反抗期

 現在になっても、反抗期が無い子供を持つと、親にとっては安心の材料なのだろうか。




 地下鉄サリン事件から10年たつということで、色々な特番が組まれている。あまり見る気にはならないが。
 オウムが起こした諸事件については、私は無知な人間。当時は飽きるほどニュースが流れていたから、概要くらいはもちろん知っているが、ワイドショーや週刊誌をいちいちチェックしたりはしていなかったから、この史上稀に見る劇場型犯罪といわれた一連のオウム事件を、それほど深く知っているわけではない。しかも、次々に起こる事件事故の類におされて、記憶も定かではなくなってきている。
 そういう人間がいるから、二度と悲劇を起こさないために、追悼の番組が流されたりするのだろう。
 つい最近、子供について考える機会があったために、オウム関連のことも、子供に絡めて考えたりした。



 地下鉄サリン事件に限らず、教団に関わった若者の多くが、反抗期が無い、素直な良い子だったという証言がある。いくつものルポルタージュや特集記事で目にしたが、知人たちは口をそろえて「おとなしくて周囲に協調もできる素直な良い子」だったという。
 大人しいやつほどキレると怖い、などといわれたものだが、もちろんそんな底の浅い話ではないだろう。大人しくないやつだってキレれば怖い。
 この、反抗期が無いということの意味は何なのだろう。
 発達心理学など、心理学や精神病理のフィールドから様々な意見が出され、今も出され続けているから、それについて調べて読めばいい話だから、ここで専門的なところに触れて恥をかくような事はしない。素人が偉そうに何をいったところで、臨床家や研究者、心理学に対し造詣が深い在野の研究家に比肩できるはずもない。
 だからこの先の文章は個人的な感想だったり実感だったりして、少しも客観的な意見ではない。と、一応逃げておく。



 反抗期にはふたつある(もちろん個人差は大きいが。)、というのはよく知られた話で、3歳から4歳くらいの子供が急に生意気になったり親のいうことにいちいち反抗したりするのが第一反抗期。はたから見ているとかわいいものだが、親にしてみればどうなのだろう。小憎らしいけどやっぱりかわいい、という程度のものなのか、ぶったたいてでも大人しくさせてやる誘惑との戦いの日々なのか。
 世間で反抗期、というとき、たいていの場合はその後に訪れる第二反抗期のことをいう。
 第二反抗期は思春期後期と重なっている場合が多い。体が大人になっていくにつれ、それまで子供としてのみ扱われていた環境も変わるし、ホルモンバランスの崩れという生理的な理由からも感情が激しやすくなったりするし、世知の部分についてもだいぶ身についてきて親に依存することが少なくなるし、というわけで、精神的な独立を求めて周囲に反抗するようになる。
 体が大きくなっていて、それなりに理屈もいうようになっているから、第二反抗期は家庭にとっても社会にとっても負担が大きい。だが、これをくぐり抜けないと、自我の独立性が生まれてこないとされる。
 社会の動物である人間が、一人前に社会で生きて行くためには、自我の独立性は非常に重要。自分というものが多少なりともしっかりしていないと、周囲に流されるだけのふらふらした人間になり、生活の基盤を築くことが難しくなる。それは物質的にもそうだが、精神的な部分でより大きい。
 人から与えられた規範だけに盲従するタイプの人間では、自分の頭で物を考えることをしないから、何か突発的な事件が身の回りで起きたときに対応できない。反抗期に、周囲との衝突や社会の矛盾の狭間で苦悩した経験を持っていると、とりあえず自分で何とかしようと考える。周囲の力を借りるにしろ借りないにしろ、その判断を下すためには、自分の考えというものが無いと不可能。決断というものには、自分なりの考え方というものが不可欠だからだ。




 反抗期が無い、という場合、パターンは大きく二つある。
 ひとつは、反抗期があったように見えないだけという場合。つまり、周囲にいちいち反抗はしないものの、内心ではしっかり反抗していたし、時折それを外にも出していたのに、周囲にはそれが見えなかったという場合。内心に溜め込んでいる分、ストレスも大きいが、爆発する事は意外に少ない。爆発するだけのエネルギーを持てない、というタイプの人間であることが多いからだ。感情の起伏が穏やかで、いわゆる低血圧タイプに多い。表立って反抗するほどにまで内圧が高まると暴れたりするが、暴れ慣れていないから、周囲にしっかりした人間がいればすぐに収まる。ただ、対処を誤ると鬱になったり境界例などの精神疾患に陥ったりもするから、扱いは難しいかもしれない。
 もうひとつは、本当に反抗期を迎えないタイプ。
 これはちょっと私の理解を超えている。なぜ大人や社会に反抗心を抱かずに大人になったのか、ということが理解できない。
 ひとつには、親なり周囲なりから与えられた規範、言葉は悪いが支配、そういったものに対して疑問を抱くことがない、ということなのだろうか。あるいは、反抗できないほどに支配が厳しく、自分で物事を考えることを放棄してしまっているのだろうか。





 第二反抗期では、何もかもが不安定な状況の中に放り込まれる。
 体は不完全で、内分泌系も乱れているから、単純に脳の化学系が乱れているために精神的に不安定になりやすい。
 また、恋愛というものが性欲のレベルで身近になってくると、衝動を抑えるために苦労することになるし、知識も経験も無いことに対する感情の乱れが、激しい情動を産むきっかけにもなる。人間関係を構築して行く上でも、異性の存在がそれまで以上に重要になってくるが、最初からうまく行くわけがないのだから(大人になったって難しい)、未熟な自分に対するもどかしさや苛立ちも際立ってくる。
 恋愛を除いても、友達との人間関係の構築は難度を増していく。誰もが不安定なのだから、安定した関係を続けていくのは難しいし、人の心にどれだけの距離を保って付き合っていけばいいかを知らないがために、不用意に飛び込んで傷ついたり傷つけたりする。
 なにより、自分をくるんで保護していた大人たちの懐がたまらなく居心地の悪いものになってくる。自分で考え、自分で行動したいのに、大人たちはそれを排除しようとするからだ。
 別に反抗期の子供に限らないが、誰かを保護しようとするとき、保護される側が大人しくいうことを聞いてくれないと、難しい。だから、良かれと思って保護を強めるのだが、それが支配と取られると反抗のきっかけになる。
 治安も悪くなっているし、青少年を対象にする犯罪は過激度を増して行くように見えるから*1、子供を守るために親や学校、社会が保護を強めるのは当然の流れだが、それが子供には強い支配に思える。支配は不快である。だから反抗する。




 その嵐の中に同時に叩き込まれる親や学校にとっては大変な騒ぎだが、これが無い場合のその子供の将来は、不安ではないだろうか。
 たとえば人間関係。友達とも喧嘩せず、不用意な恋愛沙汰で騒ぎも起こさず、ほどほどの人間関係を最初からわきまえている、というのは、相手の心に飛び込んだりぶつかり合ったりするだけの精神的なエネルギーが無いか、早くから人間性について諦めのような感情を持ってしまっているために不完全な人間関係しか築けないか、というところではないかと思ったりする。
 人間関係の泥沼というものを経験せずに成長した人間は、人間がどんなときにどんな対応をするかというテストケースを体験していないから、それがわかりにくい。体験から導き出される考えというものは、それがなくて導き出される考えよりもはるかに現実感覚を持っている。現実感覚が欠けた人間関係への考え方は、一人よがりになりやすいから、いざひとりで関係性を構築しなければならない場面に放り出されたとき、浮世離れした行動に出て周囲を唖然とさせたりする。
 自分の話をきちんと聞いてくれて、認めるものはちゃんと認めてくれる大人がいると、子供はその大人を軽蔑したりはしない。一方で、相手を子供だと思ってなめた態度を取ったり、大人である自分たちの正しさを押し付けたりする人間がいると、子供は軽蔑する。軽蔑している相手の言葉が胸に染みるはずもなく、大人など馬鹿ばっかりだと考え、唯我独尊的な考えのまま、自分の未熟さを棚に上げて突っ走り、周囲を巻き込んでとんでもない事件を起こす少年もいる。反抗も、あればいいというものではないという好例だ。
 だからといって反抗すべてを封じ込めればいいというものでもない。
 そのバランスの取り方が難しいのだろう。
 人間関係の苦労をしていれば立派な人間になれるか、といえば、もちろんそうは言い切れない。苦労している人間は、他人にもその苦労を強要する部分がどうしてもあるし、自分は苦労してきたという意識があるから、自分ほど苦労していないと思っている相手に対して、自分より苦労が足りないという理由だけで相手を全否定したりする。
 人に傷つけられた経験ばかりを溜め込んだ人間には、相手を傷つける関係性しか築けず、自壊していく者も多い。
 単純に苦労すればいいというものではなく、苦労をして何を得ていくか、という部分が問題なのだろう。




 じゃあ親はどうすればいいの、という話になるが、これについては私に発言権は無いだろう。子育ての経験もなければ、教員として教育現場に携わっているわけでもない。人の意見を聞いて「ははあ、なるほど」とうなずくのが精一杯だ。
 ただ、これだけはしちゃいけないんだろうなあ、ということはある。
 理想的な親を演じることだ。




 親が理想を持つのは、構わないだろう。理想も無しに現実に立ち向かったところで、目指すべき像がないから、おろおろするだけで一向に前に進まない。
 ただ、演じるのは良くない。
 多くの場合、親が理想の親を演じるとき、観客となるべきは子供ではなく世間である。世間に対し、自分たちはこんなにいい子に恵まれ、こんなに幸せに暮らしています、という演技をする。
 そのためには、子供が自分たちの思うように育ってもらわなければならない。反抗するにしても、自分たちの想像力、あるいは許容力の範囲内でなければならない。だが、世間体を気にして子育てをするという段階で自らの懐の浅さを露呈しているわけで、反抗など許す余地があるはずがない。
 親が、自分の発達よりも世間体を気にした時、子供はそれをどういう目で見るだろうか。
 自分よりも世間体を大事にする親に対して、子供はどんな感情を抱くのだろうか。
 同じ反抗を押さえ込むような行動でも、自分が傷つくことをいとわずにぶつかってくる親と、子供の意見をまったく聞かないか、聞いた振りをして素通りしてしまう親と、どちらがその行動に対して責任を取っているか。
 人に迷惑をかけるな、という躾をするのは当然のことだが、子供が実際に他人に迷惑をかけた時、演じる親は子供を見ない。世間に対して謝罪し、世間に対して躾をする。子供はその親をどんな目で見るのだろうか。




 思い切り自分勝手な感情論だが、私が見ていて腹が立つのは、子供が育って独り立ちしたとき、自分が育てた作品として子供を見て、こんな大人に育て上げたのは自分の功績だ、と自賛する親を見ることだ。特に、若いうちに成功した人間の親に多い。
 子供の人格は自分のものだと考えているから、子供が批判されると烈火のごとく怒るし、自分と子供を引き離そうとする動きがあるとこれまた怒り狂う。子供の成功は自分の成功だから、子供と同様の発言権があるかのようにあらゆる場所にしゃしゃり出てくる。
 子供の人格を、独立した一個の人格として認めるなど、こういう親にはできない相談だ。だから、たとえば子供が、成功したことを基盤にして自分なりの生活を送っていきたい、という至極当たり前のことを考えたとしても、決して許さない。恋愛などもってのほか。
 子供が自分から離れていこうとするとき、そういう親はそれを裏切りとみなす。ここまで育ってやったのは自分なのに、その恩も忘れるような人間に育つとはなんということか。何か悪い人間に騙されているか、宗教にでもかぶれたか、いずれにしろ、そんな悪い状況からは是非にも救い出さなければならない、というような考え方をする者もいる。
 世間が自分を認めてくれることと、世間が自分の子供を認めてくれることとが、そういう親にとってはまったく同じものとして捉えられてしまう。だから、子供が社会に認められる事は、親が認められることでもある。子供の光は自分の光でもある。だから、一度光った子供を、そういう親は決して離そうとしない。
 金銭目的で子供にたかる親、というのも、一端にはこの原因があるのではないか。ステージママ、というのもそうだ。




 私は幸いにして、演技する親を持たなかった。父は中卒だし、母も大学に行ったわけではないから、子供に進学してもらいたいという願望はあっても、それが至上命題という事はなかった。私たち兄弟が進学に挫折したとしても、あるいは成績が悪くなっていったとしても、それを理由にネグレクト*2にいたる、ということはなかった。
 どちらの親も内向的だったため(本人たちは否定するかもしれないが、一番近くで見ていた私たちから見れば、やはり内向的だった)、気質的にもともと内向的だった私がますます内向きの人間になった可能性は無いわけではないが、それも社会生活に耐えられないほどのものではない。こうして仕事をして一人で食っていけているのが何よりの証拠だ。
 人間だから欠点などいくらでもあるし、さして優れた頭脳の持ち主でもなければ、なにか一芸に秀でているわけでもないが、自分ひとり食わせていけて、社会の中でほんのわずかでも貢献ができている、そのことに些少ではあっても誇りをもてている。
 そういう私の存在が、親にとっては充分成功として捉えられている。つまり、人間をとりあえず三人、飢え死にさせもせずに育てきれれば大したものだ、という考え方だ。あまり面と向かっていわれると「じゃあ世間的には失敗作でも、食ってさえいければいいのかよ」と文句のひとつもいいたくなるが。
 引きこもりも経験したし、たぶん人格上の欠落があって結婚はおろか親友の一人も作れないでいる私は、世間から見れば、人間的な意味での落ちこぼれだ。それでも食っているというだけで肯定できる親がいてくれるだけで、ずいぶん救われている面がある。ただ、その羽交いの中に安住できるほど素直には育たなかったようで、今はこうして親から完全に離れて暮らしているのだが。
 親が、自分の子供について自慢するのは悪いことではない。
 ただ、程度というものがある。
 子供に依存しすぎて、あるいは子供に自己を同一化させている親を見るのは、あまりにも情け無い。子供に依存してしか自分の生き方を通せないような、そんなつまらない大人に育てられる子供が哀れだし、哀れな子供に依存する親もまた哀れだ。




 だいぶ反抗から話がそれてしまったが、反抗期を迎えずに成人した子供たちに対して、私は恐怖感すら感じる。自分で物を考える訓練を受けていない人間が目の前に現れたとき、わたしはどうしていいかわからない。
 自己像を客観的に見る能力も、自分で物を考える能力も、社会のコンセンサスとしての規範を遵守し生きていく能力も、反抗期という時期を経て身につくものだと思っている。それが無いとしたら、そういう人間に対して何を言えばいいのだろう。

*1:実は私にはその見方に疑問がある。形が違うだけで、昔だって子供を食い物にするひどい事件がたくさんあったし、そのことを棚にあげて今はひどいと嘆くのはどうも視点がずれている気がする。

*2:無視すること。ないがしろにすること。子供に一切干渉せず、放任というより放置すること。