても、それと強さとは別次元の問題だと思うから、「ああ、そうかもねえ」とうなずいてしまうだけ。そんなものはレース中の状況でいくらでも答えが変わるものでもある。



軽く触れるだけのつもりが長くなってしまったが、シューマッハのライバルは誰か、またはいたのかどうか、というよくある質問には、私はハッキネンだけだったと答えたい。
アロンソライコネンには申し訳ないが、彼らにまだまだシューマッハとタメをはるだけの力は無い。彼の強さに対抗するためには、上でも書いたが、ハッキネンのような、シューマッハに「今日の彼は手が付けられなかった」と言わしめるような、ちょっとありえない速さを見せ付けるという難事がどうしても必要になるのだが、彼らにはまだそういった限界を超えているかのような速さが見られない。まして、強さは無い。
懐古主義のように聞こえるかもしれないが、マクラーレンが絶対的な速さを見せ付けたシーズンの二人の対決は、見ていてわくわくした。速さと強さの対決に、私は問答無用で惹き付けられた。日本でのF1人気が低迷していた時期のほうが、どうも面白かった気がする。
ハッキネン引退後のフェラーリ全盛期はさすがにつまらなかったが。