広島の犠牲者に捧げる哀歌


過去、チャイコフスキーピアソラについて書いた。章立ててはいないが、米米クラブにも触れた覚えがある。
いずれにしろ、あまり同好の士というものに出会ったことがない。
特にクラシックの分野ではそうで、なぜそんなもったいないことができるのか私にはわからないのだが、私の同年代の人間の大方がクラシック音楽を敬遠する。なにか、気取っているような雰囲気がして、馴染めないらしい。妹などはクラシックを聞くと頭痛がするといってはばからない。
ロックやポップスに馴染んできた人間にとって、クラシックは高い垣根が存在する音楽らしい。「癒し」というのを音楽に求める人々の占有物になってきている観さえある。
これは馬鹿な話で、確かにクラシックには癒しの要素を追求したものもあるが、その多くは刺激を追及して作られたものである。その点で、ロックと何の変わりもない。記法が異なるだけだ。
だから私は、ショスタコーヴィチメタリカを交互に聞くことに何のためらいも感じないし、ラフマニノフの三番を弾くアシュケナージと語りかけるように歌う井上陽水の声のどちらにも惹かれる。


歌えない音楽など雑音だ、と、あるとき妹が言い放ったことがあったが、ここまで極端ではないにしても、そんな風に音楽を捉えている人間が実は世間には多いらしいということを考えると、自分が意外に少数派なのではないかと不安になったりもする。
なにしろ、自分と同じような音楽の趣味を持っている人間が、少なくとも私の知り合いにはいないのだから仕方がない。


もっとも、私が明らかに悪い、という面もある。歌詞が、私にはあまり聞こえてこないのだ。
歌の持つ最大の要素は、メロディラインと歌詞だろう。その両者がそろってさえいれば、演奏が多少下手だろうが、歌唱力が伴っていなかろうが、人を感動させてしまうことは可能だ。
だが私にとって、あまり歌詞というものは重要ではない。歌うことは好きだから、それをするために歌詞を覚えたりすることはあっても、歌詞が気に入ったという理由でアーティストに惚れこんだ経験はあまりない。
歌の歌詞に慰められた経験もなければ、勇気をもらった経験もない。歌詞に感動したこともない。椎名林檎の歌詞のセンスに驚いたことはあっても、それは歌詞に対する驚きというより、そんな言葉を使って歌を作ってしまうアーティストとしての才能に驚いたというほうが正しい。


また、ファッションやスタイルというものにあまり関心を抱けない野暮な性格が災いして、それこそ音楽を自分から聴くようになった頃から、あまり流行の歌やアーティストというものに共感したり影響されたりした経験がない。もったいない話といえば、いえる気がする。



前置きが長くなってしまった。



ブリテン:戦争レクイエム

ブリテン:戦争レクイエム


ブリテンの「戦争レクイエム」がタイトルになっているが、私が取り上げたいのは、実はその曲ではない。
もともとは「戦争レクイエム」を目当てに買ったのだが、この中に同時収録されている9分にも満たない短い曲に、私は非常に興味を惹かれた。
ポーランドの現代音楽作曲家であり、著名な指揮者でもあるクシシュトフ・ペンデレッキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」という曲だ。「哀歌」、と略されることが多い。
クラシックに馴染みのある人でも、現代音楽も聞きます、という人は少ない。私もさほど現代音楽を愛好しているわけではなく、そもそも半分引きこもりの生活を送っている人間には、現代音楽の音源を購入しに外に出るという行為は清水の舞台というべき代物だ。飛び降りようにも、どこに行けばいいかわからないし、わかったところで飛び降りる気力もない。
というわけで、ごく一般的なCDショップで購入できるようなものしか聞いたことがなく、このCDもその範疇といえる。
タイトルに出ているブリテンという作曲家は、現代音楽家とはいいがたい。現代音楽に馴染めないままに、昔ながらのクラシックの技法を用いて戦争の惨禍を描いた。彼の出身地イギリスは現代音楽が馴染まない土地なのだそうで、彼のような新古典主義的な作曲家が人気を集めるらしい。



一方、私が取り上げるペンデレッキの「哀歌」は、まったくの現代音楽。ペンデレッキ自身は現代音楽に拘泥せず、新古典主義的な作品も作ってはいるのだが、「哀歌」に関しては、容赦無いほどに前衛的である。
まず、メロディがない。まったくない。
リズムもない。
和音もない。
トーンクラスター、というのだそうだが、音の塊をどんと楽譜の上に置き、それをそれぞれの奏者が思い思いに再現していき、その集合体が結果として音楽になっている、というような代物。そこに統一されたリズムや和音はなく、タイミングを合わせて同時に鳴ったりすることはあっても、そこに調和や安定というものはない。
映画「2001年宇宙の旅」で、モノリスが出てくるシーンに使われた声楽曲もかなり前衛的な、攻撃的なほどの曲だったが、この曲はその迫力に勝っている気がする。
弦楽器が、普通に弾かれているだけではない。かきむしられ、叩かれている。歪んだ音が四方八方から押し寄せ、不意に消えたり、強いヴィブラートを効かせて立ち現れたりする。
ソノリズム、という手法だという。sonorous、つまり鐘や雷などが鳴り響くという言葉から来ているのだろうか。由来を知らないからなんともいえないが、人間によって恣意的に造られた音ではなく、自然が生み出した無作為の音、という物を目指す音楽形式であると解釈すれば、ソノリズムという表現はぴったりといえる。




大量破壊兵器には、人間の香りがしない。
大量破壊兵器登場以前の兵器には、それがどれほど残酷で醜悪であろうと、人間を殺そうとし、あるいは殺される恐怖から逃れようとする人間の意思が、常に存在していた。槍にしろ刀剣にしろ、飛び道具である銃ですら、殺人の意思を持つ人間の香りというものを持っていた。
それは、使い手が常に相手を意識しなければならないからだ。相手を意識し、その存在を抹殺するという意思があって初めて、それらの兵器は実行力を持つ。
だが、原爆にまで至ってしまうと、そこに人間の意思は感じられない。特定の誰かを殺すためではなく、完全に不特定多数の人間を、数量的に、記号論的に殺戮するために存在するのが、大量破壊兵器だからだ。
使い手の感情や冷酷さなどはそこからは感じられず、犠牲になっていく者の意思さえ、かき消されてかけらも残らない。使い手には、その兵器によって殺されていく人間の姿はまったく見えないし、想像もできない。意識することがない。



「哀歌」は、そのことを音楽にしたらこうなる、と宣言しているかのように、聞き手を攻撃してくる。
メロディやリズムというものが人間の意思から産まれるものだと考えれば、それが存在しない「哀歌」は、人間の香りをまったくさせていない。大量破壊兵器のように、ただ相手を破壊するだけで、それは自然現象と同じように、殺戮者としての人間の姿を、あるいは殺戮される犠牲者としての人間の顔を、特に意味あるものとしては扱わない。ただ、そこにあるものとしてのみ描かれる。
そこにあるのは、特定の対象を求められない、ただ圧倒的な熱量と圧力で全てを焼き払う何物かに対して向けられる、得体の知れない恐怖である。
押し付けがましい悲劇など、そこにはない。記号になってしまっているといえるほどに象徴化された恐怖だけが、スピーカーから流れ出てくる。聞く者はその前で呆然とするしかない。



もともとこの曲は、原爆をイメージして作られたわけでも、広島追悼のために作られたわけでもない。前衛作曲家としてのペンデレッキが、「8分37秒」というタイトルで作った曲である。
つまり、原爆や広島とは何の関わりもない曲だった。
それが後に、ホロコーストを知る彼がヒロシマのことも知り、その惨状と鎮魂に思いを馳せたときに、この曲がまさにヒロシマに捧げるにふさわしい曲だ判断し、改題したものだという。
が、どのような経緯があったにせよ、曲の偉大さは少しも欠けるところはない。
犠牲、恐怖、破壊、死滅、そういったイメージを、視覚的なイメージも許さないほどに提示してくる音楽。この曲以上のものがあるのだろうか。