ある英国貴族

私は「COURRiER JAPON」という雑誌をよく読んでいるのだが、最新号の特集記事を斜め読みしていて、英国の億万長者ランキングの表を何気なく見て驚かされた。
3位に、ウェストミンスター公爵という名があったからだ。
インドやロシア出身の億万長者が多いのは、まあ納得できる。インドは大英帝国の植民地として今も英国とは深い縁があるし、ロシアの新興財閥「オリガルヒ」が、移住者優遇の税制や治安、ステイタスの面から英国に惹かれてくるのも理解できる。
が、この時代に、本物の貴族が億万長者のランキング上位に食い込んでくるというのが、時代錯誤といおうか、さすが英国といおうか、なんともいいがたい気分にさせられる。



日本にも長らく貴族階級が存在していた。
古くは公家、つまり京都の貴族。鎌倉期以降、地方武士団の長たちが武家貴族になったり、封建制が確立した江戸期には大小名が実質的な支配層として国内に君臨した。
これらの貴族は現在、ほとんどが絶滅している。名が残っている家はあるが、実質が残っている家はごく少ない。
明治維新を迎え、新たに生まれた貴族を「華族」といったが、これは倒幕に寄与した顕官と、版籍奉還で大名の位を失う代償としてその位を与えられた人々のこと。
中世以降、一般に日本の貴族と言った場合、まず思い浮かぶのは、戦前まで生き残っていたこの華族階級のことになるだろうか。



華族と英国貴族は、根本的に異なるといっていい。
ともに貴族という、国家が認めた特権階級であることは変わりが無いのだが、その特権がどこに依存しているか、背景がどこにあるかが全く違っている。
日本の華族は、江戸期に完成した特異な封建体制の影を引きずっていたのか、固有の領地をもたない。自分の土地を持っていたとしても、その規模は小さい。華族の経済は国家からの支出から成り立っていた。
一方で、英国貴族は、基本的に自前の広大な領地を背景にしている。王から与えられた土地は、与えられた瞬間からその家の領地であり、土地から生まれる利益が貴族の財政を支える。



江戸期の大名たちと比較した方がわかりやすいかもしれない。
大名たちはそれぞれ領国を与えられていたが、度々転封があったことからもわかる通り、幕府がそれを割り当てていたに過ぎず、戦国期に周辺諸国を刈り取って築いた大封を持つ一部の外様大名以外は、ほとんどが土地の者からすれば余所者の武士団だった。
しかも、大名家が持っていたのは土地に対する支配権であって、所有権では無かった。地生えの大名として代表的な例を挙げれば、薩摩の島津家あたりになるだろうが、専制体制を築いていたとすらいえる島津家ですら、領内の土地全てを自領としていたわけではない。
まして、織豊期に活躍して成り上がった大名たちは、地侍や農民たちの上に乗っかっていただけで、領国を自分のものだと思う意識はあったとしても、この土地全てはオレのものだ、という意識が当主たちにあったかは疑問だ。
そのあたりの機微は、幕末維新期の歴史をちょっと見ればすぐわかる。
それまでの藩を廃止し、領主たちを領国からひきはなしてしまった「版籍奉還」だが、これを引き金に国内で大騒乱が起こった、という事実は無い。
これが他国であれば血を見ずに終わるはずはない。自分たちの土地から引き離されるということは、財産を丸ごと奪われるに等しいはずだからだ。だが、日本の大名たちは、ほとんどがこれを喜んだという。
なぜかといえば、藩の経営など、幕末期にはほとんどの藩が破綻していたからだ。理由は様々だが、最大の理由は、江戸体制の財政が米を主体にしていたことだろう。以前にもこのブログのどこかに書いたが、米を基軸にした幕藩体制は、貨幣経済が膨張し続ける中で相対的に市場の縮小を余儀なくされ、経営が立ち行かなくなっていた。
その経営をしなくてもいい、しかも領地に応じて華族としての金銭が支払われる、というのだから、大名たちはむしろほっとしたらしい。
土地の分配で成り立つはずの「封建制」だが、江戸封建体制が特異といわれるのは、支配権は与えられるが所有権は与えられないという、土地に対する考え方にある。



ちなみに、この項ではあくまで一般論を扱っている。何事にも例外というものはあるので、鵜呑みにしてはいけない。



一方で、英国貴族の「封建制」は、土地の所有権を与えられる。
貴族制度というのはその国その国で異なり、たとえば帝政ロシアの貴族制は「農奴」という土地に固定された奴隷農民を支配することで成り立っているし、ルネサンス期イタリアの都市国家の貴族などは、寸土も持たない商人だったり、商船主だったりする者もいた。
が、基本的にヨーロッパでいう貴族とは、大土地所有者のことであると考えて、概ね間違っていない。
日本のように、大土地所有者が「庄屋」と呼ばれて農民の代表となり、武士階級の支配を肩代わりするような構図は、あまりヨーロッパでは見られない。
英国では大土地所有者が貴族であるという構図がけっこう明白で、たとえば、国内最大の貴族でもある英国王家は、英国最大級の大地主でもある。
王家の跡継ぎである皇太子は、プリンス・オブ・ウェールズの称号を持つが、これは完全な称号であって、別に実質はない。ただ、皇太子が国王の長子である場合についてくる称号がある。「コーンウォール公爵」という、伝統ある貴族家の名だ。*1
現在のコーンウォール公はいわずとしれたチャールズ皇太子だが、主にブリテン島南部に点在する領地からの収入は莫大で、年間1000万ポンド、日本円にして22億円ほどにもなる。総資産がいくらになるかは調べていないが、収益がこれだけ上がるのだから、莫大なものであることは間違いない。



冒頭に紹介したウェストミンスター公は、英国貴族の封建貴族の中で、もっとも富を産む土地を持った貴族。
ウェストミンスター公爵グロスヴェナー家がほぼ現在の領地を手にした頃は、それほど富んだ一族だったわけではないが、立地が良かった。17世紀後半のロンドン郊外にあった公家の土地は、現代のロンドンの中心部、現在のメイフェア、ベルグラヴィア周辺にあたる。英国で最も高額な不動産がある地区、とされているそうだ。
現代でもこの地区を中心に大量の不動産を維持しているウェストミンスター家は、英国で最も裕福な貴族であり、既述の通り英国で3番目の富豪でもある。
どれだけ中心部か、この地区にある街路や建物の名前を列挙すれば、見覚えのあるものが必ずあるだろう。
ボンド・ストリート。ハイド・パーク・コーナー。ピカデリー・サーカス。リージェント・ストリート。サヴィル・ロウ。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ。アメリカ大使館も地区内にある。
公家の総資産は66億ポンドというから、日本円では1兆4000億円ほどか。これが代々続く世襲財産なのだから呆れる。
ビル・ゲイツなど、彼らからすればぽっと出の新興成金に過ぎないし、アメリカを代表するロックフェラー財閥ですら、あるいはぽっと出扱いかもしれない。なにしろ、公家誕生の頃、ヨーロッパではまだフランス革命も起きていない。太陽王ルイ14世の時代、ベルサイユのバラはまだまだ先の話だ。



金融の一大中心地として、また議会制民主主義国の代表格として、英国は現代の世界でも有数の先進国であることは間違いないが、一方で封建貴族が強い力を持つ、不思議な国でもある。
中世からの貴族が表に出ずに国家を陰からあやつっている、という不気味な構図が小説や映画、マンガなどで描かれたりするが、決して根拠の無い話ではないあたりが、英国という国の凄みでもあり、また魅力でもある。

*1:このあたりの貴族制を詳述すると、書いている自分でもよくわからなくなってくる。英国の貴族制度は、それを完全に理解している人間はいないとされるほど難解なのだそうだ。

メモリー

すっかり読書づいてしまった。
このところ更新停滞気味なのはそのせい。
何冊かまとめ読みしているのだが、その内のひとつを手短にご紹介。

メモリー 上 (創元SF文庫)

メモリー 上 (創元SF文庫)

SF。見てのとおり。


ビジョルドという人気作家の代表作「ワームホール・ネクサス・シリーズ」の邦訳最新刊。SFの2大賞、ヒューゴー賞ネビュラ賞を何度も獲っているシリーズといえば、数多いSF作品の中でも注目すべきものだということがわかる。
舞台は宇宙、人類が宇宙に殖民を開始し、外宇宙に飛び出して幾世紀。
殖民したはいいが、他の人類との接触を一切断たれ、惑星内の文明に逆戻りして生活していた世界が、再び宇宙文明へ復帰する運命に巻き込まれ、新たな星間帝国として勃興する。
その帝国、バラヤーの名門貴族の家に生まれたのが主人公マイルズ・ヴォルコシガン。
父は皇帝の摂政、母はその昔皇帝を守って内乱を戦った経歴を持つという、きわめつきの名門貴族に、跡取りとして生まれたマイルズ。
だが、妊娠中の母が、父を狙った毒ガステロに巻き込まれたために、彼は生まれつき骨の生育が阻害されるという重い障害を持ってしまう。突然変異(ミュータント)とよばれ、後ろ指を

恋は度胸


睡眠不足で頭が痛いので、今日は考える必要も無い中身でさらっと流すでFA。

告白するタイミングを逃したら、もう2度とチャンスは来ないですか?

タイミングなどといっている人は告白なんか出来ません。


するんです。
したいんなら。
タイミングなど自分で作るものです。
そのくらいのクソ度胸で臨んで下さい。

直接告白したことのある人に質問です。
どんなタイミングで告白しましたか?
呼び出しとかってちょっとやりづらいですよね…


何かの帰り道、というのは、勢いが付けやすくて告白しやすいタイミングです。
たとえば、ちょっとした飲み会の帰り道、二人きりになって、このまま別れるのは嫌だという強い想いが出てくると、自分自身の背を押しやすくなります。
告白のタイミングなんてものは自分の背をどれだけ強く押せるかの勝負です。度胸さえあればどこでだって告白なんかできます。
タイミングは自分で作り出すものですから、いい雰囲気になったらなんて偶然頼みな考えを持っているうちは、告白なんかできません。
タイミングが取れない、とか考えてる暇があったら、呼び出してでも告白するというクソ度胸を決めてしまいましょう。


好きな人に好きと告げるのは恐ろしいことだ。
なぜ恐ろしいか、それは相手の心がわからないから。
相手のことを好きになると、まず間違いなく相手の心がわからなくなり、混乱する。私などが書かなくとも、誰でも経験くらいあるだろう。
その恐怖を振り払って告白まで至るのには相当なエネルギーが必要で、簡単に人にぽんぽん告白できる人間などそうはいない。
「いや、いるいる」
と反論する人もいるだろうが、そういう人間は告白しているのではなく、篭絡しているのだ。とりあえず気になった異性をキープし、その後関係が発展すればよし、しなければ清算すればよし、という考えからどんどん相手に迫っていくというタイプであり、思いを募らせて告白するというタイプではない。


それでも、想いは伝えなければ通じない。
そうでない場合もあるが、初めからそれを期待していたら、成就する恋も成就しない。
恋も戦争も、無駄な精神論や神風を期待する気持ちなど不要。どんなに念じても祈っても通じるものではないし、奇跡を待っているうちに横からさらわれる可能性も高い。
伝えて初めて恋は成就する。伝えない恋は存在しない恋である。脳内の幻でしかない。そのくらいに考えておいたほうがいい。



告白するには雰囲気が、という言葉もよく聞くが、これもどうだろうか。
この意見、突き詰めると、自分の事しか考えていない場合が多い。
「告白しやすい雰囲気、相手に告げやすい雰囲気が欲しい」
と考えるのは当然のことだが、自分でその雰囲気を作ろうとするならともかく、それすら他人にすがったり、自然な流れでそうなったら告白しようなどと甘いことを考えているうちに、すっかりタイミングを逸して他人に奪われてしまったり、というタイプが意外に多い。
告白で何がしたいんだ、と私は問う。以前の実話。
相手はきょとんとする。
好きなひとに気持ちを伝えるんでしょ、と答えるから、違うだろ、と答えた。
告白とは、相手に自分の気持ちを伝えるのが目的ではない。思いを伝えた上で、自分の要求(付き合って欲しい、結婚して欲しい、その他もろもろ)を相手に認めさせるのが告白だ。
そういう内容のことをいうと、相手は目を丸くしていた。
あえて過激な言葉にしてはいるが、つまるところ、そうだろう。
であれば、相手が受け入れやすいようにするのが第一で、自分が告白しやすい雰囲気を探すなど甘ったれの論理でしかない。相手が聞きやすい雰囲気を作るのが先決だろう。
ふたつの考え方は、似ているようで、根本的に違っている。自分を中心に考えるか、相手を中心に考えるか。


相手を中心にして考えたとき、自分の都合はひとまず措いて、相手が自分の言葉を聞きやすい環境とは何かを考えなければならない。
それを突き詰めると、結局は自分がいいやすい雰囲気になっていく。
相手が自分の言葉以外に気をとられない環境を作ること、相手に圧迫感を与えずに場の雰囲気に好感を持ってもらえるようにすること、などを積み重ねていくと、イコール自分が言葉をつむぎやすい環境につながっていく。
告白しやすい雰囲気とは、相手が告白を聞きやすい雰囲気に他ならない。


そこで初めて、自分の立場で考えてみればいい。
いったん相手のことは忘れ、自分なら、告白をどういう場面で聞きたいかを考える。どういう場なら告白を受け入れやすいか。
具体的に考える土台ができたのだから、そう難しいことではない。漠然と雰囲気雰囲気などといっていてはわからないが、自分の身に即して考えればすぐ答えは出る。
それが出たら、次に相手の立場に当てはめてみればいい。
さらに、それを現実化していくために自分がどうすればいいかを考えられれば、あとは度胸あるのみ。


その度胸を出すのが大変なわけだが。
こればかりは本人次第としかいいようがないのだが、「男女の友情が続いていくならそれでもいい」と考えているのか、「もう友達を続けていくこともできないくらい好き」なのかで、こちらも出す答えは変わってくる。
前者なら、私は突き放す。好きにすればよろしい。
後者なら、背を蹴っ飛ばす。そこまでの想いがあるなら、告白してもしなくてもいずれ今の関係は壊れるからだ。
その壊れる向きが、恋に向かうのか、失恋に向かうのか、それは両人次第。ただ、どのみち壊れるのだという一点だけは断言できる。
現状維持が難しいほどに片方の想いが募っていたら、そのままの関係を続けていくのは双方にとってストレスになる。自虐的にそのストレスを味わいたいのなら止めはしないが、そうでないのなら、結果を出してしまった方がいい。
ダメならダメでしかたがない。それが恋愛というものだ。



実ったら。
その時は心の底からひがみ、そねみ、悔しがってあげよう。

幼い命の拠り所

Firefoxユーザーなのだが、glowyblue ver.2.3.2 というテーマがツボった。しばらくこれでいこうと思っている。
どうでもいいが、日本語化するエクステンションがどうとかいう前に、テーマのページを日本語化してくれ。わかんないっすよ。

消費税を上げるとかいう議論の前に、当たらない天気予報を行う組織や、家庭内暴力を見抜けない児童相談所など、無用の組織を解体解雇すべきなのではないですか?

結果を出せない組織は、民営化の上解体すべきではないですか。

あなたが例として挙げている組織は、
結果を出せない組織、ではなく、
結果が出せなかったときに目立ってしまっている組織です。
天気予報がどれほどの経済効果を生んでいるか、
また児童相談所の存在がどれだけ幼い命を救っているか、
マスコミがその部分を報道しないからといって、無視していいものではありません。
他にいくらでも指弾されるべき無用の組織があります。


例の挙げ方には賛同できませんが、
無用の組織を解体すべきというのは同感です。
ただ、なんでもかんでも民営化すればいいというものではありません。
民営化に結び付けて行く中でかかるコストを考えたら、
手っ取り早く潰してしまった方がいい場合もありますし、
抱えている借金を処理するために結局税金が投入される事だって考えられますから。
また、消費税増税論と行政改革論とは、切り離して考えるべきです。
税金を上げるとか上げないとかいう以前に、無駄な税金の出先を潰していくこと、
コストの概念を行政組織にしっかり植えつけて行くことは、
税制論議の一部でしかない消費税増税論よりもよほど重要で、
しかも急を要する議論では無いかと思います。


ちなみに私は消費税増税は反対です。


この手の議論を見ていると、論者の頭からごっそり抜け落ちている部分があることに気付く。
気付いていない人が多いのだろうか。それとも、気付いていてもあえて触れないでいるのだろうか。
実は、他の回答の中に、

私は、消費税を無駄遣いにして借金をした政治家たちの行為が許せません。
おそらく、これさえなかったら消費税を上げる必要は一切なかったと思います。
だから消費税を上げるとか考える前に、まずは政治家たちが自分で消費税を無駄遣いにした結果の借金をどうにかして無くすべきだと思います。
(抜粋)

というものがあって、それを見て考えてしまったのだが。


この回答者は多分そこまで考えて書いてはいないだろうし、これから私が書こうとしている内容など百も承知かもしれないので、この方の名誉のために付言しておくと、私がこれから書く内容は、別の議論を見ていて感じたことであり、この回答はあくまで書くきっかけに過ぎない。


確かに政治家たちはそうすべきだろう。借金を返すべきだし、その道を作るべきだ。そうするべく頑張っているのが近年の行政改革であり、歳出入の見直し。
だが、この手の議論をしている際に、一切見えてこない言葉があって気になっている。



「その政治家を選んだのは有権者だ」



絶対に有権者は忘れてはならない。
政治家がどうこうと文句をいうのは自由だし、政治家を断罪するのも自由だが、最終的な責任は政治家が負うものではない。
憲法の規定を思い出して欲しい。日本の主権者は誰であるか。
政治家? 首相? 天皇
いうまでもなく国民であり、主権者とは国に対し責任を持つ者のことでもある。
国民が各種の義務を果たすことと各種の権利を享受することで成り立っているのが国家だが、国民全てが三権に関与していたら非効率甚だしい、ということで専門家を置いているのがこの国のシステムである。そしてその専門家集団を選ぶ権利が、国民にはある。
政治家を選ぶ権利は国民に保障された権利であり、当然ながらその代償として、選んだ責任を果たす義務がある。
政治家たちが決定したことに従う義務だ。


その覚悟があって投票し、政治家を選んでいるのなら、誇りを持って政治家を断罪すればいい。言論によって政治家の姿勢を正すのも民主主義社会の市民の神聖な義務だ。
「自分は投票していないから選んでない、そんな責任は負えない」
というのは逃げである。はっきりというが、卑怯以外の何物でもない。政治に文句をいう資格などありはしない。
「過去の政治家たちの過ちまで現在の我々が負うわけにはいかない」
というのも逃げである。
過去の政治家たちだってさらにその過去の政治家たちの遺産を継いでやってきているのだし、当然有権者もさらに過去の政治家たちが決定してきた歴史を踏まえて政治家たちを選んできた。今を生きる我々だけが不条理な過去を押し付けられているわけではない。
現実を現実として認めた上で、ではどうしたらいいのか、どういう理想を掲げればいいのか、それを考え、自分たちが望む未来に一番近い理想像を持っている政治家を選ぶのが、市民の権利であり義務。
そんな当たり前のことに気付いていないとしたら、市民社会の一員を名乗る資格はない。ただそこにいるだけの置物だ。



政治家を擁護する気はない。だが、政治家も市民の一員であるということを忘れてはいけない。
ダメな政治家がいたら落とせばいいのだし、いい政治家がいないというのであればいい政治家を生み出せばいい。
何も今いる政治家たちだけで政治をやる必要などない。政治家も市民の一員なのだから、市民も政治家になれる。当たり前だ。
現行の政党に支持したいところが無い、というのなら、新党を起こせばいい。それができないなら、ベストはなくともベターならあるという考え方で選んで行くほかない。
いずれにしろ、投票をしないなどというのは政治に関して文句をいう権利を一切放棄する行為であることは間違いない。
政治家を生み出すのも育てるのも、腐らせるのも堕落させるのも、市民の責任である。その程度の覚悟も決めずに、よく政治家に自分たちの未来を託せるものだと、投票に行かないと断言したり、行くだけ無駄でしょと斜に構えてみたりする人間のアホ面を見るたびに、感心すらする。



実はここまでは前置き。
本当は児童相談所について書きたかった。



社会には、どうしたって利益があがりようも無い、だが必要というものがある。
そういう物を運営して行くために、税金を取って運営資金を作り、役人がついて運用して行く。
インフラ整備もそうだし、治安維持もそう。経済活動の監督監視も大事なもの。
政治家に託しているのはこれらの運用をどうすればいいかという方針の部分なのだが、それはまあ措いておく。



そういったものの中に児童相談所があったり、各種教育機関があるわけだが、特に児童相談所などの場合、本来地域社会が行うべきところを肩代わりしている組織なのではなかったか。
子供を保護するのは周囲の大人の当然の役目だが、それは理想論。子供一人保護するのにどれだけ負担がかかるか、またその保護者と渡り合っていくのがどれほど大変か、さほど考えなくとも想像がつく。
まして地域社会のつながりが希薄化している中で、周囲の支えも期待できないのに子供を保護しようとする酔狂者は、かえって地域社会のつまはじきになりかねない。何か下心や思惑があるのではないか、と、自分が無責任だから他人のことも無責任だと考える恥知らずが、この世には溢れているからだ。
私だって、突然近所の子供が助けを求めてきたとして、それを保護できる力はない。経済的にもないし、精神的にもないし、住居的にも無理がある。
そうなれば、児童相談所に頼る以外にない。



ここで考えたいのは、じゃあ地域社会はそれで安心してていいのかということだ。
任せる場所があれば全部任せる、というのは、無責任に過ぎやしないか、ということだ。
確かに税金を払って維持運営を任せているのだから、義務は果たしている。
だが、人間のやることである。児童相談所の仕事も、児童虐待も。
児童相談所がどんなに頑張ったって、子供の普段の様子を観察しようとしたら、近所の人々の目に勝つことはできない。近所の目があれば、の話だが。
また、親の監視もそうだ。
監視というと言葉が悪すぎるが、親だって人間だし、近所の歴戦のおばちゃんたちに比べれば、若い父母などはガキでしかなく、子供が子供を育てているように見えるだろう。
少なくとも昔はそうだったから、よく近所のおばちゃんやおっちゃんたちが若い親を叱ったり励ましたりする光景が見られた。
私が幼少期を過ごしたアパートは若い親が多かったのだが、中学生くらいの子供を持つ親たちが、保育園に通う子供をもてあます親を支えたり叱ったりする光景を日常的に見てきた。
20年前の田舎ではそういう光景も実際に見られていたということだ。



個人主義が広がっているから、とか、家庭それぞれの教育論によって子供を育てる風潮があるとか、そんなエセ文化人が金のために書いたり言ったりしている言葉に意味があるのか。
子供は社会の宝ではなかったのか。
親だって成長しなければ立派な親になどなれないのに、親を育てる仕組みが社会にあるのだろうか。
子供が子供を育てているとしか見えない家庭を放置するのが、個の尊重なのだろうか。
疑問は次々湧いてくるが、結論はない。
私には子供がいないし、家庭もない。そういう人間が何をいっても空論でしかないのだろう。
そう考えるとどうにもやりきれなくなってくる。



いずれにしろ、児童相談所がやれることには、法的にも、マンパワー的にも、人間の感情の部分でも、限界がある。
そんな事は誰にだってわかる事のはずで、ではその限界を補い、児童相談所にしかやれない仕事をサポートすることで地域社会の子供を守っていくという仕組みは、現代の日本では作れないのだろうか。
肉体的な暴力だけが子供への虐待ではない。無関心、という名の虐待(ネグレクト)だってある。
その全てを社会がフォローするのは無理だし、最後は親子関係の中で解決していくしかないことでもあるが、そう考えて干渉を放棄したら、孤立した子供はどこへ行けばいいのだろう。
泣くことすら許されない子供たちは、児童相談所が自分を見つけてくれるまで、希望の光も見えない闇の中でじっと膝を抱えているしかないのだろうか。
親という、子供にとっては世界そのものである存在が自分を否定している、その闇の中で。

伝心

好きな人に感情がないと言われてしまいました・・・。
彼女いわくデートを楽しみに来ていても私と
話しをするとテンションが下がるそうです。
私も楽しくないわけではないのですが、感情を態度で
表したり、表情に出したりするのが苦手なのです。
ちなみに私は口下手で話しがうまくありません。
どうすれば楽しい気持ちを伝え、彼女のテンションを
上げる事が出来るのでしょうか?
よろしくお願いします。


話は下手でもいいんです。
不器用でも構いません。
自分が、彼女といてどれほど楽しく思っているか、それをどうにかして伝えましょう。
自分の感情を表現するには訓練が必要なんです。
すぐに上手く伝えられるはずもないですし、失敗だって何度もしなければなりませんが、やらずにいるより何倍も自分を成長させられます。


口下手でごめんな、とか謝るのもいいんですが、自分が楽しいと相手に伝えられれば、相手だってもっと楽しめます。
彼女を少しでも幸せな気分にさせて上げられれば、あなただって気分がいいでしょう?
彼女を楽しませてあげるための努力だったら、厭う理由も面倒に思う理由も無いはずです。
しかも自分が成長できるチャンスなんですから、こんなに美味しいことはありません。
笑われても同情されても構いません。
楽しいよ、本当だよ、好きな人といられるだけで幸せだよ、このくらいのことは言って上げてください。


ポータルサイトの「知恵袋」というコーナーでは、質問への回答の中で最も役に立ったと質問者が判断した回答には、ベストアンサーというものが与えられる。
これが与えられると貢献度というポイントが上がったりするのだが、別に金になるわけでもなく、ただの自己満足である。
このブログで取り上げている質問と回答は、全て私が回答者に回ったものであり、ごく一部を除いてベストアンサーに選ばれたもののみを紹介している。
雷様の項だけは、質問が楽しかったものだからつい載せてしまったが、ベストアンサーに選ばれてはいない。



で、偉そうに恋愛相談に乗ったりもしているわけだが、上記の回答は「じゃあ、あんたは言えてるのかよ」という突っ込みを受けそうだ。
大昔、恋愛というものに全く縁も無ければ免疫も無かった頃ならともかく、20代になって以降は、自分の感情を相手に伝える事の大切さを様々な経験から学んだから(恋愛に限らない)、極力素直に表現できるように心がけている。
人の話を聞くと、私は素で相手が驚くくらいに平気で「好きだ」といえる人間なのだそうで、畳み掛けるように言うから聞いているほうが恥ずかしくなるという。行き過ぎも問題だろうか。
仕事場ではまったく別の論理(お世辞、社交辞令など)が働くわけだが。



表現力や語彙が無いから、あるいは照れくさいから、という理由で、自分の感情を相手に伝えることを怠る人間が多い。
これは大いなる間違いで、「察しろよ」「感じてくれたっていいだろ」というセリフがどう考えたって甘えでしかないことくらい、たいていの人間は気付いている。
手をつないだり、唇を重ねたり、スキンシップで相手と心をつなぐのも大事なことだが、これを怠る者も男の中には多い。スキンシップとセックスが同義語になってしまっていて、セックスの時以外は相手に触れようともしない、という精神構造を持つにいたっている大バカ者も多い。


上記のように話が下手だろうと、たとえば手をつなぐのがぎこちなかろうとも、相手に自分の気持ちを伝えるためにアクションを起こすことは非常に大事。
また、リアクションを求めてもいけない。
まず自分が伝えたい気持ち、伝えるべき気持ちを伝えるために、なすべきことをなす。それに相手がどうリアクションしてくるかは、相手の領分である。
リアクションが来る前に勝手に予測して勝手に対策を立てるのは、下手な駆け引きを挑むのと同義で、いい選択ではない。底意があるアクションと思われては、伝わるものも伝わらない。


恋の駆け引きもできないようでは一人前ではない、といわれそうだが、できる奴は誰かに相談しなくとも勝手にやっている。できないから悩むのだし、駆け引きができるような人間なら、そもそも相手に気持ちが伝わらないといって嘆く暇があれば、相手がこちらの気持ちに気付いてくれるよう仕組んでしまう。
駆け引きができないという自覚があるなら、しなければいい。
恋愛関係も、その他の人間関係も一緒である。
友達とも、顔見知りとも、上司や同僚、取引先とも腹芸などできない性格だ、という自覚がある人間の方が、世間には多いはずだ。そういう人間は、恋愛の場面でも気取って駆け引きなど挑んでもろくなことにならない。
人間関係の基本は、親子関係と恋愛関係。この二つを上手くやっていける人間に、人生の落伍者はまずいない。
この二つの関係を一般的に見たとき、最も大切なのは正直さと思いやりであることに気がつく。親子関係を考えれば、無駄に隠しごとをせず、親しき仲にも礼儀をもって接する。気心が知れているから気配りも気負わずにできるし、気配りに貸し借りの感覚もない。
逆にそれができていないと、親子だろうがきょうだいだろうが、いずれ無理が生じて感情のぶつけ合いに陥ってしまう。
恋愛も同様だろう。



また、伝えることも大事だが、逆に、相手が伝えようとしている気持ちを受け止めることも大事。
こちらがおろそかになると、気持ちが一方通行のまますれ違ってしまい、突然の破局に呆然とする羽目になる。
このパターンは私も何度も経験しているから、ここが私の最大の弱点なのだろう。私が本気で相手を好きになるとなぜか破綻する、というジンクスは、多分私自身に原因がある。
受身になっていればいいというものでは無いが、伝えたことに安心し、安住していてもいけないということなのだろう。

図書館戦争


久しぶりにまともに一冊本を読みきった気がする。
GW中に「十二国記」を今さら読みしたり、おなじく「模倣犯」を今さら読みしたりしたが、その後はサボり気味だった。
今日も別に本を読む気はなく、遅い昼食を採ろうとして街に出たはいいが暑熱にいたたまれなくなり、涼みに入った書店で偶然、一冊の本を手に取った。


図書館戦争

図書館戦争


これはライトノベルの範疇に入るのだろうか。
私はライトノベルに何度か挑戦し、その度に撃沈して来た経歴を持つ。
もしこの本がライトノベルだというなら、久々に私でも読めるラノベに出会った、ということになる。ラノベで無いなら、相変わらず私とラノベの相性の悪さは維持されているということになる。
カテゴライズにさほどの意味があるとも思ってはいないのだが。


書店で目の端にタイトルが止まった時、私は著者が筒井康隆かと思った。
私は筒井の熱心な読者では全くなく、読了した本は片手の指で足りるほどなのだが、ほとんど偏見にも似た思い込みの中に、彼の作品には「図書館」と「戦争」というように、結びつきにくいものを結びつけて驚倒の物語を提示してみせるものが多いはず、というものがある。
寄ってみると、装丁もきれいだし、どこか不条理感を漂わせたカバー絵が目を引いた。
チラッと読んでみると、発想がいい。図書隊と良化委員会の血の抗争、主人公としてのポテンシャル充分のヒロイン、軽妙な台詞回し。
このところ、軍事ネタが軽く入るエンターテインメントというと、福井晴敏のものばかりだったので、彼のものに比べればずっとライトな読み口の本が気に入ってしまったという面もある。「Op.ローズダスト」も非常に面白かったのだが、ちょっと重かった。
ちなみに。


Op.ローズダスト(上)

Op.ローズダスト(上)


さして大部ではないから一気に読んでしまったが、それほど重々しい物語ではない。考えさせられる部分はもちろんあるし、激しい戦闘シーンもあるのだが、基本的に全ての描写が軽い。悪い意味ではなく、乾いた軽さがある。
重厚な物語と重々しい描写こそが文学である、などと強弁するほどの読書家では無いし、小難しい顔して小難しいものを読んでいられるほど無粋じゃない、と揚言するほど気取れもしない人間としては、たまにこういうのもいいな、と素直に感じた。
基本的に、この作者はライトな作風なのだろう。天下国家を俯瞰するような視座でもなければ、地面を這いずり回るような執念で細部を詰める視座でもない。
ちょうど青年誌でマンガにしてもいいような、気安さも現実感も適度にある語り口。高校生あたりに、夏休みの一日を潰して読んでみても悪くないよ、と勧めたくなるような一冊だ。


物語は、図書館が「良化委員会」という名の検閲機関との紛争状態に入っている世界で、読書の自由を守るために、図書館の武装組織「図書隊」に入隊した主人公が、暴走したりへこんだり妙な恋話に巻き込まれたり鬼教官にしごかれたり、という、ある種の青春ストーリー。
キャラは立っているし、撃ったり撃たれたりというシーンもあるが、それほど陰惨だったり凄絶だったりはしないので、安心して読める。
もちろん戦争礼賛の物語ではないし、願望充足の物語でもない。軍事オタクの喜ぶような描写もない。ホラーやスプラッタ好きが喜ぶような場面もまず無い。
気負わずに、エンターテインメントとして読むのなら、こういうものもいいと思う。
もっと胸を突くようなエンターテインメントを、というのなら、それこそ福井を読めばいい。映画化ラッシュも過ぎて旬から外れたところで、あえて読み始めるのも一興。
個人的には∀(ターンエー)ガンダムのノベライズがとても好きなのだが、これは多少人を選ぶ気がする。ガンダムの予備知識など一切無しで読めるのだが、SFがダメという人にはきついかもしれない。

フラクタル

マンデルブロ集合

今日は珍しく画像を多用。

フラクタルの基礎とは何なのでしょうか?教えてください。

簡単にフラクタルを説明してくれということですか?
それとも基礎的なフラクタルの例を示してくれということですか?


ちょっと質問が曖昧すぎるので、フラクタルそのものを説明することにします。
ざっくりといえば、自然界に現れる自己相似性を、同じ式の繰り返しで表現しようとする幾何学のことです。
自己相似性というと難しそうですが、たとえば木を考えましょう。
木の全体をみると、大きな幹に枝が付いて分岐し、だんだん細くなっていき、全体として茂っています。もっと小さく見ると、大きな枝には小さな枝がつき、同じようにだんだん細くなっていきます。
さらに小さく見ると、小さな枝には梢が付いてさらに細くなっていきます。もっと見て行くと、葉っぱの葉脈も太い物から細い物が出て分岐をくり返します。
このように、同じような規則性で出来ている物を「自己相似性がある」というわけです。
海岸線などもそうです。
地図上で見て複雑な地形は、実際に見ても複雑で、岩やその岩のくぼみ、くぼみの中の凸凹など、細かく見ていけばどんどん複雑になります。



この、規則的ではあるけれど、一般的な数学では説明できない物を説明するために生まれたのが、フラクタルの概念です。
よくフラクタルの象徴として紹介される「マンデルブロ集合」「ジュリア集合」は、フラクタルという概念を実際に式にして、その式をくり返すことで出来上がる幾何学図形です。
ちなみに語源はラテン語の「壊れた破片」、命名マンデルブロという数学者です。


ティアラとも王冠とも見える。どこか適当に一部分を切り取って拡大すると、これと同じ物が出てくる。数学的には無限にこれが続いて行く。

こちらは回答の中にあるジュリア集合。

これがその拡大図。

ちなみにトップ画像のリンク Wikipediaより


画面上でわかりにくいかもしれないが、この二つの図形、どちらも小さく見ていけば見て行くほど、同じパターンがひたすら続くことで出来上がっていることに気付かされる。
視覚的に見るのが、フラクタルは一番わかりやすい。
「自己相似? なんね、それは。子供は自分に似るってことかね?」
と思われた方も、たとえば下の絵を見せて、
「ほら、なんか巻貝みたいなのがありますけど、この巻貝を小さく見て行くと、同じ形の小さい巻貝でできてるでしょ」
と説明したら一発で理解できる。つまり、そういうことだ。



数学的な定義を理解しようとすると、当たり前だが高等数学が必要になる。一般的な高校数学では歯が立たない。
なにしろ、次元が整数ではない。
点がゼロ次元。
線が一次元。
面が二次元で、立体になると三次元。
少なくとも一般人はそう習って生きてきているし、SFに多少興味があれば、時間を加えて「四次元時空」などと呼ぶことも知っているだろう。
だが、数学の世界では、次元というものは整数である必要がない。1.4次元などという表現が当たり前に出てくる恐ろしい世界だ。
フラクタルという概念では、この整数でない次元や、有限的な無限という概念がしょっちゅう出てくる。出てくるだけならまだしも、数学なのだから当然数式で表さなければならない。
上掲の画像だって、数学の式を画像処理しているに過ぎない。逆に言えば、数式ひとつであの複雑極まりない画像を描き出せるのだから素晴らしく美しい世界なのだが、数学が未知の世界という人間にとっては、「なんのこっちゃら」である。



だが、これを見て欲しい。



植物のシダ、のように見えるが、これは、直線の途中から何本か斜めに短い直線を延ばす、という至極単純なルールに従って描画されただけの線画である。
これが示すこと、それは、自然界もフラクタルでできている、ということだ。
最もわかりやすい例が雪や塩の結晶だろうか。
今は無き(いや、あるけど地に堕ちた)雪印のマーク、あれの元になっているのはもちろん雪の結晶だが、写真などでいくらでも見ることができるあの美しい結晶は、自然界が見せてくれるフラクタルの見本。
きちんと結晶化して降ってきた雪を顕微鏡でのぞくと、必ず規則正しいかたちをして、しかもどこか一部分を拡大すると、全体と同じような形をしている。形が自己相似系なのだ。
上の画像の「なんちゃってシダ」も、実際のシダが見事にフラクタルで説明できる形をしている証拠であり、人間ごときが数学でごちゃごちゃ理屈をこねなくとも、自然界には美しい論理があふれているという証拠でもある。
数学とは自然を記述する言語でもあるのだが、数学が全くわからない私などでも、こういう物を見せられると、「数学は美しい」といわれる理由がわかる気がする。